夜泣き
その日の真夜中。
屋敷を包む森は、昼間とは別の顔を見せていた。
木々の隙間から差し込む月明かりは淡く、風に揺れる枝葉が、まるで何かを囁き合っているようにざわめいている。
屋敷の中は静まり返り、誰もが深い眠りについていた――はずだった。
「おんぎゃあぁぁぁー!」
静寂を切り裂く、けたたましい泣き声。
「ひくっ……ひくっ……おんぎゃーー!」
続いて、もう一人。
「「おんぎゃーー! おんぎゃーー!!」」
二人分の泣き声が重なり、屋敷全体を揺るがす。
「なっ!?」
隣室で眠っていたセシリーが、文字通り飛び起きた。
「敵襲かっ!」
寝ぼけ眼のまま枕元の剣をひっ掴み、勢いよく部屋を飛び出していく。
その顔には、完全に戦場へ赴く戦士の覚悟が浮かんでいた。
「どこだ敵はぁぁぁ!」
廊下を駆け抜け、育児部屋へ突入する。
だが――。
「……おぎゃあ……」
「ひっく……ひっく……」
そこにいたのは、二人の赤子。
そして、その二人を必死にあやしているマリアだった。
「……」
「……」
セシリーとマリアの視線がぶつかる。
「…………敵は?」
「ここには、敵などおりません」
「……」
セシリーは、手にした剣を見下ろした。
そして、ゆっくり鞘へ収める。
「そうか、外を見てくる!」
セシリーは、また走り去っていった。
そのやり取りを聞きつけ、ミゼルも姿を現した。
寝間着の上からガウンを羽織っただけの姿だが、いつもと変わらぬ落ち着いた表情である。
「何事じゃ、マリア」
「ミゼル様。赤ちゃんの夜泣きでございます」
マリアはタウラとリフレインを交互にあやしながら答えた。
「おそらく、お腹が空いたか、オムツが汚れたかのどちらかでしょう」
「夜泣き……」
ミゼルは二人の赤子を見つめる。
「つまり、この時間帯でも泣くということか?」
「はい。まだ赤ちゃんが小さいうちは、昼夜を問わず二、三時間おきに授乳する必要があります」
「二、三時間おき……」
ミゼルの瞳が、怪しく輝いた。
「なるほど」
腕を組み、真剣な顔で頷く。
「もっと詳細なデータを取らねばならぬな」
「……」
マリアは苦笑した。
やはりこの方は、何でも研究材料にしてしまう。
「授乳量、睡眠時間、排泄回数、泣き始める時間帯……」
「ミゼル様」
「うむ?」
「今はデータより、赤ちゃんを泣き止ませることが先でございます」
「……それもそうじゃな」
ミゼルが頷いた、その時だった。
「ミゼル様ーー!」
廊下から、ドタドタという激しい足音が響く。
「屋敷の内外、異常なし!」
セシリーが勢いよく部屋へ飛び込んできた。
「結界にも破られた痕跡はありません! 侵入者もなし!」
「……」
ミゼルは無言でセシリーを見つめる。
「お主……」
「はい!」
「その剣は何じゃ?」
「敵を探すためです!」
「敵などおらぬぞ」
「……」
セシリーが、赤子を見る。
「赤子は敵ではありません」
マリアが即座に否定した。
「そうかぁ」
セシリーは素直に頷く。
「じゃあ、何でこんなに泣いてるんです?」
「お腹が空いたからでしょう」
「ああ、なるほど」
納得したらしい。
「マリア、何か手伝うことはあるか?」
「はい。申し訳ございませんが、お二人をあやしていただけますか? 私はミルクを用意しますので」
「任せろ」
ミゼルがタウラを抱き上げる。
「セシリー、お主はそちらの雄をあやせ」
「はい、ミゼル様!」
セシリーもリフレインを抱き上げた。
「ほら、坊や。怖くないですよぉ」
セシリーが満面の笑みを浮かべる。
「べろべろばぁーー!」
「……」
「……」
リフレインがセシリーの顔を見つめる。
次の瞬間――。
