ミゼル赤子を産んだと噂される
ミゼルとセシリーは、商業都市ナッツでも屈指の老舗商店――バゼル商会を訪れていた。
店へ一歩足を踏み入れた瞬間、鼻をくすぐる革と木材、それに香辛料が入り混じった独特の匂いが二人を迎える。
壁という壁には棚が設えられ、その棚には天井まで届くほど大量の商品が積み上げられていた。
武具、工具、陶器、保存食、布地、書物、薬草、装飾品。
生活用品から冒険者向けの品まで、ありとあらゆる物が所狭しと並べられている。
「相変わらず、この店は床から天井まで物で溢れていますわぁ。棚も本当に凄いですねぇ」
セシリーは感心したように辺りを見回した。
「うむ……」
対照的に、ミゼルの目からはみるみる光が失われていく。
(この中から一つ一つ探すのか……)
想像しただけで気が遠くなった。
研究室なら散らかっていても目的の物を一瞬で見つけ出せるミゼルだが、他人の店となると話は別である。
「掘り出し物を探す楽しみがありますねぇ」
セシリーは宝探しでも始める子供のように、楽しそうに首を左右へ動かしていた。
そんな二人を見つけ、店の奥から一人の男が満面の笑みで歩み寄ってくる。
恰幅の良い体格。
流行の上質な服を着こなし、商人らしい愛想の良さを顔いっぱいに浮かべている。
だが、その笑顔とは裏腹に瞳だけは少しも笑っていない。
利益を見極める鷹のような目。
それこそが、この男――店主バゼルだった。
「これはこれは! ミゼル様、セシリー様! 本日は当店へご来店いただき、誠にありがとうございます」
深々と頭を下げる。
この二人は、定期的に金貨を山のように落としていく最上級の上客である。
自然と接客にも熱が入る。
「今回もよろしくねぇ。色々買うと思うから、おまけも期待しているからねぇ」
セシリーがニコニコと笑う。
「もちろんでございます。セシリー様のお望みとあらば、精一杯サービスさせていただきます」
「ところでミゼル様〜。今日は何を買うんですかぁ?」
「ああ……マリアに頼まれた物だが……」
そこまで言って、ミゼルの口が止まった。
視線が宙を泳ぐ。
完全に思い出そうとしている顔である。
(あ、これは……)
セシリーは瞬時に察した。
(細かい内容を全然覚えていませんねぇ)
百年単位の研究内容は完璧に記憶していても、昨日頼まれた買い物は忘れる。
これがミゼルである。
「ミゼル様〜。詳細を書いた紙をそのままバゼルに渡した方が早くて確実ですよぉ」
「……そうだな」
妙に納得したミゼルは懐から紙を取り出し、セシリーへ渡す。
セシリーがそのままバゼルへ手渡した。
「拝見いたします」
内容を読んだバゼルは、一瞬だけ眉を動かした。
(……赤子用品?)
哺乳瓶。
産着。
布おむつ。
乳児用寝具。
どれも赤ん坊を育てるための必需品ばかりだった。
(ミゼル様のお子様……?)
