【第24話】堕ちていく足音、失われた資格
ロゼリアが異国の王宮で新たな一歩を踏み出し、穏やかな日々を取り戻しつつあった、ちょうど同じ頃。
隣国アクアクリスタ王国の兵舎の一角――重々しい静寂に包まれた将軍執務室で、ディアブロスは頭を抱え、仕事も手につかないまま悶々としていた。
(ロゼリアの噂は、いやでも耳に入ってくる……。あの国で、随分と幸せそうに暮らしているらしい……)
手元の書類に視線を落としても、一向に内容が頭に入ってこない。
(……くそっ、わざわざあの蛇女が知らせてくるからだ。王太子妃などという立場になりながら、どれほど暇をもてあましているというのだ!)
アベルマリアから届く手紙には、これみよがしに「ロゼリア様はルディアス様と仲睦まじくお過ごしですわ」といった言葉が書き連ねられていた。
それを読むたび、胸の奥を焼き切られるような嫉妬と痛みが走る。
(だが……ロゼリアの幸せを本当に願うのなら、俺は素直に身を引くべきなのだろうか? ……嫌だ。もう、あいつの心には俺の入る隙間など本当に残っていないというのか……?)
認めたくない現実に、ディアブロスは唇を噛みしめた。
(……そんなはずはない。だが……俺はもう、ロゼリア以外の女を愛せる自信などないのだ……!)
彼女を失った後悔と、手放したくないという身勝手な執着。その相反する感情に振り回され、ディアブロスは自分自身を追い詰めていた。
――コンコン。
「……将軍、お疲れ様です。コーヒーをお持ちいたしました」
控えめなノックとともに、一人の若い侍女が盆を手に部屋へ入ってきた。
緊張で顔を赤らめ、震える手で温かいコーヒーのカップをデスクへと差し出す。
「あの……少しお疲れのようですが、お体は大丈夫でしょうか……?」
少女は心配そうにディアブロスを見上げた。
彼は煩わしそうに一瞥すると、低く掠れた声で突き放した。
「……ああ、問題ない。下がれ」
冷たく言い放ち、興味を失ったように視線を外しかけた――そのときだった。
部屋を出ようと背を向けた侍女の、柔らかく波打つ茶髪と横顔が視界をかすめた。
(……ッ!?)
息が止まった。
顔立ちも髪の色も、どこかロゼリアの面影を感じさせたのだ。
ずっと飢え渇いていた面影を目の前に見つけた瞬間、ディアブロスの理性が揺らいだ。
「待て!」
「きゃっ……!?」
彼はたまらず立ち上がり、侍女の細い腕を強引につかんだ。
思いがけない力で引き寄せられ、少女は盆を落としかけながら、怯えた瞳でディアブロスを見上げた。
「し、将軍……っ!?」
ディアブロスは焦点の定まらない目で少女を見下ろし、唐突に問いかけた。
「……お前、俺のことが好きなのか?」
あまりにも不躾な問いだった。
日頃から凛々しい将軍に密かな憧れを抱いていた少女は、顔を朱に染め、恐る恐る小さく頷いた。
その瞬間、ディアブロスの胸の中に、暗く醜い情動が渦巻いた。
(ロゼリアじゃない……。だが、この女なら俺を受け入れる……!)
「……だったら、少し付き合え」
「え……っ、あ……!?」
強引に腕を引かれ、少女は執務室の奥にある仮眠用のベッドへと連れていかれた。
事態が理解できずにいた少女は、ベッドへ押し倒されそうになったところで、慌ててディアブロスの胸を押し返した。
「だ、ダメです……っ! 私、そういうのは初めてで……っ」
涙目で訴える少女に、ディアブロスは耳元へ顔を寄せた。
「俺が好きなんだろう? ……優しくしてやる」
少女の拒絶を無視し、ディアブロスはその身体に覆いかぶさった。
恐怖に身をすくめた少女が、助けを求めるように目を閉じた――まさに、そのときだった。
――バタンッ!
「将軍、リカルド殿下がおいでです!」
ノックもそこそこに、部屋の扉が大きく開かれた。
緊迫した側近の声が響き渡り、ディアブロスの動きがぴたりと止まる。
「……チッ」
あからさまに舌打ちを漏らし、ディアブロスは忌々しそうに少女の上から身を起こした。
解放された侍女は、乱れた着衣を慌てて整えると、顔を青ざめさせたまま、逃げるように部屋を飛び出していった。
入れ違いに執務室へ足を踏み入れたのは、王子のリカルドだった。
扉の脇ですれ違った少女のただならぬ様子と、乱れたベッド。そして、気まずそうな顔をしたディアブロスを見比べ、リカルドはあきれたように眉をひそめた。
「……おや。お邪魔だったかな? 彼女はもしかして、君の新しい恋人かい?」
どこか皮肉を込めて尋ねるリカルド。
ディアブロスは乱れた前髪を乱暴にはねのけ、吐き捨てるように答えた。
「……名も知らぬ、ただの女です」
その言葉を聞いた瞬間、リカルドの表情から笑みが消えた。
すうっと目が据わり、冷酷なまでの威圧感が執務室を満たす。親友として接してきた男の温かさは、そこには欠片も残っていなかった。
「……それは、あの彼女にも……そしてロゼリアにも、あまりに失礼じゃないか?」
「っ……!?」
「……最低だな、ディアブロス。ロゼリアを愛する資格は、今の君にはない」
静かな声だった。だからこそ、その言葉は刃のように鋭く突き刺さった。
ハッと我に返り、自分がどれほど醜い言い訳をしたのかに気づいたディアブロスは、青ざめて言葉を詰まらせた。
「……っ、ち、違う……そんなつもりじゃ――」
「今日は公務の件で話に来ただけだ。書類はそこに置いておくから、後で目を通しておいてくれ」
弁明を遮り、リカルドは冷ややかな眼差しを向けた。
「……当分の間、君とは距離を置かせてもらう。じゃあ」
それだけ告げると、リカルドは振り返ることなく執務室を去っていった。
一人残されたディアブロスは、デスクに手をついた。
(俺は……一体、何を……)
ロゼリアを傷つけ、失った。それだけではない。
今度は親友の信頼まで、自ら踏みにじってしまったのだ。
何かを弁明しようとしても、言葉はひとつも浮かばない。
ディアブロスは、誰もいなくなった執務室で、ただ立ち尽くしていた。
自らの過ちが招いた結果を、もう他人のせいにはできなかった。