「きゃっ、きゃっ!」
声を上げて笑い始めた。
「おお!」
セシリーが嬉しそうに顔を輝かせる。
「笑いましたよ、ミゼル様!」
「ふむ」
ミゼルもリフレインを眺める。
「何もせずとも、お主の顔だけで笑わせるとは。なかなか大したものじゃな」
「……」
セシリーの笑顔が固まった。
「ミゼル様〜」
「何じゃ?」
「それ、褒めてます?」
「当然じゃ」
「全然褒められてる気がしないんですけど……」
「我は、しっかりと褒めているぞ」
「そうですかぁ……」
セシリーが微妙な顔をする。
一方、ミゼルに抱かれたタウラは、先ほどまでの泣き声が嘘のように静かになっていた。
「まあまあ」
マリアが微笑む。
「お二人とも、すっかり泣き止んだようですね」
タウラはミゼルの胸元に顔を寄せ、安心したように小さな息を吐いている。
「タウラはミゼル様に抱かれて安心しているのでしょう」
「そうか」
ミゼルは小さく頷いた。
その声音は、研究対象を観察する時とは少し違っていた。
ほんの僅かに、柔らかい。
「セシリーのおかげじゃ」
「はい……」
セシリーも、どこか嬉しそうに笑った。
マリアは鍋を火にかけ、ミルクを温める。
「少々お待ちくださいね」
温度を確かめ、哺乳瓶へ二本、均等に注ぐ。
「……まだ少し熱いですね」
しばらく待ち、もう一度確かめる。
「よし。これで大丈夫です」
マリアは二人に哺乳瓶を手渡した。
「ミゼル様、セシリー様。飲ませてあげてください」
「うむ」
「ほい!」
二人がそれぞれ赤子を抱き直す。
哺乳瓶を口元へ運ぶと――。
ちゅっ、ちゅっ、と小さな音が響いた。
「おお……」
セシリーが目を丸くする。
「必死になって飲んでいますよ、ミゼル様」
「そうじゃな」
ミゼルはタウラを見つめた。
「生きるために必要なものを、懸命に取り込んでおる」
淡々とした言葉。
けれど、その表情には微かな笑みが浮かんでいた。
(ミゼル様は、相変わらず、そのような言い方をなさいますけれど……)
マリアは二人を見つめる。
ミゼルもセシリーも、口にする言葉だけを聞けば、とても子供を慈しんでいるようには思えない。
まるで実験動物でも観察しているかのような言動だ。
けれど――。
(お二人とも、とても優しいお顔をなさっているではありませんか)
マリアは、ほんの少しだけ笑った。
エルフと人族。
種族が違えば、価値観も違う。
ミゼルは、この二人の赤子を「勇者」という存在を生み出すための研究対象として見ている。
少なくとも、本人はそう言っている。
だが――。
(私は知っています)
マリアは、ミゼルの横顔を見る。
(ミゼル様は、ただ勇者を作りたいわけではない)
百年前。
世界を救った英雄。
異世界から召喚され、この世界の誰よりも強大な力を手にした少年。
そして、その少年と共に戦ったミゼル。
彼女が百年もの間、研究を続けている理由。
それは単なる好奇心ではない。
失ったものを、もう一度確かめたいのだ。
あの少年がなぜ勇者になれたのか。
なぜ、普通の少年が世界を救えるほどの力を得たのか。
その答えを知りたい。
そして――。
もし同じ条件を与えれば、もう一度「勇者」を生み出せるのではないか。
いや。
(ミゼル様は……勇者を超える存在を作れると、確信しておられる)
マリアは二人の赤子を見た。
「……」
胸の奥が、じんと熱くなる。
(この子たちは、生まれた家や身分によって運命を決められるのではない)
公爵家の子だから偉い。
平民だから劣る。
王族だから特別。
そんなものではない。
(ミゼル様は、そんな生まれによる身分差をなくそうとしておられるのでは……?)
