【第12話】雨上がりの誓いと、止まった時計
翌朝、降り続いていた雨は、嘘のように上がっていた。
雲の切れ間から差し込む朝日が、濡れた街並みを淡く照らしている。
ロゼリアは窓辺に立ち、静かに空を見上げていた。
昨夜、ディアブロスと再会してから、胸の奥にしまい込んでいた記憶が、次々と蘇っていた。
かつて彼を愛し、彼の帰りを待ち続けた日々。
いつか振り向いてくれると信じて、どれほど傷ついても笑顔を絶やさなかった自分。
そして、もう戻ることのできない、あの頃の時間。
彼を愛していた気持ちまで、なかったことにはしたくない。
けれど、あの頃の自分に戻りたいとも思わなかった。
胸の奥には、まだ言葉にできない感情が残っている。
それをどう受け止めればいいのか、ロゼリア自身にも、まだわからなかった。
「……ルディアス様」
振り返ると、彼が静かにこちらを見つめていた。
「どうしたの?」
「お願いがあります。今日、もう一度、時計塔へ行きたいのです。……一緒に来ていただけませんか?」
ルディアスの表情が、わずかに曇った。
昨夜、雨の中で泣き崩れた彼女の姿が、脳裏をよぎったのだろう。
それでも、彼は彼女の気持ちを問い詰めることなく、そっと微笑んだ。
「もちろん。君が望むなら、一緒に行くよ」
「ありがとうございます……」
ロゼリアは小さく頭を下げた。
彼の優しさに甘えてばかりではいけない。
自分の過去と向き合うためにも、ディアブロスと、もう一度きちんと話をしたかった。
◇
時計塔へ向かうと、ディアブロスは昨夜と同じ場所に立っていた。
ほとんど眠れなかったのだろう。顔色は悪く、目の下には濃い隈が浮かんでいる。
足元には、小さな旅行鞄がひとつ置かれていた。
二人の姿を認めると、ディアブロスはゆっくりと顔を上げた。
「……来てくれたのか」
「はい。お話ししたいことがあります」
ロゼリアは、彼の目を見つめた。
以前なら、彼のわずかな表情の変化にも怯え、言葉を選んでいたかもしれない。
けれど、今は違う。
隣にはルディアスがいてくれる。そして何より、ロゼリア自身が、自分の気持ちと向き合おうとしていた。
「私は……もう、あの頃のように生きることはできません」
静かな声だった。
ディアブロスの表情が、かすかに強張る。
「あなたを愛していた頃の私は、いつか振り向いてもらえると信じて、ずっと待っていました。あなたに必要とされたくて、自分の気持ちを押し殺して……それでも、あなたの妻でいられることが幸せだと思っていたのです」
幼い頃、雪の中で彼が掛けてくれた温かなコート。
あのときの優しさに、どれほど救われたことだろう。
だからこそ、彼を愛した自分の気持ちまで否定したくはなかった。
「けれど、私はもう、自分を犠牲にしてまで誰かに愛されようとは思いません」
「……ロゼリア」
「あなたを憎み続けたいわけではないのです。ただ……今の私には、過去のことを、まだすべて整理できていません」
ロゼリアは胸の前で、そっと両手を握りしめた。
「傷ついた気持ちも、あなたを愛していた記憶も、簡単には消せないのです。だからこそ、少しずつ自分の心と向き合いたいと思っています」
ディアブロスは、彼女の言葉を黙って聞いていた。
そして、しばらくためらったあと、かすれた声で尋ねた。
「……俺に、できることはないのか?」
その問いに、ロゼリアはすぐには答えられなかった。
彼に何かをしてほしいわけではない。
けれど、過去を完全に切り離して、何もかも忘れたふりをすることもできなかった。
やがて、ロゼリアは静かに口を開いた。
「ひとつ、お願いがあります」
「……何だ?」
「これから、月に一度だけ、手紙を交わしませんか?」
ディアブロスが目を見開いた。
「手紙を……?」
「はい。これまでのことを、少しずつ言葉にして整理したいのです。直接会って話すと、まだうまく伝えられないこともありますから……」
ロゼリアは、彼の表情を確かめるように見つめた。
「あなたを愛していた過去も、傷ついた気持ちも、なかったことにはしたくありません。きちんと向き合って、自分の中で受け止めたいのです」
それは、彼への愛を取り戻すための約束ではなかった。
けれど、過去に区切りをつけるために、今すぐすべてを断ち切ることも、彼女にはまだできなかった。
