【第8話】秘めたる誓い(ルディアス視点)
彼女を初めて見かけたのは、同盟国であるアクアクリスタ王国を訪れ、友人のリカルドに城の中庭を案内されていた時のことだった。
青々と繁る樹木と、色とりどりの花々に彩られた美しい庭園。
政務の話を交えながら歩いていた僕の視線が、ふと、木陰に集まる兵士たちの姿を捉えた。
その中心に、一人の女性がいた。
茶色の髪を揺らしながら、手提げ籠から菓子を取り出し、兵士たち一人ひとりに笑顔で手渡している。
身分の高い女性が、汗にまみれた兵士たちに自ら声をかけ、労いの言葉をかける。
決して華やかな光景ではない。
けれど、彼女の周囲には、春の日差しのような温かさが満ちていた。
「おい、リカルド。あの女性は?」
僕が尋ねると、彼は視線を追い、わずかに表情を曇らせた。
「ああ。あれは将軍ディアブロスの奥方だよ。とても献身的な女性でね。疲れた兵士たちのために、時折こうして差し入れをしてくれるんだ」
「そうか……。あれほど素晴らしい妻を持つとは、将軍殿も果報者だな」
心からそう思った。
しかし、リカルドの口元に浮かんだのは、苦々しい笑みだった。
「残念ながら、そうとは言い切れないんだ」
彼は少し迷ったあと、静かに事情を語り始めた。
ディアブロスは獣人であり、運命の番と呼ばれる女性と出会っていたこと。
だが、その女性は彼が大怪我を負った際に彼を捨て、別の男のもとへ去ったこと。
探していた彼を献身的に支え、妻となったのが、あの女性だったということ。
「彼女は、去っていった番の女性の妹君なんだ。けれど、ディアブロスはいまだに姉のことを想い続けている。……妻である彼女には、ずっと冷たい態度を取っているんだよ」
僕は言葉を失った。
視線の先では、彼女が兵士の一人に菓子を手渡し、柔らかく微笑んでいた。
あんなにも人を思いやれる女性が、なぜ夫から愛されずにいなければならないのだろう。
「……彼女は、幸せなのだろうか」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
「番の本能というものが、人間である僕には理解できないのかもしれない。だが、自分を支えてくれた女性を蔑ろにするなど……僕には到底、理解できないな」
気づけば、語気が強くなっていた。
隣で聞いていたリカルドが、意外そうに目を瞬かせる。
「珍しいね、ルディアス。君がそこまで一人の女性を気にかけるなんて」
「……そうか?」
「ああ。だが、忠告しておくよ。彼女は夫を深く愛しているんだ。君が心配したところで、彼女の気持ちが変わるとは限らない」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
確かに、あの日の彼女の笑顔には、夫を愛する女性の面影があった。
それでも――。
なぜだろう。
僕は、彼女のことが頭から離れなくなってしまったのだ。
◇
自国へ戻ってからも、僕は折に触れてリカルドに手紙を送った。
彼女は元気にしているだろうか。
相変わらず、あの優しい笑顔で誰かを支えているのだろうか。
そんなことばかり尋ねる僕に、リカルドが呆れている姿が目に浮かんだ。
それでも、彼女の近況を知らずにはいられなかった。
そして、ある日。
隣国から届いた知らせに、僕は愕然とした。
将軍ディアブロスが、かつて自分を捨てた番の女性と再び関係を持ち、不倫騒動を起こしているというのだ。
真っ先に脳裏に浮かんだのは、あの茶髪の女性だった。
あの時、兵士たちに笑顔を向けていた彼女。
夫を支え続けていた、献身的な彼女。
今、どれほど傷ついているのだろう。
居ても立ってもいられず、僕はすぐさまリカルドに手紙を送った。
彼女は無事なのか。
今、どうしているのか。
やがて届いた返事には、彼女が離婚したこと、そして、もう恋などしたくないと話していることが記されていた。
彼女は、サルベール王国にある孤児院へ身を寄せる予定だという。
最後には、こんな一文が添えられていた。
『君に紹介することも考えたけれど、今は恋愛を望んでいないらしい。あとは君次第だね』
僕は、しばらくその手紙を見つめていた。
ロゼリア。
ようやく、彼女の名前を知ることができた。
けれど、名前を知ったからといって、彼女の心に近づけるわけではない。
長い間、夫を愛し続けた女性だ。
その愛を踏みにじられた今、誰かを信じることさえ怖くなっているかもしれない。
僕にできることは何だろう。
無理に彼女の心に踏み込むことではない。
まずは、彼女が安心して暮らせる場所を整えること。
そして、彼女自身が望む距離から、少しずつ近づいていくこと。
そう考えた僕は、孤児院への寄付を手配した。
もちろん、僕が支援者であることを隠す必要はなかったかもしれない。
けれど、王族という肩書きは、それだけで相手に余計な気遣いをさせてしまう。
今の彼女に必要なのは、身分の高い男からの求愛ではないはずだ。
だから僕は、自分の本当の身分を伏せ、一人の青年――ルディアスとして彼女に会いに行くことを決めた。
◇
孤児院で過ごす時間は、僕にとって思いがけないほど大切なものになっていった。
子供たちに囲まれて笑う彼女。
困っている子がいれば、すぐに膝をついて目線を合わせる彼女。
忙しい日々の中でも、周囲への気遣いを忘れない彼女。
初めて見かけたあの日と同じ、温かな心の持ち主だった。