マリアの瞳が輝いた。
(なんと崇高な思想なのでしょう……!)
「……」
隣でセシリーがマリアを見る。
「……また始まったな」
小さく呟いた。
だが、マリアには聞こえていない。
「分かりました……」
マリアは、ぎゅっと拳を握りしめる。
「私がこの子たちに、人族の世界の常識と倫理を徹底的に教えましょう!」
力強い宣言だった。
「それが……」
マリアの瞳に炎が宿る。
「それが、私がこの世に生き残った本当の理由なのですね!」
「……」
セシリーが天井を見上げた。
(違うと思うんだけどなぁ)
だが、あえて口には出さない。
どうやらマリアは、かなり思い込みが激しい人族らしい。
こうしてまた一人。
ミゼルの奇妙な教育方針に、勝手な解釈を加えた人物が誕生したのであった。
☆
同じ頃、王都のとある重厚な貴族屋敷の一室。
重いノックの音が響いた。
「当主様、ゴメスでございます」
「入れ」
男はドアの横に立つ護衛騎士に、顎で短く指示を出す。それに気づいた騎士が素早く施錠を外し、ドアを開けた。
「当主様、もう真夜中でございます。お休みになられた方が宜しいかと……」
「わざわざそれを伝えに来たわけではなかろう」
「はッ。……実は、看過できない噂を耳にしたもので」
当主は書類にサインを走らせていた手を止め、冷や
やかな視線をゴメスに向けた。
「申してみよ」
ゴメスはチラリと、室内に控える巨体の護衛騎士に視線をずらした。
「こやつは口がきけぬ故、俺の護衛に使ってる。腕は確かだ。それに余計な詮索もせん」
「例の一件の翌日ですが――」
大男の無言のプレッシャーに生唾を飲み込みながら、ゴメスは言葉を継いだ。
「ナッツの街に、大英雄とその従者が現れました」
「……大英雄、だと?」
「はい。『ミゼル・リーフレット』と『セシリー・オリオン』でございます。しかも、ナッツの店で大量の赤子用品を買い占めたと……確証も取れております」
当主は手元の冷めた紅茶を一口含み、ゆっくりと飲み下した。
「あのガキが、まだ生きていると……?」
「はい。私はそれが非常に危惧すべき事態かと」
ゴメスの額から大量の汗が流れ落ち、ハンカチで拭いても拭いても止まらなかった。
(下手をすれば、この報告自体が原因で私の命も当主様に消されかねない……この状況だけは、絶対に阻止しなければ……!)
「……ふっ。あれほどの力がありながら、政治には全く無関心な連中だ。放っておけ」
(いや、待てよ……?)
男の脳裏に、冷徹な計算が巡る。
(……もしや、このカードは利用価値があるか?)
「しかし、当主様の秘密を知られている可能性が――!」
「何もしてこない」
男は余裕の笑みをゴメスに溢す。
「こちらから手を出さなければの話だ。連中の監視だけは怠るな。下がれ」
「はッ! 畏まりました!」
冷や汗まみれのゴメスは、そそくさと部屋を後にした。
静まり返った執務室で、当主は闇に向かって呟く。
「おい、闇ギルドを潰せ」
まるで部屋の隅に誰かが潜んでいるかのような、絶対的な命令だった。
「――はっ」
わずかに空気が揺らぎ、影から声が返る。
「それと、手筈通りに動け。あのボンクラ王太子の側近の……なんだっけな」
「伯爵家三男のバードでございますか? 市中での王太子の不祥事を、金で買収して揉み消しているあの男です」
「ああ、そいつだ。今回の『不幸な事件』は王太子の指示であり、実務をそいつが取り仕切っていたとして拘束、尋問しろ」
「はっ。闇ギルドの巣窟から、王太子と通じていた動かぬ証拠を徹底的にかき集めて参ります」
「すべて揃った時点で、私は国王に謁見する」
返事はなかった。
影の者は、すでに命令の実行へと動き出していた。




