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【第19話】凛とした影と、揺れる憧憬


 無事に謁見(えっけん)を終えたロゼリアだったが、ルディアスには少しばかり処理すべき国務が残っていたため、彼が用事を済ませる間、侍女の案内で王宮の応接室へと向かうことになった。


 豪華絢爛な王宮の回廊を、緊張の余韻に包まれながら歩いていた、その時だった。


「あの……ロゼリア様」


 背後から静かで澄んだ声に呼びかけられ、ロゼリアは小さく肩を揺らして振り返った。


 そこに立っていたのは、先ほど感情を爆発させて去っていったクリスティーナとは、まるで異なる雰囲気を纏った女性だった。


 背中へと真っ直ぐに流れる、夜の闇を溶かし込んだような艶やかな黒髪。


 吸い込まれそうなほど深く美しい、紫水晶を思わせる瞳。


 すっと伸びた美しい背筋は、華美なドレスや装飾品に頼らずとも、ただそこに佇んでいるだけで周囲の空気を清廉に一変させる気品に満ちていた。


 年齢はロゼリアとそう変わらないように見えたが、どこか落ち着いた大人の雰囲気を漂わせている。


「初めまして。私はシルビアと申します。サルベール王国の宰相の娘にございます」


 シルビアは、指の先まで洗練された非の打ちどころのない所作で、緩やかに淑女(しゅくじょ)の礼を捧げた。


 その名を聞いた瞬間、ロゼリアは思わず息をのんだ。


(シルビア様……! 先ほどクリスティーナ様が口にされていた……)


「ロゼリアと申します。こちらこそ、初めまして」


 慌てて礼を返すロゼリアに対し、シルビアはあからさまに観察することも、値踏(ねぶ)みするように視線を送ることもなかった。


 ただ、静かな波のない湖のような声で言った。


「このたびは、ご婚約おめでとうございます」


「……あ、ありがとうございます」


「差し出がましいこととは存じますが……ご挨拶に伺いました。実は私、以前までルディアス殿下の婚約者候補(こんやくしゃこうほ)として、王家よりお名前を賜っていた者なのです」


 唐突に明かされた事実に、ロゼリアは胸を突かれたように目を見開いた。


(ルディアス様の……婚約者候補だった方……!?)


 動揺を隠せないロゼリアに対し、シルビアは変わらぬ落ち着いた様子で言葉を紡ぐ。


「ですが、殿下がご自身の手で選ばれたのは、ロゼリア様でした。きっと貴女は、殿下にとって何物にも代えがたい大切な存在なのですね」


 その言葉には、一切の皮肉も、嫉妬も、敵意すらも感じられなかった。


 あまりの平穏さに、ロゼリアは拍子抜けすると同時に、戸惑いを深める。


 クリスティーナは、彼女こそがルディアスに相応しい正妃だと叫んでいた。けれど当の本人であるシルビアからは、自分を排斥しようとする気配がまるで感じられないのだ。


「あの……クリスティーナ様は、シルビア様をとても慕っていらっしゃるのですね」


 尋ねてみると、シルビアはほんのわずかに、長いまつ毛を伏せた。


「ええ。幼い頃より、妹のように可愛がってきた身内のような存在です」


「妹のように……」


「私の存在を、少々理想化(りそうか)して捉えている節はございますけれど」


 淡々と言い捨てるその声音には、困惑とも、諦めともつかない複雑な響きが混ざり込んでいた。


「クリスティーナ様は……シルビア様こそがルディアス様に相応しいとおっしゃっていました」


「そうですか」


 シルビアはそれ以上、何も言い足さなかった。


 かつて自分がルディアスの婚約者候補筆頭だったことを誇る様子もなければ、かといって否定してロゼリアを慰めようともしない。


 ただ静かに、凛とした眼差しをロゼリアに向けていた。


「ロゼリア様」


「はい」


「殿下がお決めになったことには、殿下ご自身のお考えと覚悟があるはずです。私は……そのご判断を尊重いたします」


 凛とした、一本の芯が通った声だった。


 その揺るぎない言葉に触れ、ロゼリアの肩からすっと余計な力が抜けていく。


「……ありがとうございます、シルビア様」


「いいえ。では、私はこれで失礼いたします」


 シルビアはもう一度、絵画のように美しい所作で一礼した。


 歩みに合わせて揺れる真っ直ぐな黒髪と、紫水晶の瞳。最後までその中に、暗い情念が浮かぶことはなかった。


 滑らかに去っていくその背中を見送りながら、ロゼリアは胸の奥をキュッと締めつけられていた。


(クリスティーナ様が憧れるのも、わかる気がする……)


