【第2話】幼き日の救世主と、壊れた心(ロゼリア視点)
「――なぜ、よりにもよってお姉様なのだろうか」
旅立つ馬車の揺れに身を任せながら、私は遠ざかるアクアクリスタ王国の街並みを静かに見つめていた。
胸の奥で、カサカサと乾いた痛みが疼く。
思い返せば、私の人生はずっと日陰の中にあった。
私は、貴族である父が娼婦に生ませた子供だ。育てきれなくなった実の母親に無理やり押し付けられる形で引き取られたものの、待っていたのは家族としての愛ではなく、使用人同然の地獄だった。
すべての家事を押し付けられ、父親と義母から溺愛される腹違いの姉――エリスの侍従として扱われる日々。
そんなある冬の日、エリスが屋敷で一番高価なお皿を割ってしまった。
叱られることを恐れたお姉様は、迷わずすべての罪を私になすりつけた。
『ロゼリアが割ったのよ!』
『違います、私じゃありません!』と泣いてすがる私を、父も母も一瞥しただけで軽蔑し、罰として雪が激しく降り積もる外へ、裸足のまま追い出したのだ。
しんと静まり返った雪景色の中、手足の感覚が徐々に失われていく。
膝を抱え、体をできるだけ小さく丸めて寒さに耐えていた私の視界に、二つの人影が映った。
『ほっとけよ。どこかの使用人の子供だろ』
『……』
友人らしき少年の声を無視して、一人の少年が黙ってズンズンと私の方へ歩み寄ってきた。
幼いながらに目を奪われるほど美しい顔立ちをした、黒髪の少年。ぼうっと彼を見上げる私の目の前に、彼のブーツが止まった。
少年は着ていた厚手のコートを脱ぐと、私の小さく震える肩に優しく羽織らせてくれたのだ。
『……これで、少しは寒さをしのげるだろう』
立ち去ろうとする彼の背中に、私は咄嗟に手を伸ばし、その袖をぎゅっと掴んだ。
『……っ、ありがとうございます! お名前は……?』
『……ディアブロス』
ただ一言だけそう告げ、彼は去っていった。
あの日から、私の世界に光が射した。
『ディアブロス様』という名前は、悲惨な毎日を生き抜くための私の宝物になった。
街で彼の武勲や活躍を耳にするたび、胸が躍った。いつか大人になったら、もう一度だけお礼を言いたい。そんな甘い期待を抱きながら、私は冷たい屋敷での拷問のような日々を耐え抜いていたのだ。
◇
数年後、運命の悪戯はあまりにも残酷な形で訪れた。
お姉様の荷物持ちとして外出していたある日。お気に入りのパンを買いたいというエリスに連れられ、パン屋に入ったときのことだ。
買い物を終えて店を出ようとすると、入口の前に一人の男が立っていた。
逞しく成長した体躯に、漆黒の髪と金色の瞳。
(……ディアブロス様! また、会えた……!)
胸が破裂しそうなほどの歓喜に震えた、次の瞬間だった。
ディアブロス様は目を見開き、一直線にこちらへと歩み寄ってきた。そして――
『――君は、俺の番だ。名前を教えてほしい』
私のすぐ隣で、お姉様の前に恭しく膝をついたのだ。
獣人にとって「番」がどれほど絶対的な存在か、私でも知っていた。
一生に一度出会えるかどうかという運命の相手。
(……どうして? よりにもよって、私を虐げてきたお姉様が……?)
