【第11話】雨の時計塔と、届かぬ叫び
フラフラとした足取りで寄宿宿へ戻ったディアブロスは、暗い部屋の中で立ち尽くしていた。
もうすぐ長期休暇が終わる。これが最後の機会だった。一度国へ戻れば、ロゼリアと再び向き合うことさえ叶わなくなるかもしれない。
だが……どれほど愚かだと蔑まれようと、彼女を諦めることなどできなかった。
ディアブロスは震える手で、一通の手紙をしたためた。
『もう一度だけ、謝罪の機会をくれないか。明日、街の時計塔の下で十二時に待っている。二人で話がしたい』
書き終えた手紙を見つめ、ディアブロスは唇を噛みしめた。
これが最後だ。
どれほど拒絶されようとも、せめて自分の犯した過ちを認め、彼女に謝りたい。
そして、叶うことならば……もう一度だけ、彼女の声を聞きたかった。
◇
その手紙はすぐに孤児院へと届けられ、ロゼリアの手元に渡った。
文面を読み終えた彼女の隣には、心配そうに寄り添うルディアスの姿があった。
「行く必要はないよ、ロゼリア。僕が君を守るから」
静かな、けれど熱を孕んだ声だった。
ロゼリアは手紙を握りしめ、しばらく黙り込んだ。
ディアブロスと向き合うことを考えるだけで、胸の奥が重くなる。
それでも、いつまでも過去から目を背けたままではいられない。
「……いいえ。これは、私自身が向き合わなければならない問題です。一度だけ、ディアブロス様とお話ししてきます」
「それなら、僕も一緒に行くよ!」
思わず身を乗り出すルディアスに、ロゼリアは真っ直ぐな瞳を向けた。
「いいえ。一人で行かせてください」
きっぱりと告げる彼女の声には、確かな決意が宿っていた。
ルディアスは何かを言いかけ、そっと口を閉じた。
本当は、彼女を傷つけた男のもとへなど行かせたくない。できることなら、自分がすべての痛みを取り除いてやりたい。
けれど、それではいけないのだ。
ロゼリアが自分の足で過去と向き合い、未来を選ぼうとしているのなら、その決意を尊重したかった。
「……分かった。でも、何かあったら、すぐに僕を呼んで。君がどんな選択をしても、僕は君の味方だから」
「ありがとうございます、ルディアス様……」
ロゼリアはほっとしたように微笑んだ。
その笑顔を見つめながら、ルディアスは胸の奥に小さな寂しさを覚えつつも、彼女の強さを改めて愛おしく思うのだった。
◇
約束の日。
ロゼリアが街の広場にある時計塔へ向かうと、賑わう街並みの中に、見覚えのある黒髪の獣人の姿があった。
ディアブロスは、時計塔の下でじっと彼女を待っていた。
その顔には、かつての威厳も余裕もない。まるで長い間眠れずにいたかのように憔悴し、頬はこけ、瞳には深い疲労が滲んでいた。
ロゼリアは一度だけ深く息を吸い、彼の目の前まで歩み寄った。
「……来てくれるとは思わなかった。ありがとう、ロゼリア」
ディアブロスは安堵したように呟くと、深く頭を下げた。
けれど、ロゼリアはその言葉を静かに遮った。
「お礼も、謝罪もいりません。もう、すべて終わりにしましょう。私は今日、それを伝えるために来ました」
「……ロゼリア」
彼女の声は冷たく、揺るぎなかった。
その時、急に空模様が怪しくなった。
ぽつり、と冷たい雫がロゼリアの頬を打つ。
やがて雨粒は次々と降り注ぎ、瞬く間に激しい土砂降りへと変わった。街を行き交う人々は慌てて傘を広げ、軒下へと駆け込んでいく。
けれど、二人はその場から動かなかった。
雨に打たれながら、ディアブロスはロゼリアを見つめていた。
「……俺は、君にどれほど酷いことをしたのか、ようやく分かったんだ」
声が震えていた。
「君がどれほど傷ついていたのか。どれほど俺の言葉を待っていたのか……。俺は何も分かっていなかった」
ディアブロスは拳を握りしめた。
「許されないことだと分かっている。それでも……どうしても、君に謝りたかったんだ」
そして、彼はロゼリアの前に膝をついた。
濡れた石畳に両手をつき、深く頭を垂れる。