 美しく、聡明で、どこまでも落ち着いていて、佇まいだけで周囲を圧倒する気品。きっと、王族の隣に立つ『正妃』として、誰もが納得する完璧な女性なのだ。


(もし……私があの人のような女性だったなら。ルディアス様に、もっと胸を張って……)


 そこまで考えかけ、ロゼリアは慌てて首を横に振った。


(ダメよ、誰かと比べても仕方がない。ルディアス様は、ありのままの私を選んでくださったのだから……!)


 そう自分に言い聞かせていた、その時。


「ロゼリア?」


 いつの間にか国務を終えて歩み寄ってきていたルディアスが、心配そうにロゼリアの顔を覗き込んだ。


「どうしたの? 顔色があまり良くないけれど……何かあった?」


「……いえ。少し、考え事をしておりました」


「僕に話せないこと?」


 不安そうに眉を寄せるルディアスの様子に、ロゼリアは首を横に振った。


「そんなことはございません。ただ……先ほど、シルビア様とお会いしたのです」


 その名前が口から出た瞬間、ルディアスの表情がほんの僅かだけ強張った。けれど、彼はすぐにそれを消し去り、いつもの温かい眼差しへと戻す。


「そうか」


「……とても、魅力的なお方ですね。気品に満ちていて、美しくて」


 ぽつりと漏らしたロゼリアの言葉を聞き、ルディアスは静かに、小さく息を吐いた。


「君は君だよ、ロゼリア」


「……え?」


「誰かと比べる必要なんて、最初からどこにもないんだ。僕がこれからの生涯を共に歩みたいと心から願っているのは……他でもない、君なんだから」


 ルディアスはロゼリアの手を優しく包み込み、指を絡めるようにして強く握りしめた。


「だから、ひとりで抱え込んで不安にならないでほしい。君の心に少しでも翳(かげ)りが差したなら、いつでも僕に話して」


 注がれる無限の愛しさと優しさが、たまらなく愛おしい。


 嬉しいはずなのに、ロゼリアは自分の胸の奥に芽生えた小さな不安の芽を、うまく言葉にできずにいた。


 ルディアスの婚約者として、堂々と胸を張って隣に立ちたい。


 そう強く願う一方で、かつて傷つき、虐げられてきた過去を持つ自分を、まだどこかで完全に信じきれずにいるのだ。


(いつか……自分の過去を恥じることなく、ルディアス様の隣で胸を張って笑えるようになりたい)


 繋がれた彼の手を握り返しながら、ロゼリアは心の中でそっと固く誓った。


(そしてその時が来たら、もう一度シルビア様とお会いしたい。誰かと自分を比べて卑屈になるためではなく……ひとりの女性として、真っ直ぐに向き合うために)


 自らの心に固く誓いを立て、ロゼリアはルディアスを見上げて微笑んだ。


 ルディアスもまた、愛おしさに溢れた瞳で彼女を抱き寄せる。


 互いの温もりを確かめ合う二人は、まだ気づいていなかった。


 離れた廊下の角、物陰の暗がりから、自分たちを射抜くような鋭い視線が向けられていることに。


「……認めないわ。あんな一度離婚した女なんて、絶対に認めない……!」


 物陰に身をひそめるクリスティーナは、仲睦まじく寄り添う二人を睨みつけ、ギチギチとドレスの生地を握りしめていた。


 幼い頃から完璧で、高貴な憧れの存在だったルディアスお兄様。


 そんなお兄様が一度離婚した女にあっけなく骨抜きにされ、身内であるはずの自分を厳しく冷たく突き放した――その理不尽な事実が、屈辱となって彼女の胸を焼き焦がす。


「お兄様にふさわしいのは、気品あふれるシルビアお姉様だけ……! あんな女に我が物顔をさせるなんて、絶対に許さないんだから……!」


 血統とプライドを汚された怒り、そして自らが信じる『完璧な王家の姿』を破られた悔しさを孕んだ呟きは、誰の耳にも届くことなく薄暗い回廊へと消えていく。


 クリスティーナの瞳には、憧れの人を守りたいという思いだけではない、頑なな執着が宿っていた。


 ロゼリアはまだ知らない。


 この出会いが、穏やかな日々を揺るがす新たな波紋の始まりになることを。

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