【第9話】灯火の下のまどろみ
あの嵐のような出来事から、しばらくの時が流れた。
元夫であるディアブロス様が去ってから数日間、ルディアス様は孤児院に姿を見せなかった。
公務が忙しいのか、それとも私に気を使って距離を置いているのか……。静かな日常が戻り、私の荒んでいた心も少しずつ平穏を取り戻していった。
けれど、再び孤児院へ姿を現すようになったルディアス様は――以前とはどこか違っていた。
「ロゼリア、今日の髪型も素敵だね」
「……っ、あ、ありがとうございます……」
これまでは控えめな支援者として優しく見守ってくれていたはずの彼が、あからさまなアプローチをしてくるようになったのだ。
洗濯物を干している最中、風に煽られたシーツを直そうと伸ばした私の手を、上からそっと重ねるように包み込んでくる。またある時は、話している最中にふと顔を近づけられ、息が届くほどの至近距離から熱い瞳で見つめられたりもした。
「ル、ルディアス様……? 近いです……っ」
「はは、ごめんね。君が可愛くて、つい」
不敵に微笑む彼の顔が近すぎて、私の心臓は壊れた鐘のようにドギマギと激しく鳴り響く。
元夫であるディアブロス様からは一度も向けられたことのない、真っ直ぐで甘い視線。戸惑いながらも、その温もりに胸が熱くなるのを止められずにいた。
そんなある日のこと。
公務の合間に訪れたルディアス様が、思いがけない提案をしてきた。
「ロゼリア、今週末に街で大きなお祭りが催されるんだ。……もしよかったら、僕と一緒に巡ってくれないかい?」
「え……? お祭りに、ですか……?」
突然の誘いに、私は思わず目を見開いた。
これまでお祭りといえば、陰から見物するか、誰かのお世話をする側でしかなかった。そんな華やかな場所に、ルディアス様と二人きりで行くなんて……。
「私なんかがご一緒しても、ご迷惑では……」
「僕が君と行きたいんだ。ダメかな?」
そう言って少し首を傾げる彼の表情は、断ることなどできないほど魅惑的だった。結局、私は頬を赤く染めたまま、小さく頷いて承諾してしまったのだった。
◇
デート当日。孤児院の施設長やお手伝いの女性たちが、大はしゃぎで私を囲んでいた。
「さあロゼリアさん、今日くらい思い切りお洒落しなくちゃダメよ!」
「そうですよ! ルディアス様をアッと言わせてやりましょう!」
皆が持ち寄ってくれた仕立て直しの可愛らしいドレスに身を包み、生まれて初めての本格的な化粧が施されていく。これまで化粧などしたこともなく、いつも地味な装いばかりだった私。
けれど、姿見の前に立った時、私は自分の目を疑った。
薄桃色の口紅が塗られ、細やかな飾りが施された髪。鏡に映っていたのは、かつて『美しい人間』として持て囃されていた姉のエリス以上に、華やかで、けれどどこか気品を纏った一人の女性の姿だった。
「……すごく、綺麗よ、ロゼリアさん」
施設長に背中を押され、私は緊張で震えながら玄関へと向かった。
そこに立っていたのは、馬車から降り立ったルディアス様だった。
私に気づいた彼は、差し出そうとした手を途中で止め、エメラルド色の瞳を大きく見開いたままフリーズしてしまった。
「……ルディアス様……? あの、やっぱり変でしょうか……」
不安になって俯こうとした私に、彼は掠れた声で呟いた。
「……美しい」
魂を奪われたかのような、心からの吐息。
その一言に、私の顔は耳の先まで真っ赤に染まった。ルディアス様は優しく微笑むと、まるで宝物を扱うかのような丁寧さで私の手を取り、エスコートしてくれた。
◇
街の広場は、色とりどりの提灯と賑やかな音楽で満ちあふれていた。
屋台から香る香ばしい匂い、行き交う人々の歓声。ルディアス様は人混みで私がはぐれないよう、しっかりと指を絡める『恋人繋ぎ』で手を握り続けてくれた。
「ほら、ロゼリア。あっちで踊りが始まっているよ!」
広場の中心では、軽快な音楽に合わせて人々が輪になって踊っていた。ルディアス様に手をとられ、私も輪の中へと引き込まれる。
やったこともない踊りだったけれど、彼と目を合わせて笑い合いながらステップを踏む時間は、夢のように楽しかった。
夜が更け、祭りの賑わいが少し落ち着いた頃。
私たちは喧騒を離れ、石畳の路地の奥にある、月明かりだけが照らす静かな街かどで休憩を取っていた。
「はぁ……楽しかった! こんなお祭り、僕も初めてだよ」
壁に背を預けたルディアス様が、少年のように無邪気な笑顔を浮かべる。
その飾らない、心からの笑顔――。
月光に照らされた彼の美しい横顔を見つめていると、胸の奥がギュッと締め付けられるような、愛おしいトキメキが溢れ出してきた。
「ルディアス様……」
吸い寄せられるように、私は彼の名を呼んでいた。
ルディアス様がゆっくりとこちらを振り返る。視線が交ざり合い、静寂が二人を包み込んだ。
彼の手が、私の頬に優しく触れる。
拒む気持ちなんて、最初から一ミリもなかった。吸い寄せられるように互いの顔が近づき――自然と、唇と唇が重ね合わされた。
柔らかく、どこか甘く、温かい感触。
そっと離れた彼の顔を見つめながら、私は自分の口元を両手で押さえ、顔を真っ赤にして固まってしまった。
(……あ……っ)
心臓が暴走しそうなほど打たれている。呆然としながら、私はぽつりと漏らしていた。
「……キス、なんて……はじめて……です……」
その言葉を聞いた瞬間、ルディアス様の表情が微かに固まった。
彼は私の瞳をじっと見つめ、静かな、けれどどこか探るような声で問いかけてきた。
「……ディアブロスとは?」
聞かれた意味を理解した瞬間、私は気まずさに胸がキュッと痛み、そっと俯いた。
「……ディアブロス様は……閨の時……キスはしてくれませんでした。一度も……」
元夫にとって、私はただの『身代わりの妻』であり、身体を重ねる時でさえ瞳を合わせることも、唇を重ねることもなかった。愛のない行為だったことを思い出し、胸が刺されるように痛んだ。
すると次の瞬間、強い力でギュッと身体を抱きしめられた。
ルディアス様の温かい胸の中に包み込まれる。彼の腕は震えていて、私を壊れ物のように力強く、けれどどこか愛おしそうに抱きしめてくれていた。
「……辛かったね」
耳元で響いたのは、切なさと憤りの混ざった、低い声だった。
「でも……僕は、一つでも君の『初めて』になれたことが、心から幸福だよ。……辛いことを思い出させてしまって、ごめんね」
私の頭を優しく撫でながら、紡がれる温かな言葉。
ディアブロス様から一度も与えられなかった温もりが、今、ルディアス様の優しい言葉によって、少しずつ私の傷ついた心を癒していく。
(ああ……私、この人を……)
胸に広がる愛おしさに包まれながら、私はルディアス様の背中にそっと手を回し、その温もりに深くしがみついた。
――それが恋なのかどうか。
まだ、私には分からなかった。
ただ、この人の温もりを、もう少しだけ感じていたい。
そんな願いだけが、胸の奥で静かに灯っていた。




