王太子と公爵 後編
後宮の外れにある、人気のない廊下。
そこを案内人に連れられて歩くアンドレ王太子の顔には、露骨な不機嫌さが浮かんでいた。
「おい! まだ着かないのか!」
「も、申し訳ございません、殿下。国王陛下より、こちらへお連れするよう仰せつかっておりますので……」
案内役の男が怯えたように肩を竦める。
だが、アンドレはそんなことには興味がない。
「まったく……俺をこんな場所まで呼び出すとは」
鼻を鳴らす。
王太子である自分を呼びつけることが許される人間など、そう多くはない。
おそらくは他国から来た弱小貴族か、商人あたりだろう。
何か陳情でもあるのか。
ならば、少し脅してやればいい。
金でも女でも、こちらが要求すれば差し出すに違いない。
「……俺を誰だと思っているんだ」
アンドレは薄く笑った。
その顔には、自分の地位が永遠に自分を守ってくれるという、根拠のない確信があった。
やがて案内人が一つの扉の前で立ち止まる。
コン、コン。
「アンドレ王太子殿下をお連れいたしました」
「入ってもらえ」
返ってきた男の声に、アンドレの眉が僅かに動いた。
妙に威圧感のある声だった。
「……誰だ?」
案内人が答える前に、扉が開く。
「こちらでございます」
アンドレは鼻を鳴らし、部屋へ入った。
「では、失礼いたします」
「おい、待て!」
振り返る。
だが、案内人はすでに扉を閉めようとしていた。
「おい!」
バタン。
扉が閉じた。
静寂が落ちる。
「……何だ?」
部屋には一人の男がいた。
こちらに背を向け、ソファに腰掛けている。
広い肩。
鍛え上げられた背中。
ただ座っているだけなのに、部屋そのものが狭く感じられる。
男がゆっくりと立ち上がった。
「久しぶりだな、アンドレ」
振り返る。
その顔を見た瞬間。
「――っ!」
アンドレの身体が勝手に後ずさった。
二歩。
三歩。
自分でも気付かぬうちに、逃げるように距離を取っていた。
「ダ、ダマスカス……公爵……」
「おいおい」
男――ダマスカス公爵が、苦笑する。
「昔みたいに『ダマスカス叔父さん』でいいんだぞ?」
アンドレの喉が鳴った。
「……いつ……紛争地から戻った」
「少し前だ」
穏やかな返事だった。
それが、かえって恐ろしかった。
ダマスカスはアンドレの背後にいる護衛へ視線を向けた。
「お前たちは外してくれ」
「しかし、公爵閣下――」
「久しぶりに会った甥と話がしたい」
笑っている。
なのに、その目は笑っていなかった。
「積もる話もある。少し休んでいろ」
「ですが……」
「――休んでいろ」
「……はっ」
護衛たちは渋々、部屋を出ていく。
「おい! 待て!」
アンドレが叫ぶ。
だが、扉は無情にも閉じられた。
再び、静寂。
アンドレは扉を見つめたまま固まっていた。
「どうした?」
ダマスカスが笑う。
「そんなところに突っ立ってないで、座れよ」
「…………」
「アンドレ」
優しい声だった。
それが恐ろしかった。
アンドレは震える脚を動かし、ソファへ腰を下ろした。
ダマスカスが向かいに座る。
「そんなに怖い顔をするなよ」
そう言って、ダマスカスはティーセットを乗せたワゴンへ向かった。
「紅茶でも飲むか?」
「……いらない」
「そうか」
ダマスカスは気にした様子もなく、自分のカップへ紅茶を注いだ。
一口。
「……少し冷めているな」
そして、ふと思い出したように顔を上げる。
「そうだ」
「……?」
「お前に土産があるんだった」
ダマスカスは足元に置いていた桐箱を持ち上げた。
「向こうで手に入れたんだ。お前なら喜ぶと思ってな」
「……土産?」
「ああ」
差し出される。
アンドレは怪訝な顔をしながら箱を受け取った。
妙に重い。
嫌な予感がした。
「……何だ、これ」
「開けてみろ」
「…………」
「アンドレ」
その声に逆らえなかった。
震える指で紐を解く。
蓋を開ける。
「――――っ」
息が止まった。
時間さえ止まったように感じた。
そこにあったのは――
女の首だった。
血の気を失った顔。
閉じられた瞼。
それでも、アンドレには誰なのか一瞬で分かった。
「…………アマ、ンダ……?」
唇が震える。
歯が噛み合わない。
全身から汗が噴き出した。
