17.月見丘の幽霊
月見丘にはそれはそれはたくさんの人が集まってきていました。ビスとクルトンは近づくにつれ、その殺伐とした空気を読み取って、段々と近寄って行くのが怖くなったのですが、幸か不幸か、月見丘を登りきる前に、あちらの方からぞろぞろと帰り始めたので、ビスとクルトンは月見丘に集まった一行と鉢合わせする事となったのです。
「おや」
と、ビスとクルトンの姿を見て眉を潜めたのは、《お面キツネ》と呼ばれている警察のお兄さんでした。彼は、《雪狼》のフレイズ・ベリーの相棒としてよく活動しているらしいと、ビスとクルトンも風の噂で聞いたことがあります。
「君達も幽霊を問い質しに来たのかい?」
《お面キツネ》のお兄さんに問われ、ビスとクルトンはおずおずと首を横に振りました。すると、お兄さんは軽く笑みを漏らして、二人の頭にポンと手を置いて言いました。
「まあ、様子が気になったってところか。うん、幽霊が犯人だなんて誰が言いだしたんだろうね、全く」
《お面キツネ》のお兄さんは呆れたように小声で呟きました。まるで、ビスとクルトンにだけ漏らしたかのようです。どうやら、彼は別に幽霊を信じてここに来たようではないようです。
「ともかく、幽霊がいっこうに出てこないもんだから、今日のところは帰ろうという話にまとまったところだったんだ。君達はどうするんだい? 月見丘の景色でも眺めていくかい?」
《お面キツネ》のお兄さんの独特な口調に問われながら、ビスはぼんやりとしつつも、はっきりと肯きました。
「はい。せっかくなんで、ちょっと眺めを楽しんでから帰ります。……クルトンは?」
「えっ、あっ、おれ……あ、ボクも!」
いつもは俺っていっているクルトンの慌てた「ボク」が可愛かったのか、《お面キツネ》のお兄さんはけらけら笑いながら肯きました。
「そうか、そうか。んまあ、それがいいね。せっかくの眺めだもの。生きている限り、目に収めていて損はないよ」
そう言うと、《お面キツネ》のお兄さんは去って行きました。他の者たちも、ぞろぞろと去って行っています。《お面キツネ》のお兄さんとは違って、彼らにはまったくビスとクルトンに興味を持たないようです。中には知っているおとなもいたのですが、ビスとクルトンを全く気にせずに行ってしまいました。
ビスはじっと全員の背中を見送ると、クルトンに言いました。
「じゃあ、ちょっとあがってみようか」
丘の上まで上がって行って、ビスとクルトンは広い空と美しく並ぶ街並み、所々に咲く花々を目に焼きつけました。立っている場所も、緑の絨毯が敷かれているかのように草が生い茂り、花が隅々に咲いています。その真ん中。丘の上の一番高いだろうと思われる場所には、石碑があります。ビスもクルトンもこの石碑の存在はよく知っていましたが、これが何の石碑なのかは今の今までよく知らなかったのです。
ビスは今までになかったくらいじっと石碑を観察してみました。石碑に彫られている文字は、かなり霞んでいて、読めません。
「デュ……ト?」
何が何だかさっぱりでした。
「なんて書いてあったんだろうね?」
ビスは何気なく問いながら石碑を調べ続けました。
「分からないねぇ」
「何だかもう少し目を凝らせば分かりそうなんだけれどさ……」
「吾輩も、忘れてしまったからね」
ビスはそこでやっと気付きたくなかったことに気づいてしまいました。「なんて書いてあったんだろうね」という問いに対して答えた声。そして、「吾輩も、忘れてしまったからね」という声。この声は、どう考えても、クルトンの声ではありませんでした。ビスの知り合いを思い出してみても、こんな声でしゃべる人なんていません。
ふと、ビスが石碑を調べるのを止めて脇に立っているクルトンを見上げると、クルトンは真っ青な顔でぶるぶる震えていました。
「クルトン?」
寧ろ、さっきの声よりも、クルトンの方が心配なくらいでした。
「いいいいいいいいいいまの声、ななあななんあなあななあにいい?」
クルトンがここまで驚いてくれたので、ビスは逆に冷静にこの場の状況を把握する作業に移る事が出来ました。なるほど。見たところ、この月見丘には、ビスとクルトン以外の人はいないようです。つまり、さっきの声の主は、見当たらないのです。
「吾輩、すっかり自分の名前を忘れてしまってねぇ」
