【第5話】温もりの食卓と、動き出す陰影
王太子リカルド殿下からお手紙が届いた時は、正直とても驚いた。
『番消しの霊薬』によって狂気から醒めたディアブロス様が、私にそこまで執着し、会いたいと願っているなんて思いもしなかったからだ。
けれど――もっと不思議だったのは、私自身の心だった。
あんなに愛し、あんなに傷つけられ、夜も眠れずに泣いたはずなのに。今の私の胸には、彼に対する恨みも、悲しみも、そして愛しさも……驚くほど何も残っていなかった。ただの「過去の出来事」として、すっかり枯れ果てていたのだ。
だからこそ、私はありのままの心境を手紙に綴り、返信を出した。
どうか、この静かな決意が届きますように。そして、子供たちと手に入れたこの愛おしく平穏な暮らしが、二度と脅かされませんように、と……。
◇
「ふぅ、そろそろ子供たちに夕食を食べさせる時間ですね。呼びに行かなければ……」
思考を切り替え、私は仕立ての簡素なエプロンをキュッと紐で結んだ。
その時、トントン、と控えめなノック音が響いた。
こんな夕暮れ時に、一体だれかしら?
「はい、どうぞ」
扉を開けて入ってきた人物を見て、私は目を見張った。
「忙しいところに邪魔をしてしまったね、ロゼリアさん」
そこに立っていたのは、銀色の髪を美しく揺らしたルディアス様だった。
いつもより少し疲れたような笑みを浮かべているけれど、その立ち姿は相変わらず気品に満ちている。
「なかなか仕事に区切りがつかなくてね。しばらく会いに来られなかったから、ほんの合間を縫って顔だけ見に来たんだ。……だが、今から夕食の準備のようだし、出直すことにするよ」
「……っ、待ってください!」
寂しそうに微笑んで背を向けようとした彼に、私は思わず声を張り上げていた。
「今から、子供たちとみんなで食事をするんです。もしよろしければ……ルディアス様もご一緒にいかがですか?」
「え……?」
口に出した瞬間、ハッと我に返って青ざめた。
いくら身分を明かしていないとはいえ、ルディアス様の洗練された身だしなみや立ち振る舞いからして、間違いなく高貴な貴族のご子息だ。そのようなお方が、孤児院の子供たちが食べるような粗末な家庭料理など口にできるはずがない。なんて不躾なお誘いをしてしまったのだろうと、後悔で胸が押し潰されそうになった。
「あ、あの! すみません、今のは私の軽率な……」
言い訳をしようと焦る私に対し、ルディアス様はぽかんと目を丸くした。
そして次の瞬間――パァァッと春の陽だまりのように顔を輝かせ、とびきりの笑顔を咲かせたのだ。
「本当かい? ご一緒させていただいてもいいのかい? ……すごく、嬉しいな」
「え……」
「君の手料理を食べられるなんて、思ってもみなかったよ」
本当に心から喜んでくれているのが伝わってきて、胸の奥がキュッと熱くなる。
ディアブロス様と過ごしたあの冷え切った屋敷で、ずっと凍りついていた私の心に、じんわりと優しい温もりが満ちていくようだった。
「もちろんです……! 私も、ルディアス様と一緒に食べられたら嬉しいです」
照れくささに頬を染めながら答えると、ルディアス様はどこか愛おしそうな眼差しで私を見つめ、優しく微笑んでくれたのだった。
◇
その頃――アクアクリスタ王国。
「……長期休養、かい?」
王城の執務室で、王太子リカルドは差し出された書類を見て首をかしげた。
「はい。これまで溜まっていた有給の消化を含め、しばらく戦線を離れる許可をいただきたいのです」
目の前に立つディアブロスは、相変らず無表情のまま、深く頭を下げていた。
連日死に物狂いで武勲を挙げ、体中に傷を負いながら働き詰めていた彼だ。
リカルドは(一気に張り詰めていた糸が切れて、気が緩んだのかな? まあ、傷心旅行にでも行って頭を冷やしてくるといい)とすっかり思い込み、快く申請書に署名した。
「分かった、許可しよう。じっくり羽を伸ばしてくるといい」
「……感謝いたします、殿下」
もう二度とロゼリアを探さないと約束し、あっさりと引き下がったディアブロス。
リカルドは、彼が改心して静かに休養に入るものとばかり信じ込んでいた。
まさかそれが、すべての準備を整え、ロゼリアのいるサルベール王国へ直接乗り込むための「追撃の長期休暇」だとは、夢にも思わずに――。