手から力が抜け、桐箱が床へ落ちる。
ゴトン。
アマンダの首が僅かに揺れた。
「どうだ?」
ダマスカスが微笑む。
「気に入ってくれたか?」
「……な……ぜ……」
「何がだ?」
「……殺した、のか……?」
ダマスカスは、ほんの少し首を傾げた。
「ああ」
あまりにも簡単な返事だった。
「俺の妻だからな」
そして――
「お前が犯し、お前の子を産ませた女だ」
アンドレの顔から血の気が引いた。
「……っ」
「よく知っているだろ?」
ダマスカスは笑っていた。
怒鳴りもしない。
剣にも手を掛けない。
ただ、静かに笑っている。
「俺はな、アンドレ」
紅茶を一口飲む。
「裏切りが大嫌いなんだ」
カップを置く。
カチリ。
小さな音が、異様なほど大きく響いた。
「だから、アマンダが死んだことより――」
ダマスカスの目から笑みが消える。
「お前が俺を裏切ったことのほうが、ずっと腹立たしい」
「…………」
「俺が何も知らないと思っていたか?」
アンドレの喉が震えた。
「俺を紛争地へ送り込んだのは誰だ?」
「…………」
「一年も帰還できないように、戦線を固定したのは?」
「……ち、違う……」
「ほう?」
ダマスカスが笑った。
「違うのか?」
その瞬間。
アンドレは理解した。
目の前の男は、ただ怒っているのではない。
もう、すべてを知っている。
アマンダのことも。
自分がしたことも。
バードのことも。
そして、自分がダマスカスを戦場へ追いやったことも。
「……俺を、殺すのか?」
ようやく絞り出した声。
ダマスカスは首を横に振った。
「殺さない」
「……え?」
「陛下との約束があるからな」
その言葉に、アンドレの目に僅かな希望が灯った。
だが――
「オリシアの下の子供が成人するまで、お前は生かす」
「……子供、……?」
「そうだ」
ダマスカスは淡々と告げた。
「その時点で、お前の子供たちの中から次代の王太子を正式に立てる」
「…………」
「つまり、お前は王太子ではなくなる」
「待て……」
「王都の表舞台からも消える」
「待ってくれ……!」
「病気療養という名目で地下牢へ入ってもらう」
「嫌だ……」
声が震えた。
「俺は王太子だぞ!」
「ああ」
ダマスカスは頷く。
「だからこそ、簡単には殺せない」
「なら――」
「安心しろ」
ダマスカスが笑う。
「お前の妻たちとは、もう話がついている」
「……なに?」
「お前を王都の広場で吊るせば、王家の恥になる。離縁して追放するのも外聞が悪い」
ダマスカスは楽しそうに語る。
「だが、自分の子が王太子になれるとなれば話は別だ」
「…………」
「皆、納得してくれたよ」
アンドレの唇が震えた。
自分を守るはずだった妻たち。
自分を支えるはずだった側近。
その全てが、自分の手から零れ落ちている。
「……バードは?」
ダマスカスは少しだけ目を細めた。
「ああ」
そして、まるで天気の話でもするように言った。
「闇ギルドとの繋がりが発覚したから拘束した」
「……嘘だ」
「翌日、自害したよ」
「…………」
「遺書も残っていた」
「……何と……?」
「『殿下を守りきれず、誠に申し訳ございません』だそうだ」
ダマスカスが薄く笑った。
「まるで自供だったよ」
「…………バード……」
アンドレの頭の中で、何かが崩れた。
自分の命令を忠実に実行していた男。
自分の秘密を知っていた男。
自分の側に最後までいると思っていた男。
その男すら、もういない。
「お前がバードにやらせたことは、全部分かっている」
「…………」
「証拠もある」
「…………」
「今すぐ首を刎ねたいくらいだ」
ダマスカスが立ち上がる。
アンドレの肩が跳ねた。
「だが――」
一歩。
近づく。
「お前は王太子だ」
さらに一歩。
「だから殺せない」
アンドレはソファの背へ身体を押しつけた。
「……来るな」
「何を怯えている?」
「来るな!」
ダマスカスは足を止めた。
そして、笑った。
「安心しろ」
その笑顔は、アンドレが今まで見たどんな悪人の笑顔よりも恐ろしかった。
「俺は約束を守る男だ」
「…………」
「殺さない」
ダマスカスは、はっきりと言った。
「お前が勝手に死ぬことも許さない」
「……え?」