だが、すぐにその考えを振り払う。
(いや、余計な詮索は商人の命取りだ。お客様にはお客様の事情がおありなのだろう)
笑顔を崩さぬまま、バゼルは二度手を打った。
パン、パン。
「誰かおらぬか」
奥から若い女性店員が姿を現す。
「お呼びでしょうか」
「アリー。この品を見繕ってくれ」
「かしこまりました」
紙を受け取ったアリーは軽く目を通すと、迷うことなく店の奥へ消えていった。
「彼女は三人の子を育て上げた母親でございます。子育て用品には一番詳しい者ですので、どうぞ安心してお任せください」
「それは頼もしいですねぇ」
応接室へ案内された二人は、ふかふかの椅子へ腰掛けた。
程なくして香り高い紅茶と焼き菓子が運ばれてくる。
「ほう……」
ミゼルは焼き菓子を一口。
外は香ばしく、中はしっとり。
思わず目を細めた。
「ミゼル様〜! このクッキー、美味しいですよぉ」
「うむ。これは買いだ」
「ですよねぇ〜」
二人の評価を聞いたバゼルは待ってましたと言わんばかりに微笑む。
「では、お帰りの際に包ませていただきます。さらに人気の新作スイーツもご用意いたしましょう」
「「新作スイーツ!」」
その一言だけで、二人の表情がぱっと花開く。
百年以上生きるエルフであろうと。
魔王軍を退けた英雄であろうと。
甘い物への誘惑には勝てなかった。
普段は豪胆なセシリーも。
冷徹な研究者であるミゼルも。
今だけは年相応の少女のような笑顔を浮かべていた。
しばらくして、応接室の扉が控えめに叩かれる。
「失礼いたします」
アリーがワゴンいっぱいの商品を押して入ってきた。
「ご注文のお品は、こちらになります」
布おむつに肌着、哺乳瓶、寝具、乳児用の食器。
注文された物は丁寧にまとめられていた。
「結構な量がありますねぇ」
セシリーが感心すると、アリーは申し訳なさそうに頭を下げる。
「あの……実は一点だけ、ご用意できていない物がございます」
「無いんじゃ仕方ないわねぇ」
しかしアリーは慌てて首を振った。
「いえ、品物はございます。ただ……サイズが分からないのです」
「サイズ?」
「はい。衣類ですので、お召しになる方の体格が分からなければお持ちできません。もしご本人様、あるいはご本人様の衣類などがございましたら……」
「あっ」
ミゼルとセシリーの声が重なった。
完全に失念していた。
だが、その瞬間。
ミゼルが何かを思いつき、ぽんと手を打つ。
「セシリー、お主が着てみれば良いではないか」
「え、私ですかぁ?」
「そうじゃ。お主とマリアは背丈も胸も腰回りもほぼ同じじゃ。問題あるまい」
「えぇぇ……」
納得はしていない。
だが、理屈は正しい。
結局セシリーはアリーに連れられ、更衣室へ向かうのだった。
数分後。
「ミゼル様〜。どうですかぁ?」
更衣室の扉が開き、くるりと一回転しながらセシリーが姿を現した。
黒を基調とした清潔感のあるメイド服。
胸元は過度に開かず、裾も膝下まである落ち着いた意匠だ。
腰の白いエプロンが引き締まった身体を際立たせ、長い金髪との相性も悪くない。
何より、本人が満面の笑みだった。
「中々素敵でしょう〜?」
「……め、メイド服なのか?」
ミゼルは目を丸くした。
「そうですよぉ。生地は丈夫ですし、動きやすいですし、スカートの内側には暗器も隠せます。意外と実戦向きなんですよぉ」
「ほう……」
ミゼルは顎に手を当て、じろじろと眺める。
(悪くない……いや、むしろ有りじゃな)
見た目だけではない。
実用性も高い。
研究者としては、その点も評価せざるを得なかった。
セシリーは悪戯っぽく笑う。
「もちろん、ミゼル様の分もありますよぉ」
「な、我の分もか?」
「お揃いです♪」
その一言だけで、ミゼルの頬がわずかに緩んだ。
アリーも微笑みながら続ける。
「護身用の革製ホルダーもご用意いたしました。太腿へ装着するタイプですので、短剣などを携帯できます。」
「マリア用ですわぁ」
