【第37話】白き花弁と、旅立ちの静寂
アクアクリスタ王国の国境沿いに位置する聖堂には、冷たく重苦しい空気が立ち込めていた。
戦乱の炎が鎮まり、勝利の喜びに湧く街とは対照的に、ここでは国の英雄でありながら波乱の生涯を駆け抜けた一人の男――黒狼将軍ディアブロスの葬儀が厳かに行われていた。
黒い喪服に身を包んだ参列者たちが息をひそめて見守る中、漆黒の棺が聖堂の中央に安置されている。
その中には、凄絶な戦いから解放され、まるで深い眠りについたかのように静やかな顔容を浮かべるディアブロスの姿があった。
棺の傍らには、同盟国であるサルベール王国から足を運んだ第二王子ルディアス、そしてロゼリアの姿もあった。
静寂が包む聖堂内で、最初に棺の前へと歩み出たのは、王太子のリカルドだった。
普段の軽妙な態度は影を潜め、その美貌には隠しきれない痛恨の色が滲み出ている。
「……今回の戦争で、僕は我が国にとってかけがえのない優秀な将軍と……一人の、気障で不器用な親友を失ったわけだ」
リカルドは棺の縁に手をかけ、目を伏せながら低く呟いた。
「バカだよ、君は……。自分を投げ出してまであいつを庇うなんて、計算高さの欠片もない。……だが、実に君らしい散り様だ。……さよなら、ディアブロス」
伏せられたリカルドの長い睫毛の隙間から、一筋の光る一滴がこぼれ落ち、棺の黒木を濡らした。
その隣にそっと寄り添った公爵令嬢アベルマリアは、気高く強い眼差しを静かに眠る男へと向けた。
「あなた、本当に最後までバカな男ね……。もっと早く自分の愚かさに気づいていれば、こんな結末にはならなかったのに」
アベルマリアは扇を固く握りしめ、吐息を漏らす。
「けれど……ロゼリアの幸せをその手で守り抜いたことだけは、評価してあげてもいいわ。……安心して眠りなさい、不器用な黒狼」
続いて、漆黒の甲冑を解き、深い紺色の喪服を纏ったルディアスが静かに一歩を踏み出した。
男として、そして一国を背負う指揮官として、眠る将軍と向き合う。
「アクアクリスタ王国の勇敢なる将軍、ディアブロス殿。……君が命を賭して遺した想いと覚悟、確かにこの胸で受け取った。君が守り抜いた未来と彼女の笑顔は、僕が何があっても守り抜く。……安心して眠るがいい」
ルディアスは右手を胸に当て、深く、深く頭を下げた。
そして――最後に、ロゼリアがゆっくりと棺の前へと進み出た。
青ざめた顔で震える彼女の背中を、ルディアスは温かな手でそっと包み込むと、静かに数歩後退り、二人だけの時間を作るためにその場を離れた。
棺の中に横たわる男は、かつて彼女を激しい冷酷さで傷つけ、そして最期にすべてを投げ打って彼女の愛する人を守った元夫だった。
「ディアブロス様……」
ロゼリアは胸の前に抱えていた一輪の白いチューリップを、震える手でそっと彼の胸元へと添えた。
――白のチューリップ。
その花言葉は、『思い出の恋』、そして『失われた恋』。
言葉にできなかった想い、掛け違えてしまったボタン、二度と戻らない温かな時間。
そのすべてを象徴するかのような可憐な白い花弁が、血を洗われた黒い服の上に静かに横たわる。
「……私、貴方を忘れません。……一生、胸の奥で覚えておきます……」
溢れ出す涙が視界を遮り、ロゼリアの声が途切れ途切れになる。
「……身勝手で、不器用で……だけど、最後に見せてくださったその優しさを……忘れません。……ありがとう、ございます……っ。私……前を向いて、ルディアス様と一緒に幸せになります。……だから……」
ロゼリアは溢れ出る涙を拭おうともせず、最期の顔を焼き付けるようにじっと見つめた。
「……おやすみなさい、ディアブロス様」
ポタリと落ちた涙の花びらが、白いチューリップを濡らす。
静まり返った聖堂の中に、ロゼリアの消え入りそうな祈りの言葉だけが静かに響き渡っていた。
通り抜ける冷たい風が、棺の周りの白い花々を優しく揺らす。
こうして――交錯し、擦れ違い続けたロゼリアとディアブロスの長い物語は、本当の意味で終わりを告げたのだった。
◇
聖堂を後にしたロゼリアの隣には、変わらぬ温もりで寄り添うルディアスの姿があった。
「……大丈夫かい、ロゼリア?」
「すごく辛くて……胸が引きちぎられそうに痛いです……。けれど、逃げずに見送ることができてよかった……」
ロゼリアは溢れ出そうになる涙をぐっと堪えながら、握りしめた手から伝わるルディアスの体温に救われるように、小さく頷いた。
差し出された大きな手を、ロゼリアはしっかりと握り返す。
消えない傷と感謝を胸に抱きながら、二人は光の射す明日へ向かって、静かに歩み出していくのだった。




