子育て奮闘記
ミゼルの屋敷に、赤子が二人になった。
新たな赤子――リフレインが加わった。
暖炉の前に並べられたマリア特製の二つの揺り籠。
その中で、小さな赤子がそれぞれ別の方向を向いて眠っている。
ミゼルは、その光景を満足そうに眺めていた。
「素晴らしい……」
その隣で、セシリーが腕を組む。
「何がですかぁ?」
「研究対象が二匹になった」
「……研究対象って言い方、やめてもらえません?」
マリアの眉間に深い皺が刻まれた。
「この子たちは子供です」
「もちろん分かっている」
「本当に?」
「ああ」
ミゼルは真顔で頷いた。
「だからこそ、最高の研究対象なのじゃよ」
「分かってない!」
マリアの悲鳴が屋敷中に響いた。
こうして、三人と二人の奇妙な共同生活が始まった。
そして――この日から三年間。
マリアは何度も思うことになる。
普通の子育てとは、一体なんなのだろう、と。
☆
最初の問題は、寝かしつけだった。
「眠ってくださいねー」
マリアがタウラを抱きながら、ゆっくりと揺らす。
子守歌まで歌った。
しかしタウラは眠らない。
ぱっちりと目を開け、マリアの顔をじっと見ている。
「どうしたんでしょう?」
「目が冴えているのか?」
ミゼルが横から覗き込む。
「ほら、タウラ。眠るのじゃ」
するとタウラは――ミゼルの顔を見た。
そして。
にこっ。
「…………」
ミゼルが固まった。
「今、笑いおったか?」
「笑いました」
「我を見て?」
「左様でこざいます」
ミゼルはタウラを抱き上げる。
「……可愛い」
その瞬間だった。
隣の揺り籠から、
「ふぇぇ……!」
泣き声が響いた。
「あ、リフレインも起きました」
マリアが振り返る。
セシリーがリフレインを抱き上げた。
「よしよし。どうしたぁ?」
「ふぇぇ……!」
「腹が減ったか?」
「ふぇぇ!」
「そうか!」
セシリーが嬉しそうに頷く。
「飯だなぁ!」
「赤ちゃんですからね。食事ではなく授乳です」
「同じようなものだろぅ」
「違います」
こうして毎晩。
タウラが泣けばミゼル。
リフレインが泣けばセシリー。
マリアが二人の世話をしながら、その後始末をする。
奇妙な役割分担が出来上がった。
そして一つだけ。
誰も気づいていなかった。
タウラはミゼルが抱くと泣き止み。
リフレインはセシリーが抱くと泣き止む。
二人は生まれた時から、誰に懐けば安全なのかを本能的に理解していた。
☆
一歳になった頃。
タウラが立った。
「立った!」
マリアが叫んだ。
よちよちと両手を広げる。
「タウラ、こっちですよ!」
タウラは一歩。
また一歩。
そして――転んだ。
「きゃっ!」
「大丈夫です!」
マリアが慌てて駆け寄る。
しかし。
「よし、もう一回」
ミゼルが言った。
「え?」
「もう一度歩かせるのじゃ」
「いや、今転んだばかりですよ?」
「だから何んじゃ?」
「普通は心配するところです!」
「転ぶことによって、身体の使い方を覚える」
「理屈は分かりますけど!」
ミゼルはタウラを立たせた。
タウラは再び歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
今度は転ばなかった。
「……!」
ミゼルの目が輝く。
「素晴らしい」
「まだ一歳ですよ?」
「歩行能力、平衡感覚、空間認識……興味深いわ」
「ミゼル様」
「何?」
「親馬鹿になっていますよ」
「違うだろぅ」
ミゼルは胸を張った。
「研究者として当たり前の事じゃ」
「それを人は親馬鹿と言うんです」
一方。
リフレインは別の意味で問題だった。
セシリーが立たせる。
「リフレイン。歩いてみろ」
リフレインはセシリーを見る。
そして。
よちよち。
歩いた。
「おお!」
セシリーが歓声を上げる。
「やったな!」