そして、彼女と会話を交わすたび、僕の中に芽生えた想いは、少しずつ大きくなっていった。
もっと話がしたい。
もっと笑顔を見たい。
彼女が安心して笑える場所を、守ってあげたい。
気がつけば、僕は公務の合間を縫って孤児院へ足を運ぶようになっていた。
もちろん、彼女に負担をかけたくはない。
だから、いつも彼女の様子を見ながら、無理のない範囲で声をかけるようにしていた。
そんなある日、彼女がふと、僕に向かって微笑んだ。
その何気ない笑顔に、胸が大きく跳ねた。
彼女が僕をどう思っているのか、まだわからない。
それでも、彼女の心が少しずつほぐれていくのを感じるたび、淡い期待が胸に広がってしまう。
もしかしたら、いつか。
彼女が僕を、ただの支援者ではなく、一人の男性として見てくれる日が来るのではないか。
そんな願いを抱くようになっていた。
けれど、僕はまだ知らなかった。
彼女の過去が、どれほど深い傷となって残っているのかを。
そして、あの日――その傷を再び呼び起こす男が、彼女の前に現れることを。
◇
あの午後。
ロゼリアと洗濯物を干していた時、僕は彼女と交わす何気ない会話に、心から安らぎを覚えていた。
シーツの端を合わせるだけで、彼女は優しく教えてくれる。
そんな些細なやり取りが、僕にはたまらなく嬉しかった。
だからこそ、木陰から現れた男の姿を見た瞬間、空気が一変したのを感じ取った。
黒い髪。
鍛え上げられた体躯。
そして、周囲を威圧する獣人特有の鋭い眼差し。
男が現れた途端、ロゼリアの顔から血の気が引いた。
その身体が、恐怖に震え始める。
――この男が、ディアブロス将軍。
彼女の元夫なのだと、すぐにわかった。
僕は反射的に彼女の前へ出た。
相手は一国の将軍であり、武人としても相当な実力者だろう。
だが、ここはサルベール王国の領内だ。
護衛も控えている。
万が一の事態になれば、彼女を守るために戦う覚悟はあった。
しかし、事態を決めたのは剣でも、威圧でもなかった。
ロゼリア自身の叫びだった。
「来ないで! もう私に関わらないでください……っ!」
必死な拒絶の言葉。
そして、ボロボロとこぼれ落ちる涙。
その姿を見た瞬間、僕の胸が強く締めつけられた。
彼女は、これほどまでに傷ついていたのだ。
それなのに、この男は再び彼女の前に現れた。
ディアブロスは彼女の涙に動揺し、謝罪の言葉を残して立ち去った。
だが、彼が去ったあとも、ロゼリアの震えは止まらなかった。
僕は彼女を支え、孤児院の医務室へ連れていった。
どうすれば、少しでも安心してもらえるだろう。
何か温かいものを飲めば、落ち着いてくれるだろうか。
そう思って紅茶を淹れたものの、慣れない手つきで作ったそれは、ひどく渋いものになってしまった。
「……ふふっ。少し、渋いです。ルディアス様」
涙の跡が残る顔に浮かんだ、ほんの小さな笑顔。
それを見た瞬間、胸の奥に温かなものが広がった。
よかった。
ほんの少しでも、笑ってくれた。
今は、それだけで十分だった。
彼女の傷を、僕がすぐに癒やせるとは思わない。
ましてや、僕の想いを押しつけるつもりもない。
彼女がもう一度誰かを信じられるようになるまで、どれほど時間がかかってもいい。
僕は、彼女の意思を尊重したい。
彼女が笑いたい時に笑い、泣きたい時には泣けるように。
誰かの顔色を窺うことなく、自分の気持ちを大切にできるように。
そのために、僕ができることをしていこう。
そう心に決めた。
そして、もう一つ。
いつか彼女が、再び誰かを愛したいと思える日が来たなら。
その相手に、僕を選んでくれたなら。
僕は迷わず、彼女を妻に迎えたい。
幸い、僕には王位継承を担う優秀な兄上がいる。
両親も、僕自身が選ぶ伴侶については寛容だ。
だから、身分の違いが障害になることはない。
問題は、ただ一つ。
ロゼリアが、僕を選んでくれるかどうか。
もちろん、今すぐ答えを求めるつもりはない。
彼女の心は、彼女自身のものだから。
僕が望むのは、彼女を自分のものにすることではない。
彼女が自分の意思で、僕の隣にいたいと思ってくれることだ。
その日がいつか訪れるのなら、僕は彼女を生涯大切にすると誓おう。
目の前で、渋い紅茶をゆっくりと口に運ぶロゼリアを見つめながら。
僕――サルベール王国第二王子、ルディアス・ファン・サルベールは、心の中で静かに誓った。
もう二度と、彼女を泣かせない。
彼女が自分らしく笑える未来を、守り続ける。
そしていつか――。
彼女が自分の意思で僕を選んでくれる日を、焦らずに待とう。
それが、僕の秘めたる誓いだった。
第8話をお読みいただき、ありがとうございます!
今回はルディアス視点でお届けしました。
ロゼリアの前では、慣れない手つきで紅茶を淹れる不器用で優しい青年。
けれど、その胸の内には、彼女を守りたいという強い想いと、ある大きな決意が秘められていました。
普段は穏やかなルディアスですが、大切な人のためなら覚悟を決める一面もあるようです。
彼の秘めたる誓いが、皆様の心に少しでも届いていたら嬉しいです!
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それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします!




