王太子と公爵
王弟かつ公爵である俺は、王城の奥深い一室で、陛下と一対一の場を持った。
「兄上……これより先は、不心得者の耳に入らぬよう人払いを」
俺はあえて公的な場ではない声音でそう告げた。
「皆、退室せよ」
「……はっ」
控えていた近衛騎士団長と側近たちが、ピリついた空気を背負いながら足早に退出していく。
最後に振り返った側近の目には、ただ事ではない事態を察知した恐怖の色が浮かんでいた。
卓に置かれた冷めた紅茶を一口で飲み干し、俺は懐から重たい革表紙のファイルを取り出した。
「アンドレの素行について、兄上はどこまでご存知でいらしたか?」
問われた瞬間、陛下の眉間に深い皺が刻まれた。
「……近衛からの報告で、素行に問題ありとは聞いておるが」
俺は無言で、そのファイルを陛下の目の前に放り投げるように置いた。
パラリ、とページがめくられる音だけが室内に響く。
はじめは困惑の色を浮かべていた陛下の手が、数ページをめくった瞬間から激しく震え出した。
血走った目が、おぞましい事実が羅列された文字を貪るように追っていく。
「アンドレは、かつては礼儀正しく聡明な子だったはずだが……どこで道を違えたのだ」
絞り出すような陛下の声に、俺は冷笑を隠せなかった。
「――それを許し続けたのは、他ならぬ王家ご自身でしょう、兄上」
「……ダマスカスよ。この記述は、誠なのか……」
「公爵家の諜報網と、騎士団が独自に押収した裏帳簿です。偽りなど一つもない。これが明日にも市中に漏れ出せばどうなるか、お分かりか?」
「……」
「王家の信頼も威厳も地に落ち、一瞬にして民衆の怒りは爆発する。最悪、血塗れのクーデターが起き、オーガス王国そのものが地図から消滅します」
陛下の顔色が、一気に紙のように真っ白へと変わった。
当然だ。王家全員の首が王城の門前に並ぶ未来しかそこにはないのだから。
「それだけではありません。正妃であるマーシェリ殿の扱いはどうされるおつもりか? 彼女はセプト帝国皇帝の第五皇女。政略結婚とはいえ、帝国の誇りを踏みにじられたと知れば、皇帝陛下が黙って見過ごすとでも?」
「……っ!」
「兄上。一刻も早く、今回の関係者を全員この場にお呼び下さい。俺が全ての証拠を突きつけ、この国家の崩壊を防ぐための『落とし所』を提示します」
「……分かった。わしから全員を招集しよう」
「ただし、兄上。アンドレ本人には一切の沙汰を伏せておいて下さい。あの愚生だけは、俺が直接この手で地獄を見せますので」
「……承知した。追って沙汰を伝える」
「はっ」
俺は片膝をつき、しかし微塵も敬意の宿っていない形式的な礼をして部屋を後にした。
数日後。指定された後宮の一室に足を踏み入れた俺を待っていたのは、まだ事態の深刻さを微塵も理解していない空気だった。
中央のソファには陛下と王妃。右側には正妃であるセプト帝国出身のマーシェリ殿。そして左側には、我が国オルチア候爵家の血を引く側室・オリシア殿が腰掛け、優雅に茶を楽しんでいる。
(呑気なものだな。この後、自分たちの足元が崩れ落ちることも知らずに……)
侍女たちが退出したのを確認し、俺は一歩前に出た。
「この度は急な召集に応じいただき、ありがとうございます」
形式的な挨拶を省き、俺は卓の上の空間に件の報告書を叩きつけるように置いた。
「オーガス王国、王家に対して存亡の危機が訪れております。最悪の場合、王族全員の処刑および王家の断絶は免れません」
「なっ……! 王家の断絶ですって!?」
「ふざけた冗談はやめてちょうだい、ダマスカ
ス!」
王妃が甲高い声を上げ、マーシェリとオリシアも不快感を露わにする。
しかし、俺が配った報告書の束をめくった瞬間、彼女たちの表情から血の気が完全に引いた。
「アンドレ王太子の女癖の悪さは市井でも有名ですが……その実態は、ただの遊興では済まない」
俺は冷ややかな視線を王妃と陛下に向けた。
「学生時代から、側近のバードが王太子の尻拭いとして、数々の隠蔽工作や買収を行っていた。
