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【第32話】出撃の覚悟と、交錯する意志

 ――とうとう、その別れの日が訪れた。


 サルベール王城の広大な前庭には、洗練された鎧を纏った兵士たちが整然と列をなし、鋭い緊張感が朝の冷気を切り裂いていた。


 ガラント帝国との全面対決に向かう、サルベール王国軍の出陣式。


 城楼の上には、王国の平和を祈るアスラン国王と王妃、そして凛とした佇まいの王太子ハロルドの姿があった。


 その傍らで、一筋の風に艶やかな茶髪を揺らしているのは、ロゼリアだった。


 あの夜、ルディアスの腕の中で過ごした静寂の時間。


 彼の温もりと、紡がれた言葉と、変わらぬ体温を確かめ合ったあの時から、ロゼリアの心は静かに、けれど固く定まっていた。


(……私はもう、泣かない。ルディアス様が必ず無事に帰ってきてくださると、信じているから)


 胸の奥に灯った強く揺るぎない覚悟(かくご)が、彼女の背筋をまっすぐに伸ばしていた。


 出陣の角笛が低く響き渡り、全軍が動き出そうとしたその瞬間――。


 漆黒の甲冑に身を包んだ総指揮官、ルディアスが、ロゼリアの元へと歩み寄ってきた。


 大勢の将兵や王族、従者たちの視線が注がれる中、ルディアスは意にも介さず、ロゼリアの華奢な腰を引き寄せた。


「……っ、ルディアス様――」


 驚きに目を見開くロゼリアの唇に、彼は深く、愛おしみを込めた口づけ(くちづけ)を落とした。


 人目も憚(はばか)らぬその情熱的な愛の示し方に、周囲から息を呑む気配が伝わってくる。


 やがてそっと唇を離したルディアスは、エメラルド色の瞳で彼女を優しく覗き込み、低く力強い声で囁いた。


「いってくるよ、ロゼリア。君の待つこの場所へ、必ず帰ってくる」


「……はい! どうかご無事で……私はここで、ずっと貴方様をお待ちしております」


 ロゼリアは溢れそうになる愛おしさを込めて、力強く微笑み返した。


 その笑顔を胸に刻みつけるように深く頷くと、ルディアスは身を翻し、愛馬の背へと飛び乗った。


「全軍――前進!」


 総指揮官の鋭い号令とともに、サルベール軍は大地を揺らしながら、過酷な戦地へと向かって進軍を開始したのだった。


◇


 数日後。


 ガラント帝国との国境付近に位置する最前線基地。


 荒涼とした大地に無数の天幕が立ち並び、空気は澱(よど)んだ戦火の気配に満ちていた。


 陣地に到着したルディアスは、旅装を解く間もなく、全軍の指揮を執る中央の大天幕へと足を踏み入れた。


 内部には、サルベール王国の重鎮であるマクロス将軍をはじめ、作戦指導を担う側近の家臣たちが顔を揃えていた。


 そして――それだけではなかった。


 すでに到着していた同盟国・アクアクリスタ王国の援軍部隊。その一角に佇む男の姿を目にした瞬間、ルディアスは息を呑み、絶句した。


 そこにいたのは、かつてロゼリアを深く傷つけ、冷遇の果てに見放した元夫。


 アクアクリスタが誇る『黒狼将軍』――ディアブロスだった。


(なっ……なぜ、彼がここに……!?)


 皇太子リカルドからの事前報告には、ディアブロスが出陣するなどという記載は一言もなかった。


 事態の異常さに、ルディアスのエメラルド色の瞳に鋭い警戒(けいかい)と不審の色が走る。


 ルディアスは静かに、けれど圧を込めた歩みでディアブロスの正面へと進み出た。


「……なぜ、君がここにいる?」


 低く抑えられたルディアスの問いかけに、ディアブロスは一瞬だけ唇を噛み締め(かみしめ)、姿勢を正して深く頭を下げた。


「はっ! リカルド殿下に無理を申し上げ、馳せ参じました……! 出撃の手続きが正式に決まったのは、今朝方のことにございます」


「……なに?」


 ルディアスは眉根(まゆね)を寄せ、冷ややかな視線を崩さぬまま、重ねて問う。


「なぜだ。君が自らこの泥沼の戦地へ志願する理由がどこにある?」


 問い詰められたディアブロスは、ゆっくりと目を伏せた。


 かつて傲慢(ごうまん)そのものだったその男の顔には、いまや自らの過ちを骨の底まで噛み締めた男特有の、深く切ない愁い(うれい)が刻まれていた。


「……無礼を承知で、本音を言わせていただきます」


 ディアブロスは意を決したように顔を上げ、ルディアスの目をまっすぐに見つめ返した。


「すべては……私の愛する女性――ロゼリア様の、今後の安寧のためでございます」


「なに……?」


「もしも、貴方様やサルベール王国軍がこの戦いで敗れ、失われてしまえば……ロゼリア様は二度と立ち直れぬほどの絶望を味わうことになる。……あのお方にこれ以上の苦しみを与えるなど、私には耐えられません」


 ディアブロスの声は震えていた。


 そこにあったのは、かつての独占欲や身勝手な執着ではない。


 自分の命などどうなってもいい――ただロゼリアの幸せと笑顔を守るためなら、かつての恋敵である男の盾にさえなってみせるという、命懸けの贖罪(しょくざい)の意志だった。


 その言葉の重みに、ルディアスは目を見張り、しばし言葉を失った。


 天幕の中に、張り詰めた静寂が落ちる。


 やがて――ルディアスは深く、静かに息を吐き出すと、瞳から険しさを消し去った。


「……わかった」


 ルディアスは力強く自らの右手を差し出した。


「君の協力、ありがたく受け取ろう。……ともにガラント帝国の侵攻を食い止め、必ずロゼリアの待つ場所へ生きて帰るぞ」


「……っ、ハッ! 謹んで、この命をお預けいたします……!」


 ディアブロスは感極まったように眉をひそめ、差し出されたルディアスの手を強く握り返した。


 かつて一人の女性を巡り、冷酷な過去と愛で分かたれた二人の男。


 かつて敵対していた二人が今、ただ一人の愛する女性の未来を守るため、固い手と手を取り合って強大な敵との戦いに挑むのだった――。

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