【第31話】出陣の前夜と、解けぬ熱
刻一刻と、ガラント帝国との決戦の日が迫っていた。
サルベール王城全体が澱んだ緊張感に包まれる中、夜の静寂が深々と城内を覆っていた。
ロゼリアに割り当てられた自室と、ルディアスの執務室を兼ねた寝所は、薄い境界扉一枚を隔てて隣り合っている。
本来ならば、いつでも行き来できる造りだった。しかし、まだ婚姻前の身であることもあり、二人は互いを大切に思うからこそ、軽々しくその扉を越えることはなかった。
けれど――今夜だけは違っていた。
明後日には、ルディアスが全軍を率いて戦地へと旅立ってしまう。
(……このまま、何も伝えられないままルディアス様をお送りするなんて、できない……)
ロゼリアは胸の奥に決意を秘め、震える指先で境界扉をそっと叩いた。
控えめなノックの音が、静寂の中に響く。
わずかな間を置いて、扉の向こうから落ち着いた声が返ってきた。
「……どうぞ。ロゼリア?」
ロゼリアは小さく息を吸い、そっと扉を開けた。
そこには、上着を脱いで文机に向かっていたらしいルディアスがいた。
彼は彼女の姿を目にした瞬間、驚いたように目を見開いた。
「……っ! ロゼリア、その格好は……!?」
ロゼリアが身にまとっていたのは、薄桃色のシルクのネグリジェだった。
月明かりと燭台のほのかな光が、華奢な肩や白い素肌の輪郭を淡く浮かび上がらせている。
普段とは違う装いに身を包み、素足で立つ彼女の姿は、どこか頼りなく、そしてひどく無防備に見えた。
ルディアスは思わず視線を逸らした。耳元から首筋まで赤く染まっていく。
そんな彼の反応に、ロゼリアの頬にも熱が集まった。
恥ずかしくないはずがない。
それでも、今夜はどうしても伝えたいことがあった。
「……はしたない女だと、軽蔑なさらないでください」
ロゼリアは胸の前で手を握りしめ、震える声で続けた。
「婚姻前の身で、こんなことをするのがどれほど大胆なことか、私にもわかっています……。それでも、私は……今夜、ルディアス様ともっと深く結ばれたいのです」
最後まで言い終える前に、目から涙がこぼれ落ちた。
自分から望んだことなのに、怖かった。
拒まれることが怖いのか。それとも、彼を失うかもしれない未来が怖いのか。
自分でも、もうわからなかった。
涙に気づいたルディアスの表情が変わる。
彼はすぐに歩み寄ったものの、彼女を抱き寄せる前に、その顔を覗き込んだ。
「ロゼリア……」
名前を呼ぶ声には、驚きと心配が滲んでいた。
「こんなことをしなくてもいいんだ。こういうことは、正式に婚姻を結んでからでいい。僕は君を急かしたいわけじゃない。……もっと、自分を大切にしてほしいんだ」
責めるような響きは、どこにもなかった。
ただ、彼女が自分を追い詰めていることを悲しんでいるようだった。
ロゼリアは首を横に振り、彼の胸元に縋りついた。
「信じています……! ルディアス様が、必ず無事に帰ってきてくださると、心から信じています……!」
彼の衣服を握りしめる指に、ぎゅっと力がこもる。
「……でも、怖いのです。もしも、これが最後の夜になってしまったら……そう考えるだけで、不安で胸が押し潰されそうになるのです……!」
声が震え、言葉の合間に嗚咽が混じった。
「だから……私の心にも、身体にも、ルディアス様との思い出を深く刻みつけたいのです……。離れていても、あなたを近くに感じていられるように……」
ルディアスは息を呑んだ。
彼女を抱きしめる腕に、そっと力がこもる。
ロゼリアはいつも、自分の不安を押し隠そうとしていた。彼を困らせたくないと、笑顔を見せようとしていた。
けれど今、彼女は恐怖を隠さずに伝えてくれている。
そのことが愛おしくて、同時に、そこまで彼女を不安にさせていた自分の決断の重さを思い知らされた。
「……僕が、君をこんなにも不安にさせてしまっていたんだね」