今回の『ビーン村襲撃事件』を捜査していた騎士団が闇ギルドのアジトを急襲し、決定的な証拠を押さえたのです。……始めのうちは匿名で金を渡していたようで、長い付き合いの末、モロに王太子名義で闇ギルドに支払われた、数々の『口封じ』の領収書がね」
「ば、馬鹿な……バードがそんなことを……」
「あの気配りの利く側近が……?」
「かばいきれなくなったのでしょう。バードは昨日、牢獄の中で冷たくなっていた。王太子への忠誠を記した遺書を残してな」
室内の空気が氷点下にまで冷え込んだ。
「王太子の欲望のままに手篭めにされ、その後行方が分からなくなった下級貴族や平民の娘たち……その数、優に数十名。お腹に子を宿した者も含め、すべて『闇ギルド』を介して口封じに殺害されていました。村を丸ごと焼き払ったのも、その痕跡を消すためです」
「ひっ……!」
王妃が両手で口を押さえ、その場に崩れ落ちる。
マーシェリとオリシアも、自分のドレスの裾を強く握り締め、全身を震わせていた。
「いくら王家の血筋とはいえ、無辜の民を虐殺し、その隠蔽のために国家の機関をも私物化した事実が民衆に知れ渡れば、王太子の首一つで済むと本気で思っておられるか? 国民は王城を焼き払うぞ」
「どうすればいいのよ……! ダマスカス、何か方法があるはずよ!」
王妃が半狂乱になってすがりついてくる。我が子の罪の重さに、ようやく現実感が追いついたらしい。
「マーシェリ殿、オリシア殿。あなた方が今すぐ表立って離縁を申し立てるのは得策ではない。母国の意向や、実家の面子もある。……ゆえに、アンドレは『重度の病気療養』という名目で、二度と表舞台に出られない王宮の奥底に幽閉する。実質的な廃嫡です」
二人はハッと息を呑んだ。夫の犯罪に巻き込まれて自分たちまで処刑される最悪のシナリオを覚悟していた彼女たちにとって、それは救済に等しかった。
「次の王太子はどうなるの……?」
震える声で問うたのはオリシアだ。
「次代の王位は、あなた方のお子さまたちの中から選ぶ。マーシェリ殿の息子であるハリー(3歳)、そしてオリシア殿の長女コルシア(2歳)と長男アイク(1歳)……彼らが成人した折、その器量をもっとも見極めた上で、次代の王にふさわしい者を指名する。それが、セプト帝国を刺激せず、国内の求心力を保つ唯一の落とし所だ」
王位の継承権が自分の子供に巡ってくる可能性を示された瞬間、二人の目に微かな安堵の色が浮かんだ。
夫への情愛など最初からない。我が子が王になるのであれば、これ以上の好条件はないはずだ。
「……子供たちが成人するまでの間、王太子の座は空位にするのですね」
オリシアが落ち着きを取り戻したように尋ねる。
「そうだ。もっとも……もう一人、血を分けた『正規の子』の存在を除けば、だがな」
俺のその言葉に、室内の空気が再びピリついた。
「もう一人……? 一体、どこの誰の子よ!」
「我が妻であったアマンダが、アンドレに犯され、身ごもった子供だ」
その名を出した瞬間、陛下の顔から血の気が完全に引いた。
「信仰上の理由と、『子に罪はない』という思いから、アマンダは中絶を拒絶し、命がけで女の子を生み落とした……そして、その直後に自ら命を絶った」
「……っ!」
「俺が隣国との国境紛争に駆り出され、王都を離れていなければ……アマンダがあんな非業の死を遂げることもなかった! 彼女をこんな目に遭わせたのは、どこのどいつだ!」
俺の怒気が部屋中を圧迫し、王妃と側室たちは恐怖で身動き一つできなくなった。
「陛下。この辺境への出兵命令……あれは、アマンダの存在を疎んだアンドレが、あなたをそそのかして仕組んだものだご存知か?」
陛下は椅子から滑り落ちるように崩れ、ただ頭を垂れた。
「すまん……ダマスカス……わしが、あの子を甘やかしたせいで……アマンダを……!」
「謝罪はその腐った息子に直接なさるがいい。――兄上、アンドレと一対一で話す場を用意しろ。命までは取らん。だが、王家の盾の裏側でいかに自分が守られていたか、その身の毛もよだつ恐怖を、骨の髄まで教え込んでやる」
俺は返答を待たず、背筋を伸ばしたまま冷徹に踵を返し、部屋を退出した。