リフレインが笑う。
セシリーも笑う。
「もう一回だ!」
よちよち。
「もう一回!」
よちよち。
「もう一回!」
よちよち。
マリアが止めた。
「セシリー様」
「なんだ?」
「それ、歩行訓練じゃありません」
「そうなのか?」
「赤ちゃんが疲れています」
「……そうか」
セシリーはリフレインを抱き上げる。
「よく頑張ったな」
その瞬間、リフレインがセシリーの胸に顔を埋めた。
「……可愛い」
セシリーの顔が完全に緩んだ。
マリアは思った。
この人も親馬鹿になっている。
☆
問題が起きたのは、言葉を覚え始めた頃だった。
「タウラ」
ミゼルが指を一本立てる。
「これは?」
「……ゆび」
「そう。ではこれは?」
杖を見せる。
「……つえ」
「ではこれはなんじゃ?」
魔法陣を見せる。
「……まほー」
ミゼルが沈黙した。
「……今、魔法と言いよった?」
「言いました」
マリアも驚いている。
「まだ簡単な言葉しか教えておらぬのに?」
「ええ」
「じゃあ、どうしてじゃ?」
ミゼルはしばらくタウラを見る。
そして。
「天才かもしれない」
「早いです」
「勇者かもしれない」
「もっと早いです」
ミゼルの目が本気だった。
「勇者は、言葉を覚える速度も速かった」
百年前。
異世界から召喚された少年。
平凡だったはずの少年が、異常な力を身につけた。
ミゼルは、その理由をずっと追い続けていた。
だからこそ。
タウラの小さな成長一つ一つが、彼女には特別に見えた。
「……この子が、勇者ヤクトと同じなら」
ミゼルが小さく呟く。
その横顔を見て、マリアは何も言えなかった。
ミゼルにとって勇者とは、ただの研究対象ではない。
百年前に世界を救った少年。
自分と肩を並べて戦った仲間。
そして。
今でも答えを求め続ける、たった一つの謎。
だからミゼルは諦められない。
「この子が勇者になれるかどうか……確かめたい」
その言葉には、研究者としての執念だけではなく。
どこか、祈りにも似たものが混じっていた。
☆
二歳になる頃には、二人の性格がはっきり分かれてきた。
タウラは慎重だった。
何かを始める前に、必ず観察する。
大人たちが何をしているのか。
何をすると褒められるのか。
何をすると怒られるのか。
全部見ている。
そして――覚える。
「タウラ、お菓子を食べる?」
「うん」
「一つだけですよ」
「うん」
タウラは一つ取った。
マリアが微笑む。
「いい子ですね」
タウラはもう一つを見る。
そしてマリアを見る。
「……もう一個?」
「駄目です」
「……はい」
素直に戻した。
しかしその夜。
マリアの机の上からクッキーが一枚消えた。
「…………」
マリアはタウラを見る。
タウラは知らん顔をしている。
ミゼルが笑った。
「賢い子じゃ」
「褒めないでください!」
一方のリフレインは。
「危ない!」
何度この言葉を言われたか分からない。
椅子に登る。
机に登る。
棚に登る。
屋根に登ろうとする。
「リフレイン!」
マリアが追いかける。
「降りてください!」
「いや!」
「どうしてですか!」
「たかい!」
「高いところが好きなんですか?」
「うん!」
そこへセシリーが現れる。
「そうか。高いところが好きかぁ」
「うん!」
「なら、もっと高いところに登るか?」
「うん!」
「セシリー様!」
マリアの絶叫が響いた。
☆
その日。
ミゼルが研究室で魔法の実験をしていた。
淡い光が宙に浮かぶ。
魔力が渦を巻き、幾何学的な魔法陣を形作っていく。
タウラはそれをじっと見ていた。
「綺麗」
ミゼルの手が止まった。
「……やってみるか?」
「うん」
「駄目です!」
マリアが即座に割って入った。
「二歳ですよ!」
「魔力を流すだけじゃ」
「二歳です!」
「危険はないだろ」