ルディアスは彼女の身体を少しだけ離し、涙に濡れた頬を見つめた。
「ごめん、ロゼリア」
親指で、こぼれ落ちた涙をそっと拭う。
「でも、約束する。僕は絶対に死なない。必ず君の元へ帰ってくる。君と一緒に生きていく未来を、僕は諦めないよ」
まっすぐに注がれる翠の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「だから、どうか信じて待っていてほしい」
「私は……!」
ロゼリアは彼の言葉に頷こうとした。
けれど、胸の奥にずっと押し込めてきた思いが、どうしても口をついて出てしまう。
「私は……もう、ルディアス様が初めて愛する女性にはなれません……」
声がかすれた。
「一度は別の人の妻だった私に、あなたへ差し出せるものなんて……これくらいしかないと思ってしまうのです……っ!」
言い終えた瞬間、ロゼリアは俯いた。
自分が何を言っているのか、わかっていた。
ルディアスは、そんなことを望んでいない。
彼が自分の過去を責めたことなど、一度もなかった。
それなのに、心の奥に染みついた思い込みだけは、どうしても消えてくれなかった。
ルディアスはすぐには答えなかった。
彼女の手を取り、両手で包み込む。
その指先がわずかに震えていることに気づき、彼は痛ましげに眉を寄せた。
「……ロゼリア。僕を見て」
彼女はためらいながら、顔を上げた。
ルディアスはその手の甲に、祈りを込めるようにそっと唇を落とした。
「君は、何かを差し出さなければ愛されない人なんかじゃない」
「……っ」
「僕にとって、君は何物にも代えがたい大切な人だ。過去がどうあろうと、君の価値が損なわれることなんて絶対にない」
彼は彼女の手を握ったまま、優しく微笑んだ。
「僕が愛したのは、他の誰でもない。今、僕の目の前にいる君自身なんだから」
「ルディアス様……」
「愛しているよ、ロゼリア。君が笑っているときも、不安で泣いてしまうときも。自分のことを信じられなくなってしまうときでさえ、僕の気持ちは変わらない」
その言葉に、ロゼリアの瞳が揺れた。
ずっと欲しかったのは、彼に自分のすべてを捧げる機会ではなかったのかもしれない。
何かを差し出さなくても、過去を消せなくても、それでも愛していると言ってもらえること。
自分が自分であるだけで、彼の隣にいていいのだと信じられること。
それが、どれほど欲しかったのだろう。
ロゼリアの頬を、再び涙が伝った。
ルディアスは彼女をそっと抱き寄せた。
彼女の震えが少しずつ収まるまで、何も言わず、その背中を優しく撫で続ける。
「……今日は、二人で朝まで一緒にいよう」
やがて、彼は耳元で静かに囁いた。
「君の温もりを感じながら眠りたい。僕も、君のそばにいたいんだ」
ロゼリアは彼の胸に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
「……はい。ありがとうございます、ルディアス様」
涙に濡れた声には、先ほどまでの切迫した響きとは違う、ほのかな安堵が宿っていた。
「私も……心から、愛しております」
「うん。ありがとう、ロゼリア」
ルディアスは彼女の額にそっと口づけた。
それから二人は寝台へ移り、並んで横になった。
ルディアスはロゼリアを腕の中に迎え、彼女もまた、彼の胸に頬を寄せた。
すぐに不安が消え去ったわけではない。
明後日には、彼は戦地へ向かう。
それでも、今はこうして互いの体温を感じていられる。
規則正しく響く彼の鼓動に耳を澄ませながら、ロゼリアはそっと目を閉じた。
ルディアスもまた、腕の中の愛しい人を抱きしめながら、必ずこの場所へ帰ってくると心に誓う。
窓の外では、夜明け前の冷たい風が静かに木々を揺らしていた。
二人は互いの温もりを確かめるように寄り添い、朝が訪れるまで、離れることなく夜を過ごした。