ディアブロス様の瞳には、すでに私の姿など映っていなかった。
その瞬間、私の初恋は、叶う前に終わりを告げたのだ。
それからの日々は地獄だった。
ディアブロス様はお姉様を狂おしいほどに溺愛し、毎日のように高価なドレスや宝石を贈り、甘い言葉を囁いた。
お姉様はわざと私を側に置き、勝ち誇ったような笑みを浮かべてそれを見せつけた。
お姉様がどれほど私を不細工だと罵倒し、理不尽に意地悪をしても、ディアブロス様はお姉様に甘い視線を向けるばかりで、私の傷つきには一切気づかなかった。
(それでも……あの日、私にコートをかけてくれた優しい貴方を、嫌いにはなれなかった……)
やがて隣国との戦争が始まり、ディアブロス様は騎士団長として戦場へ向かった。
『無事に帰ったら結婚しよう』と誓い合う二人を見て、私は「これで本当に終わり。諦めよう」と自分に言い聞かせた。
けれど――戦争で致命傷を負い、顔に消えない傷が残ったディアブロス様が帰国すると、お姉様は手のひらを返した。
身動きの取れなくなった彼をあっさりと捨て、富裕な領主の息子へと乗り換えたのだ。
捨てられ、暗い部屋で酒に溺れる廃人のようなディアブロス様を、私はどうしても見捨てられなかった。
毎日彼のもとへ通い、酒を遠ざけ、スープを作り、かいがいしく世話を焼いた。
そんな私に、彼は冷酷な嘲笑を向けた。
『お前、俺のことが好きなのか?』
『だったら、妻にしてやるよ。……お前なんぞ、エリスの十分の一にも、百分の一にも満たない不細工だがな。愛することなど絶対にない。ただの「代わり」だ』
残酷すぎる侮辱。
けれど、あの日からずっと憧れていた人の「妻になれる」という事実に、私の頬は赤く染まり、気づけば小さく頷いていた。
◇
結婚生活は、冷酷そのものだった。
初夜のベッドで服を引き裂かれ、『勘違いするな! お前はエリスの身代わりだ!』と乱暴に抱かれた。
痛みに耐え、涙を流しながらも、私は彼の背中にそっと手を回して受け入れた。
それでも、私は彼を愛し続けた。
嫌がる彼を宥め、動かない右肩のリハビリに毎日不眠不休で付き添った。
その甲斐あって彼の腕は完治し、再び戦場で功績を挙げたディアブロス様は「王国将軍」へと上り詰めた。
私を応援してくれる人も増えた。
王城へ手作りのお菓子を持っていくと、身の回りの騎士たちや、王太子であるリカルド殿下までもが私を労ってくれた。
『いつも君の献身には本当に感心するよ。色々と大変だと思うけれど、あいつは根は悪いやつじゃないんだ。何か困ったことがあったらいつでも相談してくれ』
リカルド殿下の温かい言葉に救われながら、私は必死に妻としての役目を果たした。
最近では、ディアブロス様も私に柔らかい笑みを向けてくれるようになり、閨でも優しく抱いてくれるようになった。
心の中にまだお姉様がいることは分かっていたけれど、私は確かに、彼と過ごす日々を愛おしく思っていたのだ。
――けれど、終わりは突如として訪れた。
将軍となったディアブロス様に、領主の息子との生活に飽きたお姉様が再びすり寄ってきたのだ。
そして、ディアブロス様はそれをあっさりと受け入れた。
二人の不倫が噂になり、城中で囁かれるようになった時。
(……あ、もう……ダメだ……)
私の心の中で、何かがパリンと音を立てて砕け散った。
連行されていくディアブロス様の背中を見送ったあと、私はフラフラとした足取りで王城へ向かい、リカルド殿下に謁見を申し出た。
リカルド殿下は心底気の毒そうに私を見つめ、言った。
『……大変だったね、ロゼリア。今回ばかりはディアブロスも罰を免れない。番解消の薬を飲まされることになる。そうすれば、きっとあの狂気も晴れて、君のもとへ戻ってくるはずだ』
私を励まそうとしてくださる殿下に、私は静かに首を振った。
『いいえ、殿下。……私は、もう疲れました。どうか、私を解放してください』
私を繋ぎ止めていた細い糸は、完全に切れてしまったのだ。
私の言葉を聞いたリカルド殿下は寂しそうに目を伏せ、やがて頷いてくれた。
『そっか……分かった。二人の離婚を認めよう。父上には僕から進言しておくから、安心してほしい』
そして殿下は思い直したように尋ねてきた。
『そうそう、ロゼリア。君はどこか行く当てはあるかい? お節介かもしれないが、隣国のサルベール王国の知人がね、君を王宮で見かけた際に好意を持ったようなんだ。よかったら紹介するが……』
『ありがとうございます。ですが……私はもう、恋などはしたくありません』
私は静かに頭を横に振った。
『もし望みが叶うなら……サルベール王国のどこかの孤児院で、働き口はないでしょうか』
『孤児院? なぜだい?』
『子供が好きですし……私のような境遇の子供たちを、救いたいのです』
リカルド殿下はフムと口に手を当てて考え込み、やがて温かく微笑んだ。
『いい考えだ。ひとつ心当たりがある。そこへ行くといい』
『……ありがとうございます』
私は殿下に深々と頭を下げ、王宮を後にした。
屋敷に戻り、丁寧に掃除をして、婚姻指輪と一枚の手紙を机に置いた。
私を救ってくれた初恋の人。私を傷つけ続けた夫。
さようなら、ディアブロス様。
私はもう二度と振り返ることなく、サルベール王国へと続く馬車に乗り込んだのだった。
お読みいただきありがとうございました!
ついに未練を断ち切り、新たな一歩を踏み出したロゼリア。
一方、正気に戻ったディアブロスの地獄はここから始まります――!
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