【第35話】黒狼の贖罪、そして残火
戦場の喧騒は、後方へ向かうにつれて鈍い遠鳴りのような地鳴りへと変わっていく。
ガラント帝国軍の放った刺客――姿を隠した熟練の弓手は、戦火の煙と泥に紛れながら、確実にその歩みを進めていた。
(……見えた。あれがサルベール王国の第二王子、ルディアス……!)
刺客の視線が捉えたのは、後方で微動だにせず戦列へ指示を送り続ける男の姿だった。
一般的な兵士とは明らかに一線を画す、全軍の指揮官だけが着用を許された『漆黒の甲冑』。それが戦火の煙の中でも異彩を放ち、敵の弓手にとって格好の標的となっていたのだ。
刺客は荒い息を殺し、泥の中に身を伏せながらじわじわと間合いを詰める。
風向き、敵味方の位置関係、煙の流れ。すべての条件が重なる一瞬を、冷徹な眼光で見定めていた。
(……ここだ!!)
弓手は躊躇なく強弓を引き絞り、解き放った。
風切り音すら置き去りにする極細の一矢が、漆黒の甲冑を纏うルディアスの背中――その心臓を正確に穿たんと、黒い軌道を描く。
後方の部隊に指示を飛ばしていたルディアスが異変に気づき、振り返った時には――すでに矢は目の前に迫っていた。
「――っ!?」
避けられない。
死を覚悟したルディアスの視界を遮るように、巨大な『漆黒の影』が割り込んできた。
鈍い衝撃音が、戦場に響き渡る。
「ガ、ハッ……!!」
大量の鮮血が、空中に舞った。
ルディアスの目の前で崩れ落ちたのは、全身に返り血を浴びた黒狼――ディアブロスだった。
矢は彼の右胸の上部、鎖骨の下あたりに深々と突き刺さっていた。その衝撃で身体が大きく傾ぎ、鎧の隙間から溢れ出す血が、黒い甲冑をさらに濃く染めていく。
「ディアブロス……!? なんで、君が――!?」
想定外の事態に、ルディアスの瞳が驚愕に見開かれる。
前線にいたはずの男が、なぜここにいるのか。なぜ自分を庇って矢を受けたのか。
膝から崩れ落ちたディアブロスを、ルディアスは咄嗟にその腕で抱きとめた。
「おい、しっかりしろ! すぐに救護班を呼ぶ! 誰か――!」
ルディアスが声を張り上げると、近くの兵士たちが慌てて駆け寄ってきた。
ディアブロスはそれを制するように、震える右手を血に濡れた懐へと差し入れた。
そして、固く握りしめていた小さな『何か』を、ルディアスの掌へ押し付ける。
ルディアスが手を開くと、そこにあったのは――かつてロゼリアが置いていった指輪だった。
「これを……ロゼリアに……渡してください……」
「ディアブロス……! やめろ、喋るな! 君が死んだら……ロゼリアがどんな思いをするか分かっているのか……!」
ロゼリアを悲しませたくない。
その一心で訴えかけるルディアスの言葉に、ディアブロスはゆっくりと、力なく首を振った。
「……分かっています……。だからこそ……あなたに、託したいのです……」
息を吸うたび、右胸に走る激痛が全身を苛んだ。
それでもディアブロスは、指輪を握るルディアスの手を見つめ、途切れそうになる意識を必死につなぎとめた。
「……貴方なら……ロゼリアを託しても……安心できます……」
「何を言っているんだ……! まだ助かるかもしれない。しっかりしろ!」
ルディアスは傷口を押さえようとしたが、血は止まらなかった。
ディアブロスの呼吸は次第に浅くなり、その顔からも急速に血の気が失われていく。
百戦錬磨の武人である彼自身が、自分の命の灯火が消えかけていることを、誰よりもよく理解していた。
それでも、最後に伝えなければならないことがあった。
ディアブロスはルディアスの胸元を血のついた手で掴み、残された力を振り絞って、その眼を見つめ返した。
「ロゼリアを……頼みます……」
「……ディアブロス……!」
その声を遠くに聞きながら、ディアブロスの意識はゆっくりと闇へ沈んでいった。
そして――その脳裏に、怒涛のように鮮やかな記憶が駆け巡った。
(ああ……そうか……)
意識が遠のいていく中で浮かんだのは、戦場の栄光でも、将軍としての威厳でもなかった。
醜い傷を負った自分を、ただひたすらに優しい目で見つめ、不眠不休で看病してくれたロゼリアの姿。
「お前など代わりに過ぎない」と冷酷な言葉をぶつけられても、傷ついた顔を隠しながら健気に微笑んでいた彼女。
(俺は……最初から、すべてを持っていたんだ……。なのに……己の愚かさで、すべてを投げ捨てた……)
薬の呪縛が解けた時、屋敷から彼女の姿が消えていたあの日の恐怖。
追いかけても追いかけても、二度と届かなかった彼女の温もり。
もう、何を悔いても過去は変わらない。
自分がどれほど苦しもうと、彼女が受けた傷が消えるわけでもない。
それでも――最後に一つだけ、彼女のためにできることがあった。
自分が命を落とすことで、すべての罪が償われるわけではない。
それでも、彼女が心から愛する男を守ることができたのなら。
(これが……俺にできる、最後の……償いだ……)
霞む視界の中、ディアブロスはゆっくりと、血に塗れた右手を灰色の天へと掲げた。
その手のひらの向こうに、今も世界のどこかで優しく微笑んでいるであろう、最愛の少女の面影を重ね合わせる。
「ロゼ……リア……」
愛おしい名を最後に一つだけ呟き――掲げられた腕が、静かに大地へと崩れ落ちた。
黒狼と呼ばれた男の、波乱に満ちた生涯が、静かに幕を閉じた瞬間だった。
◇
「……ディアブロス! ディアブロス――っ!!」
戦火の絶叫が交錯する荒野で、ルディアスの痛切な叫びが空しく響き渡る。
握りしめた手のひらの中には、冷たくなった指輪と――命を賭して託された、あまりにも重い『手遅れの愛』だけが残されていた。