「すまない……! 本当に、すまなかった……っ!」
その額が、石畳に押しつけられた。
「君を傷つけた。君の想いを踏みにじった。君が俺を信じてくれていたことさえ、当たり前だと思っていた……!」
雨音にかき消されそうな声で、ディアブロスは何度も謝罪を繰り返した。
「許してくれとは言わない……! そんな資格が俺にないことくらい分かっている……! それでも、俺は……俺は君を諦めることができないんだ……!」
彼の肩が激しく震えていた。
濡れた黒髪の隙間から、額に赤い擦り傷が滲んでいる。
あまりにも痛々しい光景に、ロゼリアは息を呑んだ。
「……やめてください」
思わず、声が漏れた。
ディアブロスは顔を上げようとしなかった。
「俺が悪かった。すべて俺が悪かったんだ……!」
「やめてください……っ!」
ロゼリアはその場にしゃがみ込み、彼の肩に手を伸ばした。
「もう、そんなことをしないでください……!」
彼女の目から、涙がこぼれ落ちた。
どうして、こんなにも苦しいのだろう。
ずっと聞きたかった言葉だった。
自分がどれほど傷ついていたのか、分かってほしかった。
ただ一度でいいから、自分の存在を大切に思ってほしかった。
それなのに。
それなのに、どうして――すべてが終わってしまった今になって、彼はそれを口にするのだろう。
「私は……あなたを恨んでなどおりません」
ロゼリアは震える声で告げた。
「あなたが本当は心優しい人だと、今でも思っています。あなたは覚えていないでしょうけれど……昔、雪の降る寒い日に、私にそっと温かいコートをかけてくださったことがありましたね」
あの日の温もりを、ロゼリアはずっと覚えていた。
誰からも大切にされていないと感じていた幼い自分に、あの一瞬だけ、誰かが優しさをくれた。
だからこそ、彼を信じたかった。
いつかまた、あの時のように自分を見てくれるのではないかと、期待してしまった。
「私は……あの時の優しさを、ずっと忘れられなかったのです……。だから、あなたに振り向いてほしくて……っ」
言葉が途切れ、涙が頬を伝った。
「でも、もう……いいのです」
ロゼリアは、ゆっくりと首を横に振った。
「私は、もう過去には戻りません」
その言葉に、ディアブロスがはっと顔を上げた。
彼の瞳に、かすかな希望が灯る。
「……ロゼリア。なら、もう一度だけ……」
彼は濡れた頬に手を伸ばし、彼女の顔を引き寄せようとした。
その瞬間――。
(――嫌っ!)
ロゼリアの胸の奥に、強烈な拒絶感が走った。
身体が凍りつき、息が詰まる。
触れられたくない。
もう、彼に触れてほしくない。
その感情に気づいた瞬間、ロゼリア自身がはっと目を見開いた。
かつては、あれほど彼に触れてほしかったのに。
今はもう、違うのだ。
次の瞬間、ロゼリアの身体が後ろへと引き寄せられた。
頭上に大きな傘が差しかけられ、温かく柔らかな腕が彼女を抱きとめる。
「……ルディアス……様……?」
驚きに目を見開くロゼリア。
そこには、彼女を守るように抱きしめるルディアスの姿があった。
「ごめんね。君との約束を破るつもりはなかったんだ。でも……どうしても心配で、近くで見守ってしまった」
ルディアスは、濡れた彼女の髪をそっと撫でた。
そして、ゆっくりと顔を上げると、冷ややかな視線でディアブロスを射抜いた。
「君は……彼女をこのまま激しい雨の中に居させる気かい? どこまでも自己中心的な男だね」
嫌悪感を隠そうともしない声だった。
ディアブロスは、はっと息を呑んだ。
ロゼリアが雨に打たれ、身体を震わせていることすら、自分の感情に囚われて気づいていなかったのだ。
「すまなかった……っ。俺はただ、ロゼリアに愛していると伝えたくて……!」
「それで彼女をさらに苦しめるとは思わなかったのか!?」
ルディアスの声が、激しい雨音を切り裂いた。
「君にあるのは、自分の想いばかりだ。彼女が何を望んでいるのか、どんな気持ちでここに来たのか……一度でも真剣に考えたのか!?」
