↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/42

【第12話】雨上がりの誓いと、止まった時計

 翌朝、降り続いていた雨は、嘘のように上がっていた。

 雲の切れ間から差し込む朝日が、濡れた街並みを淡く照らしている。

 ロゼリアは窓辺に立ち、静かに空を見上げていた。

 昨夜、ディアブロスと再会してから、胸の奥にしまい込んでいた記憶が、次々と蘇(よみがえ)っていた。

 かつて彼を愛し、彼の帰りを待ち続けた日々。

 いつか振り向いてくれると信じて、どれほど傷ついても笑顔を絶やさなかった自分。

 そして、もう戻ることのできない、あの頃の時間。

 彼を愛していた気持ちまで、なかったことにはしたくない。

 けれど、あの頃の自分に戻りたいとも思わなかった。

 胸の奥には、まだ言葉にできない感情が残っている。

 それをどう受け止めればいいのか、ロゼリア自身にも、まだわからなかった。

「……ルディアス様」

 振り返ると、彼が静かにこちらを見つめていた。

「どうしたの?」

「お願いがあります。今日、もう一度、時計塔へ行きたいのです。……一緒に来ていただけませんか?」

 ルディアスの表情が、わずかに曇った。

 昨夜、雨の中で泣き崩れた彼女の姿が、脳裏をよぎったのだろう。

 それでも、彼は彼女の気持ちを問い詰めることなく、そっと微笑んだ。

「もちろん。君が望むなら、一緒に行くよ」

「ありがとうございます……」

 ロゼリアは小さく頭を下げた。

 彼の優しさに甘えてばかりではいけない。

 自分の過去と向き合うためにも、ディアブロスと、もう一度きちんと話をしたかった。

 ◇

 時計塔へ向かうと、ディアブロスは昨夜と同じ場所に立っていた。

 ほとんど眠れなかったのだろう。顔色は悪く、目の下には濃い隈(くま)が浮かんでいる。

 足元には、小さな旅行鞄(かばん)がひとつ置かれていた。

 二人の姿を認めると、ディアブロスはゆっくりと顔を上げた。

「……来てくれたのか」

「はい。お話ししたいことがあります」

 ロゼリアは、彼の目を見つめた。

 以前なら、彼のわずかな表情の変化にも怯え、言葉を選んでいたかもしれない。

 けれど、今は違う。

 隣にはルディアスがいてくれる。そして何より、ロゼリア自身が、自分の気持ちと向き合おうとしていた。

「私は……もう、あの頃のように生きることはできません」

 静かな声だった。

 ディアブロスの表情が、かすかに強張(こわば)る。

「あなたを愛していた頃の私は、いつか振り向いてもらえると信じて、ずっと待っていました。あなたに必要とされたくて、自分の気持ちを押し殺して……それでも、あなたの妻でいられることが幸せだと思っていたのです」

