【第34話】迫る暗雲と、戦場に舞う胸騒ぎ
怒号と鉄のぶつかり合う鈍い音が地響きとなって戦場を揺らしていた。
開戦当初こそ数で勝るガラント帝国軍が圧倒的優位に立っていたものの、サルベール王国軍の精鋭と、破竹の勢いで敵陣を穿つ黒狼ディアブロスの参戦により、戦局は大きく傾きつつあった。
「チッ……! なぜだ、なぜあの弱小国の兵どもが持ちこたえている!?」
ガラント帝国軍の本陣にて、指揮官であるバレル将軍は苦々しく|噛み締めた唇から血を滲ませていた。
焦燥が陣営全体へと広がり、幹部たちの間で怒鳴り合いに近い作戦会議が繰り広げられる。このまま泥沼の消耗戦に突入すれば、本国からの補給ラインが細い帝国側に勝ち目はない。
「……将軍、敵の陣形をご覧ください。前線の凄まじい突破力に目が行きがちですが、あの緻密な指揮をとっているのは後方に控える第二王子――ルディアスです」
「奴か……! あの青二才が、後ろから指示を出して戦列をコントロールしているというのか」
バレル将軍は冷徹な眼光を走らせ、細い舌で唇を舐めた。
後方で静かに全軍の手綱を握るルディアス。彼という強固な『楔』を打ち抜けば、統制を失った王国軍の陣形は脆く崩れ去るはずだ。
「……おい、我が陣営で最も腕の立つ弓兵を呼べ。戦の混乱に紛れ、奴の胸腔を射抜かせろ。秘密裏に処理するのだ」
影の中から進み出た一人の兵に、バレルは低く命じた。
密令を受けた刺客は、目立たぬ歩兵の群れへと紛れ込み、戦火の煙に乗じてじわじわと後方のルディアスへと距離を詰めていく。
戦場の誰もが目の前の殺し合いに呑み込まれる中――ただ一人、その極めて僅かな『異変』を目ざとく察知した男がいた。
「……あ?」
返り血で黒く染まった大剣を叩き伏せながら、ディアブロスは眉根を激しく寄せた。
野性の直感が、皮膚の表面をざわつかせている。
(兵の動きが……何かおかしい)
前線の攻防戦とはまるで無関係なベクトルで、密かに死角を潜り抜けていく一筋の気配。
ディアブロスは凄絶な戦気を開放したまま、思考を巡らせた。
(敵の指揮官があのバレルなら……焦った奴が次に打つ手はなんだ? 前線を叩くことじゃない。俺を止めることでもない。なら……何を狙う? ……まさか、後ろか!?)
脳裏に浮かんだのは、後方で冷静に全軍を指揮するルディアスの姿だった。
もしルディアスが倒れれば、サルベール王国軍は混乱に陥る。それ以上に――あの男を失えば、ロゼリアがどれほど深い傷を負い、悲しむか。
「副官! 前線を任せる! 押し切れ!!」
「は、はいっ!? 将軍、どちらへ――!?」
返事を聞くより早く、ディアブロスは疾風の如く大地を蹴り、前線を離れて後方へと全力で駆け抜けた。
◇
その頃、サルベール王国の王宮の一室。
城下での孤児院や貧民街への奉仕活動を終えたロゼリアは、王妃ジョアンナたちと静かに紅茶を啜っていた。
遠く離れた戦場の凄惨さを思えば、喉を通る温かいお茶の味さえ、どこか申し訳なく感じてしまう。
ルディアス様は今、無事かしら。戦火の中で怪我をされていないかしら――胸の中で繰り返されるのは、ただ一人の愛しい男性の無事を祈る言葉ばかりだった。
ガシャンッ!!?
突如として、部屋の静寂を破る甲高い破砕音が響き渡った。
手元を狂わせた侍女が、ロゼリアのカップに紅茶を注ごうとした瞬間に、陶器のカップを床へ落としてしまったのだ。
「も、申し訳ございません! ロゼリア様、お怪我はございませんか……!?」
顔を蒼白にした侍女が慌てふためき、身を縮こまらせる。
ロゼリアは深く息を吐き出すと、穏やかな笑みを浮かべて静かに首を振った。
「大丈夫よ。落ち着いて。……あなたの方こそ、飛び散った破片で手を切ったりしていない?」
「あ……っ、はい! 私は大丈夫でございます……! 温かいお言葉、本当にありがとうございます……!」
ロゼリアのどこまでも優しい対応に涙ぐみながら、侍女は深く頭を下げ、壊れた磁器の破片を素早く片付けて退室していった。
しかし――侍女が去った後の静けさの中で、ロゼリアの胸の奥を酷く冷たい胸騒ぎが駆け抜けた。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
ただの不吉な偶然とは思えないほどの、理屈を超えた胸騒ぎ。
(……まさか、ルディアス様に何か……!?)
ロゼリアは膝の上で固く両手を組み、胸の前で強く握りしめた。
溢れ出しそうな不安を押し殺すように瞳を閉じ、どうかあの人に神のご加護がありますようにと、心からの祈りを捧げるのだった。




