【第36話】凱歌の残響と、受け継がれし指輪
血と硝煙の匂いが充満する荒野に、重々しい沈黙が降り立とうとしていた。
膝をつき、二度と動かなくなった黒狼――ディアブロスの亡骸を抱きかかえたまま、ルディアスはゆっくりと立ち上がった。
手のひらの中にある、血に塗れた小さな銀の指輪。
そして、己の命と引き換えにこの国の未来を守り抜いた、一人の男の凄絶な散り様。
ルディアスは漆黒の兜を脱ぎ捨てると、残された全軍に向かって、胸の底から絞り出すような怒号を響かせた。
「全軍、聞け――!! ここに、我らが友であり、凄絶なる武勇を示した黒狼将軍――ディアブロス殿が散った!!」
地響きのような声が、戦場を支配していた兵士たちの鼓膜を震わせる。
動揺と驚愕が広がりかけたその瞬間、ルディアスは剣を高く掲げ、蒼天を仰いだ。
「彼は我が命を救い、サルベール王国の未来を担う者を守るため、その身を投げ打った! 悔しくないのか! 打ちひしがれている暇などない! 彼の命懸けの覚悟に報いるため、我らの手で勝利を掴み取るのだ!! 彼への最高の手向けとして――ガラント帝国を撃ち破れーーっ!!」
『――オオオオオオオオオオッ!!!』
その叫びは、全軍の魂に火をつけた。
悲痛な怒号は凄まじい歓声と士気へと変わり、サルベール王国軍は怒涛の勢いで押し寄せた。
指揮官を討ち取られ、さらに覚醒した王国軍の鬼神の如き反撃に、ガラント帝国軍の陣形はひとたまりもなく瓦解していったのだった。
◇
数日後――サルベール王国の王都は、勝利の歓喜に包まれていた。
だが、王宮の一室で戦況の報せを待っていたロゼリアにとって、その歓声は遠い世界の出来事のように聞こえていた。
重々しい足音が廊下に響き、扉が開かれる。
そこに立っていたのは――鎧に無数の傷を刻みながらも、無事に生きて帰還したルディアスの姿だった。
「ルディアス……様……っ!」
ロゼリアの目から、溢れ出す涙が頬を伝った。
駆け寄り、その頑丈な胸へと飛び込む。彼の体温と、生きて戻ってきてくれたという実感が、張り詰めていた胸をゆっくりと解かしていく。
「よかった……っ、本当に……無事で、よかった……!」
「ロゼリア……ただいま。心配をかけてごめんね」
ルディアスは彼女の背中を優しく包み込み、愛おしそうにその髪を撫でた。
しかし、その瞳の奥には、どこか静かな覚悟と哀愁が漂っていた。
(この指輪を……渡すべきだろうか……)
懐にある、冷たい銀の指輪。
これを渡せば、せっかく過去を乗り越えようとしているロゼリアの心に、消えない傷と枷を残してしまうかもしれない。黙って胸の奥にしまい込むことだってできた。
だが――あの日、自分の腕の中で息絶えた男の眼差しが、ルディアスの脳裏をかすめる。
(いいや……隠すことなんてできない。僕が嫉妬で押し込めていいような、軽い命でも、軽い想いでもなかったはずだ)
同じ一人の女性を愛した男として。そして、命を救われた武人として。
ルディアスはロゼリアの肩を優しく抱き直し、まっすぐに見つめ返した。
「ロゼリア。……君に、伝えなければならないことがあるんだ」
「……え?」
ルディアスは静かに懐から包みを取り出し、彼女の手のひらにそっと乗せた。
包みが開かれ、中に収められていた、血を拭い取られた指輪が陽の光に反射した瞬間、ロゼリアの息が止まった。
「これは……ディアブロス様の……?」
「ああ。……彼は、今回の戦に極秘で参加していたんだ」
ルディアスは誤魔化すことなく、戦場での出来事をすべて語り始めた。
ディアブロスがサルベール王国のために前線で戦っていたこと。
敵の暗殺者の狙いを見抜き、身を挺してルディアスを庇い、矢を受けたこと。
そして――最期までロゼリアの幸せだけを願い、この指輪を託して息絶えたこと。
「彼は……私を庇って死んだんだ。君の愛する人を守ることが、彼の最後の償いだと……そう言わんばかりに」
ルディアスの言葉を聞くにつれ、ロゼリアの頭の中に、かつて彼と過ごした数々の記憶が溢れ出してきた。
冷酷な言葉を投げかけられながらも、どこかで必死に孤独と戦っていた彼の背中。
薬の呪縛が解けた後、必死に自分を追いかけて手紙を送り届けてくれた日々。
そして、自らの過去に向き合い、最後は愛する人の幸せのために命を投げ出した彼の生き様――。
(……どうして……どうしてそこまで……っ)
堰を切ったように溢れ出す記憶と、手のひらの中にある指輪の冷たさに、ロゼリアの胸は裂けんばかりに痛んだ。
指輪を胸に抱きしめ、ボロボロと大粒の涙を床にこぼす。
「……ルディアス様……ごめんなさい……っ!」
ロゼリアは涙でくしゃくしゃになった顔を上げ、絞り出すような声で訴えた。
「私……っ、貴方が無事に帰ってきてくれて……本当に、心から嬉しいんです……! 貴方を愛しています……! だけど……だけど私、ディアブロス様のことを……きっと一生、忘れられません……っ! 過去の傷も、彼の最期も……胸から消すことなんてできません……っ!」
ルディアスが無事に帰ってきてくれた喜びは、本物だった。
それなのに、指輪を握りしめる手が震え、涙が止まらない。
今、愛しているのはルディアスだ。それでも、かつて愛した人の死を悲しまずにはいられなかった。
だが――ルディアスは怒ることも、悲しむこともなかった。
彼はどこまでも温かい眼差しでロゼリアを見つめると、膝をついて彼女と目を合わせ、涙に濡れた頬を大きな手で優しく包み込んだ。
「……うん、分かっているよ」
「ルディアス様……?」
「忘れる必要なんてないさ。……君が愛した男は、誇り高く、素晴らしい男だった。彼が命をかけて守った君の笑顔を、僕は一生守り続ける」
「――っ、あぁぁ……っ!!」
包み込むような深い愛に、ロゼリアはルディアスの胸に顔をうずめ、子供のように声を上げて泣き明かした。
過去の傷が、悲しみと共にゆっくりと昇華されていく。
冷たい指輪の感触と、目の前の男の温もりを感じながら――ロゼリアは本当の意味で、過去に向き合い、未来へ歩み出す決意を固めるのだった。
第36話をお読みいただき、ありがとうございます!
命を賭してルディアスを守り、ロゼリアへの愛を託して散ったディアブロス。
そして、その想いごとロゼリアを包み込むルディアスの深すぎる愛に、胸が熱くなる回となりました……。
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