 幼い頃、雪の中で彼が掛けてくれた温かなコート。

 あのときの優しさに、どれほど救われたことだろう。

 だからこそ、彼を愛した自分の気持ちまで否定したくはなかった。

「けれど、私はもう、自分を犠牲にしてまで誰かに愛されようとは思いません」

「……ロゼリア」

「あなたを憎み続けたいわけではないのです。ただ……今の私には、過去のことを、まだすべて整理できていません」

 ロゼリアは胸の前で、そっと両手を握りしめた。

「傷ついた気持ちも、あなたを愛していた記憶も、簡単には消せないのです。だからこそ、少しずつ自分の心と向き合いたいと思っています」

 ディアブロスは、彼女の言葉を黙って聞いていた。

 そして、しばらくためらったあと、かすれた声で尋ねた。

「……俺に、できることはないのか?」

 その問いに、ロゼリアはすぐには答えられなかった。

 彼に何かをしてほしいわけではない。

 けれど、過去を完全に切り離して、何もかも忘れたふりをすることもできなかった。

 やがて、ロゼリアは静かに口を開いた。

「ひとつ、お願いがあります」

「……何だ?」

「これから、月に一度だけ、手紙を交わしませんか?」

 ディアブロスが目を見開いた。

「手紙を……?」

「はい。これまでのことを、少しずつ言葉にして整理したいのです。直接会って話すと、まだうまく伝えられないこともありますから……」

 ロゼリアは、彼の表情を確かめるように見つめた。

「あなたを愛していた過去も、傷ついた気持ちも、なかったことにはしたくありません。きちんと向き合って、自分の中で受け止めたいのです」

 それは、彼への愛を取り戻すための約束ではなかった。

 けれど、過去に区切りをつけるために、今すぐすべてを断ち切ることも、彼女にはまだできなかった。

 ディアブロスは、しばらく呆然(ぼうぜん)としていた。

 やがて、彼の瞳に、かすかな光が戻る。

「……わかった。君が望むのなら、俺は必ず手紙を書く」

 その声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。

「ありがとう、ロゼリア……」

 ディアブロスは深く頭を下げた。

 彼女がどんな思いで文通を申し出たのか、本当の意味を理解できているわけではなかった。

 それでも、完全に拒絶されたわけではない。

 そう思いたかった。

 かつて自分の隣にいた彼女と、もう一度言葉を交わせる。

 その小さな繋がりに、彼はすがるような希望を抱いていた。

「……これからは、君を困らせるようなことはしない。手紙の中でも、君の気持ちを大切にする」

「……はい」

 ロゼリアは、静かに頷いた。

 その約束が、いつか彼にとってどれほど苦しいものになるのか。

 そして、自分自身の心をどこへ導いていくのか。

 このときの彼女には、まだわからなかった。

 ◇

 ディアブロスは、足元の旅行鞄を手に取った。

「……そろそろ行かなければならないな」

 彼はロゼリアを見つめた。

 かつては当たり前のように隣にいた彼女が、今は別の男の隣に立っている。

 その事実は、胸を締めつけるほど苦しかった。

 それでも、今はまだ、彼女と手紙を交わせる。

 その小さな希望を胸に、ディアブロスはゆっくりと頭を下げた。

「ロゼリア……どうか、元気で」

「あなたも、お体を大切になさってください」

 ロゼリアの返事は穏やかだった。

 そこに、かつての妻としての親しさはない。

 けれど、冷たい拒絶だけがあるわけでもなかった。

 ディアブロスはその声を胸に刻むように、しばらく彼女を見つめていた。

 やがて、彼は二人に背を向け、歩き出した。

 ロゼリアは、その背中が遠ざかっていくのを静かに見送った。

 胸の奥が、少しだけ痛んだ。

 けれど、その痛みが何を意味するのか、今はまだ、はっきりとはわからなかった。

 ◇

 ディアブロスの姿が見えなくなると、ルディアスがそっと声をかけた。

「……大丈夫?」

「はい……。ありがとうございます、ルディアス様」

 ロゼリアは彼を見上げた。

 昨夜からずっと、彼は自分の気持ちを急かすことなく、そばにいてくれた。

 その優しさに触れるたび、胸の奥に温かなものが広がっていく。

「あなたがいてくださって、本当に心強いです」

 そう告げると、ルディアスは嬉しそうに目を細めた。

「そう言ってもらえて嬉しいよ。でも、無理はしないでね。君が自分の気持ちを整理する時間も、僕は大切にしたいから」

「……はい」

 ロゼリアは小さく頷いた。

 彼の隣にいると、無理に強がらなくてもいいのだと思える。

 すぐに答えを出さなくてもいい。

 過去を忘れたふりをしなくてもいい。

 ただ、自分の心に嘘をつかず、一歩ずつ前へ進んでいけばいいのだ。

 ロゼリアは、隣に立つルディアスの手をそっと握った。

 彼は驚いたように目を瞬かせたあと、優しく握り返してくれた。

 その温もりに、ロゼリアの胸がほのかに熱くなる。

 まだ、自分の未来に自信を持ちきれない。

 けれど、この人と一緒にいたいという気持ちは、確かに胸の中にあった。

 そのときだった。

 長い間、針を止めたままだった時計塔から、かすかな音が響いた。

 ――コチ、コチ。

 止まっていた時計が、再び時を刻み始めたのだ。

 朝日が二人の姿を照らし、石畳の上に長い影を伸ばしていく。

 ロゼリアはルディアスの手を握りながら、静かに空を見上げた。

 過去は消えない。

 けれど、いつかその記憶に心を乱されることなく、前を向ける日が来るかもしれない。

 その日を信じて、今は一歩ずつ進んでいこう。

 ――止まっていた時計が再び動き出すように、ロゼリアの時間もまた、ゆっくりと動き始めていた。

【第12話】をお読みいただきありがとうございます!

自分の過去と誠実に向き合うと決めたロゼリアと、それをどこまでも優しく受け止めるルディアス様。止まっていた時計の針が動き出し、物語は新しい局面へ進んでいきます。

「ロゼリアを応援したい!」「ルディアス様が素敵!」と思ってくださった方は、ぜひブックマーク・星評価(★5)で応援していただけると励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。