「ミゼル様がそう言う時は、だいたい何かあります!」
ミゼルは少し考えた。
「では、安全なものをじゃな」
小さな光球を作る。
「これなら触っても大丈夫じゃ」
タウラが手を伸ばした。
指先が触れる。
ぽん。
小さな光が弾けた。
「わぁ……!」
タウラが笑う。
ミゼルも笑った。
「そう。怖くないじゃろ?」
「うん!」
「魔法は、怖いものじゃない」
ミゼルは優しく教えた。
「自分の中にある力を、どう使うか。それだけ」
タウラは頷いた。
その少し離れたところでは。
「僕も!」
リフレインが手を上げていた。
「僕もやる!」
「リフレインは駄目です」
「なんで!」
「あなたは昨日、スプーンを投げて壁を壊したでしょう」
「……あれは魔法!」
「違います」
マリアは頭を抱えた。
☆
三歳になった。
屋敷の朝は早い。
「タウラ、起きなさい」
マリアがカーテンを開ける。
「……あと五分」
「三歳児が言う台詞ではないわ」
「昨日、セシリーお姉ちゃんが五分休んでいいって」
「それは訓練中の話でしょう」
「同じ」
「違うわ」
隣の部屋では。
「リフレイン! 起きろ!」
「……むり」
「朝だぞ!」
「ねむい」
「じゃあ腕立て伏せだ!」
「いや!」
「起きるか?」
「起きる!」
マリアは廊下で頭を抱えた。
「どうして朝から腕立て伏せなんですか……」
しかし。
二人が食卓につく頃には、いつもの光景が広がっていた。
「いただきます」
「いただきます!」
タウラは行儀よく食べる。
リフレインは勢いよく食べる。
ミゼルは二人を観察している。
セシリーは楽しそうに見ている。
マリアは二人の口元を拭いている。
――いつもの朝。
けれど。
最初の日から比べれば、ずいぶん賑やかになった。
タウラは魔法の基礎を覚え始め。
リフレインは身体能力を伸ばし始め。
そして二人とも。
自分たちを育ててくれた三人を、心から慕っていた。
「ミゼル様」
「何んじゃ?」
「今日、魔法教えて」
「よかろう」
「セシリー様!」
「なんだリフ?」
「今日も強くなる!」
「よし!」
「マリアさん!」
「はい?」
「おかわり!」
「……はいはい」
マリアは笑った。
最初は、この子たちを普通に育てようと思っていた。
普通に食べて。
普通に遊んで。
普通に眠って。
普通に笑う。
それだけでよかった。
なのに。
気がつけば。
タウラは魔法陣を理解し。
リフレインは大人顔負けの体力を持ち。
ミゼルは二人を見ながら研究ノートを書き。
セシリーは二人を鍛えることに生き甲斐を感じ。
そして自分は――。
「……私も、だいぶ毒されましたね」
ぽつりと呟いた。
ミゼルが振り返る。
「何か言ったか?」
「いいえ」
マリアは笑う。
「今日も元気に育ってくれて嬉しいな、と」
「そうじゃな」
ミゼルも微笑んだ。
窓の外では、朝日が森を照らしている。
百年前。
ミゼルは世界を救うために戦った。
そして今。
彼女の目の前には、二人の小さな命がある。
勇者になるかもしれない。
ならないかもしれない。
そんなことは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは。
この二人が生まれてからの三年間。
この屋敷には、笑い声と怒鳴り声と泣き声が絶えることがなかった。
そして――。
「ミゼル様!」
「何んじゃ?」
「リフレインがまた魔法陣を踏んでます!」
セシリーが教えてくれた。
「なんと?」
「なんで踏んだ!リフ」
「丸かったから!」
「理由になってません!」
「面白いわな」
「面白がらないでください!」
今日もまた。
マリアの悲鳴が、森の奥深くまで響き渡った。
――二人が三歳になった日。
それは、長い子育て奮闘記の終わりではない。
むしろ。
本当の地獄――いや、子育ての始まりだった。