「抜かりないのぅ」
ミゼルは素直に感心した。
戦えないマリアだからこそ、少しでも身を守る術は必要だった。
「バゼルよ、世話になった」
「また来たらよろしくねぇ」
「こちらこそ、いつもご贔屓いただき誠にありがとうございます」
店の入口で、バゼルとアリーが深々と頭を下げる。
「またのお越しを、心よりお待ちしております」
メイド服姿となった二人は、買い物袋を収納して人混みの中へと歩いていく。
その姿が雑踏へ溶け込んで見えなくなるまで、二人は見送っていた。
商人とは、人との縁を財産に変える仕事である。
バゼルはそのことを誰より理解していた。
「どうじゃ、セシリー」
街道を歩きながらミゼルが尋ねる。
「私は好きですよぉ。いつもの膝上スカートより露出も少ないですし」
セシリーは柔らかく笑う。
普段、ミゼルが纏う黒いシルクのワンピースは、美しい脚線や白い肌が目立つ。
街を歩けば男たちの下卑た視線が容赦なく注がれる。
そのたびに、
(あの目をえぐり出してやろうか)
と、本気で考えていた。
今日は違う。
落ち着いた服装のおかげか、視線はかなり減っている。
それだけで、セシリーの気持ちは軽かった。
「それじゃあ帰りましょうかぁ、ミゼル様」
「うむ」
自然と足取りも弾む。
(ふふっ。ミゼル様との買い物……楽しかったですねぇ)
セシリーは密かにそんなことを思っていた。
馬車を雇い、大森林方面へ向かう。
街道は穏やかで、夏風が草原を揺らしていた。
しかし――。
最後の村が近づいた頃。
二人は同時に顔を上げる。
「ミゼル様……」
「ああ」
風に乗って漂ってきたのは、焦げ臭い臭い。
それだけではない。
鼻を突く鉄臭さ。
乾き始めた血の匂い。
二人の表情から笑みが消えた。
「御者よ」
「はい?」
「ここから先は危険だ。このまま街へ引き返せ」
「え?」
「我らはここで降りる」
馬車が止まるより早く、二人は飛び降りていた。
「お、お客様ーー!」
御者が慌てて叫ぶ頃には、二人の姿は森の中へ消えていた。
村の入口。
門は開いたまま。
人気はない。
鳥の鳴き声すら聞こえない。
静かすぎた。
「……嫌な静けさですね」
「生きた者の気配が感じられない」
二人は音を殺しながら村へ踏み込む。
そこには地獄が広がっていた。
倒れた村人。
焼け落ちた家屋。
血痕が石畳を黒く染めている。
老人も。
女も。
子供も。
誰一人として容赦なく斬られていた。
「魔獣でしょうか……」
「いや」
ミゼルはしゃがみ込み、遺体を調べる。
「傷が鋭すぎる。剣だ」
さらに目を閉じる。
魔力を広範囲へ放つ。
探知魔法。
微かに一つ。
本当に微かな生命反応があった。
「いた!」
ミゼルが駆け出す。
「村の中央だ!」
辿り着いた先には、半壊した大きな屋敷。
「村長宅でしょうか」
「恐らくな」
瓦礫の隙間から、女性の白い腕だけが見えていた。
「セシリー!」
「任せてください!」
セシリーは巨大な梁へ両手を掛ける。
「せぇぇぇぇぇい!」
バキバキッ!!
常人なら十人いても動かせない瓦礫が持ち上がる。
「相変わらず馬鹿力じゃ」
「馬鹿は余計です!」
その隙にミゼルが女性を慎重に引き出した。
すぐ治癒魔法を施す。
淡い光が傷口を包む。
しかし。
失われた血は戻らない。
潰れた内臓も元には戻らない。
「……駄目か」
ミゼルは唇を噛む。
「長時間挟まれておる」
女性の瞳は焦点が合っていなかった。
「……坊や……」
途切れ途切れの声だった。
喉は血で詰まり、呼吸をするたび胸が苦しそうに上下する。
それでも彼女の唇から零れた言葉は、自分の痛みではなかった。
ただ一人。
「地下室に……坊やが……」
ミゼルは、その姿に息を呑む。
(自分ではなく……子を案じるのか。)
百年以上を生き、多くの死を見てきた。
戦場では数え切れぬ兵士が、自らの命乞いをした。
英雄も。
王も。
騎士も。
死の間際には皆、自分だけは助かりたいと願う。
だが、この女だけは違った。