「ぎゃぁぁぁぁぁああああああああ!」
クルトンの叫び声がうるさくて、ビスはそっちにびっくりしてしまいました。むしろ、声の方は冷静に捉える事が出来ました。そして、疑問は声に対してではなく、声の主に対して向いていきます。
「あなたが丘の上の幽霊さん?」
自分でも冷静すぎやしないか逆に心配なくらい、ビスは冷静に訊ねることが出来ました。ふわっとした風が、石碑の方から吹いてきました。今になってみれば、ビスにもクルトンにも分かります。その石碑は、慰霊碑だったのです。
ゆっくりと時空が歪むように、その幽霊は出てきました。その姿は、《アナグマ》のようでした。どんな《アナグマ》なのかは、幽霊となってしまった今となっては分からないのですが、ともかくその幽霊の姿が、ビスとクルトンの目には映っていました。
「そうさ。吾輩が丘の上のたったひとりの幽霊だよ」
《アナグマ》の幽霊はそう答えました。こうして現れてしまうと、不思議と冷静に対処出来るものです。けれど、ビスとクルトンの頭と心の仕組みは、こういった点では違う作りをしていたようです。固まってしまって何も言えなくなったクルトンの代わりに、ビスは、はじめて姿を現せてくれた幽霊に出来るだけ情報を貰おうと、構えました。
《アナグマ》の幽霊は腰から何かを下げています。ひょうたんのようです。その中に入っているのは酒なのか、少しだけ鼻をつくような匂いがビスにも感じられました。《アナグマ》の幽霊はそれをひと飲みすると、じっとビスとクルトンを見つめ、再び声を発しました。口から出ている声とは少し違うような声でした。まるで、風がそのまま言葉を手に入れたかのような声。生きている者とは分け隔てられた者の声だったのです。
「で、君達は、誰かな?」
「ボクはビス。こっちは、クルトンです」
いまだに固まったままのクルトンは放っておいて、ビスはこの幽霊を初めて会ったただの人として扱う事に決めて、話し続けました。
「御覧の通り、ただの野ネズミです」
「ふうん」
幽霊はまじまじとビスとクルトンを見やると、軽くそう受け流すように呟いて、ふわりと慰霊碑の上に立ちました。立ったと言っても、足はありません。なので、その様子は慰霊碑の上にひょっこり生えているかのようでした。
幽霊はもう一杯、ひょうたんから何かを飲み、大きく溜め息を吐いた。
「あんたらの名前は分かったよ。だが申し訳ない。吾輩には返してやる名前が無いでねぇ」
「名前が無い?」
ビスが訊ね返すと、幽霊はふわりと慰霊碑を降りて、いまはもう殆ど霞んでしまって読みにくくなっている、慰霊碑に刻まれている文字をさしました。
「これが吾輩の名前なんだ」
幽霊はそう言って、やや悲しげに続けました。
「吾輩に手を合わせに来るやつが、何度も何度も唱えたんだ。それなのに、吾輩はだんだんと……。吾輩も忘れるなんて思わなかったのに、体がすべて腐り落ちてからはどんどんと……」
幽霊の表情がだんだんと曇っていきました。ひょうたんを持つ手で顔をぬぐっています。涙でしょうか? 幽霊も、涙を流すことを、その時ビスは初めて知りました。と、いうか、ビスにはこの状況自体が、半分夢を見ているようでした。幽霊というものと会話し、幽霊の表情をさっきから眺めている。そんなことが自分の人生のなかで起こるなんて、想像もしていませんでした。人生というのは、本人が思っているよりもずっと奇怪で捉えどころのないものなのでしょう。
「吾輩はね、生きてきたことを回想する時間が欲しいんだよ。こんなこと、初めて会った君達に言ったって仕方ないことだが、君達はさきほどここへわんさか現れた生きた者たちとは違うような気がしてね」
わんさか現れた者たちが誰なのかは、ビスもクルトンも察しがついていました。きっと、幽霊にとっては疎ましい存在だったでしょう。
「吾輩は、月夜の下でしか回想出来ないんだ。それも、誰もいなくて、いたとしても吾輩の邪魔をしないような、静かな存在だけであるような夜。そんな夜に回想しないと、吾輩の生きていた時の記憶は、吾輩の体と同じようにどんどんと朽ちていくのだよ」
「その回想が出来ていないってことですか?」
ビスが訊ねると、幽霊は思いっきり頷いた。
「ああ、ここのところ毎夜毎夜現れる踊り狂いの猿は、吾輩のなにか深い魂の一部を惹きつけて離さないからね。あれが来ると、回想どころではなくなってしまうんだ」