「……っ」
「彼女は、君の後悔を受け止めるために生きているわけじゃない。君がどれほど苦しもうと、それを慰める責任もないんだ!」
ディアブロスは何も言い返せなかった。
その言葉が、あまりにも正しかったからだ。
ロゼリアは、もう自分のものではない。
彼女には彼女の人生があり、未来がある。
それなのに自分は、最後の最後まで彼女に何かを求めようとしていた。
「……すまない」
ディアブロスは、うなだれた。
今度こそ、自分が何をしているのかを理解した気がした。
「……明日、アクアクリスタ王国へ帰る」
彼は顔を上げ、ロゼリアを見つめた。
「もし……もし、まだ俺に少しでも伝えたいことがあるのなら、明朝、この時計塔に来てくれないか」
声はかすれていた。
「来てくれなくても、もう君を責めたりはしない。これが……俺から君に頼む、最後のことだ」
それだけを告げると、ディアブロスは深く頭を下げた。
そして、雨の中を一人、背を向けて歩き去っていった。
◇
その背中が人混みの向こうへ消えた瞬間、ロゼリアの身体から力が抜けた。
彼女はルディアスの胸に顔を埋め、堪えていた涙を一気にあふれさせた。
「なぜ……っ、なぜ今なのですか……!?」
震える声が、雨音に溶けていく。
「私があの頃、どれほど欲しかった言葉だったか……あなたは知らなかった……。私はずっと、あなたに愛されたかったのに……っ!」
ロゼリアは、ルディアスの服をぎゅっと握りしめた。
「もう戻りたいわけではないのです……! あなたを愛している気持ちに、嘘はありません……! でも、あの頃の私を思い出すと、どうしても涙が止まらないのです……!」
彼女の声は、悲痛な叫びに変わった。
「どうして、あの時じゃなかったのでしょう……。どうして、私が諦めるまで、何も言ってくださらなかったのでしょう……っ!」
ルディアスは、何も言わずに彼女を抱きしめていた。
彼女の涙を止めようとはしなかった。
無理に笑わせようともしなかった。
ただ、彼女が自分の感情をすべて吐き出せるように、その身体をしっかりと支え続けた。
「ルディアス様……ごめんなさい……。こんな私で、ごめんなさい……っ」
「謝らなくていいんだよ、ロゼリア」
ルディアスは、彼女の濡れた髪にそっと頬を寄せた。
「君がどんな気持ちを抱いていても、僕は君を責めたりしない。君が苦しいのは、それだけたくさん傷ついてきたからだろう?」
「……っ」
「もう、無理に気持ちを整理しなくていい。君が過去を思い出して泣きたいのなら、泣けばいい。僕はここにいるから」
その言葉に、ロゼリアは一層強く彼の胸にしがみついた。
温かかった。
どれほど泣いても、弱い自分を見せても、彼は離れていかない。
自分の感情を押し殺して、誰かに愛されるために無理をする必要もない。
ルディアスは、ロゼリアの涙が落ち着くまで、ただ静かに抱きしめ続けた。
やがて、彼は彼女の耳元で、優しく囁いた。
「……けれどね、ロゼリア。僕はもう、君しか愛せないんだ」
揺るぎない、真っ直ぐな声だった。
「君が過去を乗り越えるまで、僕は何度だって君のそばにいる。だから……どうか、自分を責めないで」
ロゼリアは顔を上げた。
涙に濡れた瞳の向こうに、ルディアスの優しい微笑みが見えた。
「……ありがとうございます、ルディアス様」
彼女は震える唇で、精一杯の笑顔を浮かべた。
そして、自分から彼の胸に頬を寄せた。
もう、過去に戻りたいとは思わない。
かつての温もりを忘れる必要もない。
あの日、コートをかけてくれた少年への感謝と、今、自分を包み込んでくれる彼への愛情。そのどちらも、自分の中にあっていいのだ。
過去に囚われるのではなく、過去を抱えたまま未来へ進んでいけばいい。
そう、思えた。
激しく降り続く雨は、二人を包み込むように街を濡らしていた。
そして、夜が明けてもなお、雨は止むことがなかった。