自分が助かることなど、一言も口にしない。
ただ。
「……坊や……お願い……」
その一念だけで生きている。
その姿は、あまりにも弱く。
そして、あまりにも強かった。
「セシリー!」
叫ぶより早く、セシリーが動いた。
「地下室ですね!」
拳を構えた瞬間、大気が震える。
「邪魔です!」
轟音。
衝撃波が瓦礫を吹き飛ばし、土煙が空へ舞い上がる。
地下室の扉が姿を現した。
勢いよく開く。
一瞬の静寂。
「……いました!」
その声に。
母親の身体から、ふっと力が抜けた。
まるで、その一言だけを待っていたかのように。
ミゼルはセシリーから赤子を受け取る。
軽い。
あまりにも軽い。
片腕だけで抱けるほど小さな命。
なのに。
目の前の親子は。
理屈など一つもない。
ただ愛している。
それだけだった。
震える母親の手を、ミゼルはそっと握る。
「安心せい」
優しく。
本当に優しく。
「お主の子は、生きておる」
その手を赤子の頬へ導く。
柔らかな温もり。
「ああ……」
母親は泣いた。
声もなく。
涙だけを流しながら。
「……よかった……」
それは世界で一番小さな言葉だった。
しかし。
ミゼルの胸には、百年前のどんな勝利の歓声より重く響いた。
「リ……フ……」
名前を伝えようとする。
もう息は続かない。
肺は血で満ち。
一文字話すたび命が削れていく。
「レイン……」
「リフレインか」
ミゼルは赤子を見つめる。
「良い名じゃ」
女は微笑んだ。
その笑みには、もう恐怖はなかった。
息子が生きている。
それだけで十分だった。
静かに。
本当に静かに。
母親の手が力を失い床に落ちた。
「……おい」
返事はない。
「おい、起きよ」
肩を揺する。
動かない。
「この子はどうする」
返事はない。
「この子を置いて逝くな……」
その声は怒鳴り声ではなかった。
懇願だった。
戦場で幾度となく仲間を失った英雄が。
初めて、一人の母親へ向けた願いだった。
「おい! まだ終わっておらん! この子を置いて逝く気か!」
叫んでも、応える声はなかった。
セシリーは静かに首を横へ振る。
「……ミゼル様」
「……分かっておる」
長い沈黙。
やがてミゼルは立ち上がった。
「遺体を広場へ集めよう」
「はい」
家の前には、一人の若い男が倒れていた。
剣を握ったまま。
最後まで離さなかったのだろう。
「父親か……」
名剣ではない。
どこにでもある量産品。
それでも、この剣は最後まで家族を守ろうと戦った。
その事実だけで価値があった。
ミゼルは剣を拾い上げ、丁寧に布で包み収納魔法へ納める。
「この子が大きくなったら返してやろう」
それが、せめてもの弔いだった。
この子一人を守るために。
父は剣を握り。
母は瓦礫の下で死を耐えた。
(これほどまでに、人は子を愛するのか。)
ミゼルには理解できなかった。
研究者として命を見続けてきた。
生物とは。
魂とは。
魔力とは。
そんなことばかり考えて生きてきた。
「ミゼル様……」
セシリーが周囲を見回しながら口を開く。
「妙です」
「何がじゃ」
「盗賊なら金品を奪います」
「うむ」
「ですが家財はそのままです。女性も老人も子供も、見境なく殺されています」
確かに違和感がある。
これは略奪ではない。
殺すこと自体が目的だった。
ミゼルの瞳が細くなる。
「……口封じか」
「ここは確か、マリアが逃げ延びる際に通った村でした」
その言葉で全てが繋がった。
公爵家。
王家。
望まれぬ赤子。
秘密を知る村人。
「証人を消した……ということか」
ミゼルの拳が震える。
百年前、魔王軍と戦った時よりも。
胸の奥から怒りが湧き上がってくる。
「罪もない民を自分たちの欲望で……」
守るべき子供まで……
許せない。
「……くっそがぁぁぁぁぁぁーーーーっ!!」
怒号が村中へ響き渡る。
誰もいない空へ。
焼け焦げた村へ。
そして、静かに眠るリフレインの未来へ向けるように――。