「踊り狂いのサル?」
そこで、やっとクルトンの緊張がほぐれてきました。この場所で踊り狂っていたサルといえば、ビスもクルトンもぴんとくるものがあったからです。
「それってどんな人なんですか?」
ビスが訊ねると、幽霊は腕を組んで説明してくれた。
「杖を掲げて毎晩、毎晩、この場所で踊り狂っているんだよ。気味が悪いけれど、とても惹かれる。あのダンスは少し危ない魔術かもしれないって吾輩は睨んでいるのだが、どうもそっちにばかり気を取られて、吾輩自身について忘れてきてしまったようだ。困ったことにね……」
幽霊はしみじみとそう言って、ビスとクルトンへと微笑を浮かべました。見慣れない幽霊の微笑というものは奇妙なもので、その奥に含まれている感情が、生きている者とは少なからずずれているのか、ビスもクルトンも一瞬だけびくりとしてしまいました。
幽霊はそんな二人の様子に気付いていないのか、気付かないふりをしたのか、さっと視線を変えて、空を見上げました。
「こうして、吾輩が吾輩の事を忘れてくると、空で起こっていることも、あの奇妙な踊りも、全部終末へのカウントダウンなのかなって思うのだよ」
「終末?」
「空で起こっている事?」
ビスとクルトンは同時に聞き返しました。二人とも、このふたつの単語にぴんとくることが、頭について離れなかったからです。その考えは、ある夜にフールに手帳を見せてもらってから、ずっと付きまとっているのです。
――星の落下促され。
「空でね、星が吸い込まれているのだよ。大きな赤い口にぱくりと金平糖のように食べられてしまっているのだよ。そのうちあの星は、段々と大きくなって、この星もまた、ぱくりと金平糖のように食べてしまうのだろうね」
幽霊の言葉はそっけなく、そして、ビスとクルトンにとってはなかなかショッキングなものでした。
「どうしたら止められるか知ってませんか?」
――丘の者、光の者。
歌から導き出された文の端々がビスの脳裏を行き交っていました。
「吾輩は知らんね。覚えていないのだから」
幽霊はそう言って、溜め息を吐くようにさらに言いました。
「生きているって幸せだけれど悲しいことだね。こうやって、死んでしまうことを嘆かなくてはいけないんだから。死んでしまえば、君達も、この星の行く末なんてどうでもよくなってしまうだろうよ。吾輩たちは、少し違った次元で暮らしているのだからね」
「どういうことですか? 俺達、死んじゃうの?」
クルトンが取り乱した様子で幽霊に縋ります。縋る体なんてありませんが、クルトンは名一杯幽霊に掴みかかろうとしていました。
「そんなのやだよ。どうにかならないの!」
幽霊は困ったような顔をして、首を横に振りました。クルトンはそれ見て、はっとした表情のまま固まってしまいました。頭の中は真っ白なのでしょう。燃え尽きたかのようなクルトンをしばし見つめていたビスでしたが、ビスはふっと自分を落ち着かせるために小さく息を吐いて、幽霊を真正面から見て、言いました。
「ボクからも質問していいですか?」
ビスの改まった態度に、幽霊は眉をちらりと上げて、肯きます。
ビスはそれを見ると、咳払いをして、訊ねました。
「今から歌をうたいます。もしこの歌を知っていたら、知っていることを全部教えてほしいんです。覚えている限り」
「それはいいが、吾輩が覚えていることなんてスズメの涙ほどもないと思うぞ」
「それでもいいんです」
ビスは強い口調でそう言いきって、幽霊を見つめました。
「歌いますね」
洞の泉に 生まれゆく
椎の木の実を 眺めつつ
野遊びしている ガラの人
雷鳴聞いて 去っていく
角笛吹いて 列を成し
帰りゆく 帰りゆく
「『洞の泉』か……。こうやってわざわざ吾輩の前で歌ってくれる人がいてくれるっていうのも、嬉しいものよな」
幽霊は少し涙ぐんでいるようでした。ビスは歌い終えると、おずおずと幽霊の顔を見上げて、訊ねました。
「この歌を作った人、知ってますね?」
確信を持った質問でした。ビスなりに考えに考えて至った予測でした。もっと具体的にいえば、これらの歌から導き出された文から考えた結果です。丘の者の丘でまっさきに考えられたのが、月見丘で、その場所にいる幽霊こそが、光の者ということなのじゃないかとなんとなくビスは思っていたのです。