ディアブロスは、しばらく呆然としていた。
やがて、彼の瞳に、かすかな光が戻る。
「……わかった。君が望むのなら、俺は必ず手紙を書く」
その声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
「ありがとう、ロゼリア……」
ディアブロスは深く頭を下げた。
彼女がどんな思いで文通を申し出たのか、本当の意味を理解できているわけではなかった。
それでも、完全に拒絶されたわけではない。
そう思いたかった。
かつて自分の隣にいた彼女と、もう一度言葉を交わせる。
その小さな繋がりに、彼はすがるような希望を抱いていた。
「……これからは、君を困らせるようなことはしない。手紙の中でも、君の気持ちを大切にする」
「……はい」
ロゼリアは、静かに頷いた。
その約束が、いつか彼にとってどれほど苦しいものになるのか。
そして、自分自身の心をどこへ導いていくのか。
このときの彼女には、まだわからなかった。
◇
ディアブロスは、足元の旅行鞄を手に取った。
「……そろそろ行かなければならないな」
彼はロゼリアを見つめた。
かつては当たり前のように隣にいた彼女が、今は別の男の隣に立っている。
その事実は、胸を締めつけるほど苦しかった。
それでも、今はまだ、彼女と手紙を交わせる。
その小さな希望を胸に、ディアブロスはゆっくりと頭を下げた。
「ロゼリア……どうか、元気で」
「あなたも、お体を大切になさってください」
ロゼリアの返事は穏やかだった。
そこに、かつての妻としての親しさはない。
けれど、冷たい拒絶だけがあるわけでもなかった。
ディアブロスはその声を胸に刻むように、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、彼は二人に背を向け、歩き出した。
ロゼリアは、その背中が遠ざかっていくのを静かに見送った。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
けれど、その痛みが何を意味するのか、今はまだ、はっきりとはわからなかった。
◇
ディアブロスの姿が見えなくなると、ルディアスがそっと声をかけた。
「……大丈夫?」
「はい……。ありがとうございます、ルディアス様」
ロゼリアは彼を見上げた。
昨夜からずっと、彼は自分の気持ちを急かすことなく、そばにいてくれた。
その優しさに触れるたび、胸の奥に温かなものが広がっていく。
「あなたがいてくださって、本当に心強いです」
そう告げると、ルディアスは嬉しそうに目を細めた。
「そう言ってもらえて嬉しいよ。でも、無理はしないでね。君が自分の気持ちを整理する時間も、僕は大切にしたいから」
「……はい」
ロゼリアは小さく頷いた。
彼の隣にいると、無理に強がらなくてもいいのだと思える。
すぐに答えを出さなくてもいい。
過去を忘れたふりをしなくてもいい。
ただ、自分の心に嘘をつかず、一歩ずつ前へ進んでいけばいいのだ。
ロゼリアは、隣に立つルディアスの手をそっと握った。
彼は驚いたように目を瞬かせたあと、優しく握り返してくれた。
その温もりに、ロゼリアの胸がほのかに熱くなる。
まだ、自分の未来に自信を持ちきれない。
けれど、この人と一緒にいたいという気持ちは、確かに胸の中にあった。
そのときだった。
長い間、針を止めたままだった時計塔から、かすかな音が響いた。
――コチ、コチ。
止まっていた時計が、再び時を刻み始めたのだ。
朝日が二人の姿を照らし、石畳の上に長い影を伸ばしていく。
ロゼリアはルディアスの手を握りながら、静かに空を見上げた。
過去は消えない。
けれど、いつかその記憶に心を乱されることなく、前を向ける日が来るかもしれない。
その日を信じて、今は一歩ずつ進んでいこう。
――止まっていた時計が再び動き出すように、ロゼリアの時間もまた、ゆっくりと動き始めていた。
【第12話】をお読みいただきありがとうございます!
自分の過去と誠実に向き合うと決めたロゼリアと、それをどこまでも優しく受け止めるルディアス様。止まっていた時計の針が動き出し、物語は新しい局面へ進んでいきます。
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