「死なない程度に痛めつける」
アンドレの目が見開かれる。
「そして、死にそうになったら治療する」
「…………」
「また元気になったら、痛めつける」
「やめろ……」
「それを繰り返す」
「やめてくれ……!」
「一年でもない」
ダマスカスの声が低くなる。
「十年でもない」
アンドレの身体が震えた。
「お前の子供たち全員が成人するまでだ」
「――――!」
「十四年か、十五年か」
ダマスカスは微笑んだ。
「長いな」
「…………」
「だが、俺には短い」
その言葉に、アンドレは凍りついた。
そこで初めて気づいた。
この男は、アマンダを殺して終わりにするつもりなどない。
復讐を遂げて満足するつもりもない。
自分の人生を、これから何年もかけて壊し続けるつもりなのだ。
「……なぜ……」
アンドレの声が掠れる。
「なぜ、そこまで……」
「分からないか?」
ダマスカスは静かに答えた。
「お前が俺から奪ったものを考えればいい」
「…………」
「妻」
「…………」
「信頼」
「…………」
「家族として過ごした時間」
「…………」
「そして――」
ダマスカスの瞳が冷たく光った。
「俺が一度でも、お前を家族だと思ったことだ」
アンドレの顔が歪んだ。
その瞬間。
ダマスカスの拳が振り抜かれた。
鈍い衝撃。
「ぐああああああっ!」
身体がソファごと吹き飛ぶ。
鼻から血が流れ、口の中に鉄の味が広がった。
「……殺……さない……と……」
震える声で呟く。
「ああ」
ダマスカスは答えた。
「殺さない」
ゆっくりと歩み寄る。
「だから安心しろ」
その言葉が、何より恐ろしかった。
「お前にはまだ、たっぷり時間がある」
アンドレの脳裏に、これまでの自分の人生が浮かんだ。
王太子として持て囃された日々。
臣下が頭を下げた日々。
女たちに囲まれ、何をしても許されると思っていた日々。
そして――アマンダ。
あの女の顔が浮かぶ。
怯えた顔。
泣いていた顔。
それでも自分の子を産んだ女。
自分は、その女をどう扱った?
「…………違う」
呟く。
「俺は……そんなつもりじゃ……」
だが、言葉は続かなかった。
そんなつもりではなかった。
だから何だというのだ。
アマンダは死んだ。
バードも死んだ。
妻たちは自分を見捨てた。
そして自分は――
王太子ではなくなる。
王にもなれない。
自由もない。
未来もない。
死ぬことすら許されない。
「嫌だ……」
アンドレは震える手で床を掴んだ。
「嫌だ……嫌だ……」
初めてだった。
自分の地位が何の役にも立たないと理解したのは。
初めてだった。
命乞いをする側になったのは。
「……頼む」
アンドレは顔を上げた。
「ダマスカス……叔父上……」
その呼び方に、ダマスカスの足が止まる。
「俺が悪かった」
「…………」
「謝る……何でもする……だから……」
ダマスカスは、しばらくアンドレを見つめた。
そして――
「遅すぎる」
それだけだった。
「……あ……」
アンドレの目から涙が零れた。
自分が失ったものの大きさを、ようやく理解した。
権力も。
地位も。
未来も。
そして――
もう二度と戻らない人間も。
「……アマンダ……」
箱の中の彼女を見る。
そこで初めて、アンドレは心の底から後悔した。
もっと早く止めていれば。
もっと早く謝っていれば。
自分が王太子という立場に甘えなければ。
あの女を、一人の人間として見ていれば。
だが。
何もかも――もう遅い。
「……いやだ……」
アンドレは泣きながら首を振る。
「こんなの……嫌だ……」
ダマスカスはその姿を見下ろしていた。
怒りは、もうなかった。
憎しみすら、静かに沈んでいる。
残っているのは、ただ一つ。
この男に、奪ったものの重さを生涯かけて理解させるという狂気じみた執念だけだった。
「さあ、アンドレ」
ダマスカスが扉へ向かう。
「今日からお前の人生は、俺が預かる」
扉が開く。
外には王国軍の兵士たちが待っていた。
アンドレはその姿を見て、ようやく悟った。
これは脅しではない。
判決は、もう下されている。
自分の輝かしい未来は、今この瞬間――完全に消えたのだ。
「……嫌だぁぁぁぁぁっ!」
後宮の外れに、王太子の絶叫が響き渡った。