幽霊はその推理を見越してか、微かに目を細めました。哀愁漂う寂しげな表情だったので、ビスは少しどきりとしました。
「もちろん、知っている。友達だったからね。今はもう知らない人も多いのかね? この歌の作者は、吾輩じゃなくても、知らない人はいないくらいの有名人だったんだよ」
「預言者っていう話を聞きました」
「預言者か……」
幽霊はそう繰り返すと、じっと空を見上げました。その姿は、果てしなく広く青みが深まっていく空の上に、何かを問いかけているかのようでした。
「預言者……そうだね。預言者だったよ、彼は。けれど、それは生まれ持ったものではないんだ。彼は偉大な頭脳を持っていたからね。特に秘薬作りに関する知識は豊富だった。こちらが少し畏怖してしまうくらい、それはもうたくさんの種類の秘薬を調合できるニンゲンだったんだ」
「秘薬?」
ビスが訊ね返すと、ふと幽霊は目線を戻しました。
「あまり知られていないし、彼も、あまり誰にも見せなかったからね。ただ、彼が発明した秘薬の中で、最も完璧で、唯一後悔した秘薬があることを、吾輩は知っている」
「……それは、なんですか?」
「不老不死の秘薬さ」
幽霊のその発言はあまりに非現実的で、ビスもクルトンも一気に半信半疑になってしまいました。魔女や妖精、魔物がいるというのは可能性としてなら想像できます。それに匹敵するくらいの能力をもった偉人がいたとしてもおかしくないでしょう。けれど、だからといって、不老不死の秘薬というものには、疑いを拭いきれません。だって、もしもそんな薬が出来ていれば、今の今まで誰も死なずに済んでいるはずなのですから。もしも、出来ていたとしても、それはまやかしの秘薬。完璧であるなんていうのは、にわかに信じられませんでした。
幽霊はそんなビスとクルトンの様子などおかまいなしに、話を続けました。
「彼は吾輩にもその薬を飲んでほしいと頼んできた。けれど、吾輩は断ったんだ。吾輩は、その時、生き続けることに意味を感じなくなってしまっていたからね。でも、いまとなっては、吾輩も飲むべきだったと後悔しているんだ。彼が孤独に生きていく運命となると知っていれば……」
「でも、その人が不老不死の薬を飲んだのなら、あなたとずっと会話することが出来るじゃないですか」
クルトンが率直に思ったことを述べました。しかし、幽霊は寂しそうに首を横に振りました。
「ダメなんだ。吾輩が彼の事を気にしてここで待ってても、この世に縛られているというのに、彼には吾輩の姿も声も感じられないんだ。悲しいこと。とても悲しい事にね。酷いこと。とても酷い事にね。吾輩はここにいて、ここでずっと彼の話を聞いていたのに、それを彼に伝えることすらも出来なかったんだ」
「彼は、どうして秘薬なんか飲んだんだろう……」
ビスの口から感想が漏れました。
「彼は、老いることが怖かったのさ」
幽霊は沈んだ顔でそう言って、ふわふわと空に浮かび上がりました。
そして、空中を散歩するようにふわふわと漂って、ぽつりぽつりと言葉をこぼしていくように、ビスとクルトンに語りました。
「彼が最後に来た日。今でもその様子はありありと思いだせる。彼はとても怯えていて、……とても可哀そうで……吾輩がいくら慰めようとしても、その気持ちすらも伝わらないんだ。どうしたらいいのかっていう疑問だけが、吾輩の中に漂っていた。それだけはよく覚えているんだ……それなのに、それなのに……」
幽霊はじっとビスとクルトンを見下ろして、悲しげな眼差しを送りました。
その死霊の表情は、ビスとクルトンの心を奥深くから揺さ振って、悲しさや涙を込み上げさせようとするようなものでした。
「吾輩は、彼の名前を忘れてしまったんだ」
その一言は、月見丘に木霊し、幽霊の悲しい気持ちを広く、広く、広げていきました。
悲しさは丘の自然に次々に伝染して、よりビスとクルトンすらも悲しませるようなものになります。ビスはこの感覚の中で呼吸し、ふと感じました。これが、孤独というものなのだろうか、と。
「吾輩は、彼の名前も、自分の名前も……――」
そう言いながら、幽霊の姿は段々と透けていき、そっと誰かが瞼を閉じたように、そっと窓のカーテンを閉めたように、そっと読んでいた本を閉じたように、消えていきました。




