家族になって一か月
エルザが、この家の家族になって一か月が経った。
最初の頃に比べれば、ずいぶんと表情も柔らかくなった。
食事の時には笑うようになったし、セシリーの訓練では悔しそうな顔をしながらも食らいついていく。
マリアの手伝いだって、頼まれる前に動こうとする。
一見すれば、順調にこの家へ馴染んでいるように見える。
――ただ一つ。
どうにも、エルザは頑張りすぎていた。
「エルザ、ちょっと頑張りすぎじゃない?」
昼下がり。
座学を終えたタウラが、隣で魔導書を閉じながら呟いた。
「僕もそう思う」
リフレインも頷く。
「最近のエルザ、ずっと肩に力が入ってるんだよね」
訓練でもそうだった。
以前なら休憩と言われれば素直に休んでいたのに、最近では誰よりも先に立ち上がる。
魔力制御の訓練でも、失敗するとすぐにやり直そうとする。
座学でも、分からない問題が一つあるだけで、まるで自分を責めるように何度も解き直している。
「このままだと、怪我しちゃうんじゃないかな」
「うん」
二人の意見は一致していた。
エルザが、何に焦っているのか。
二人には分かっている。
――自分たちとの圧倒的な差だ。
リフレインとタウラは、生まれた時からミゼルの教育を受けてきた。
いや。
教育という言葉だけでは、少々足りない。
赤子の頃から身体能力を鍛えられ、魔力を鍛えられ、知識を詰め込まれ、本人たちが覚えていないほど幼い時から様々な実験――もとい、指導を受けてきた。
五年。
たった五年。
だが、その差はあまりにも大きい。
「エルザ。そんなに無理をしなくてもいいんだよ」
リフレインが優しく声を掛ける。
「でも……」
エルザは俯いた。
「私……早く、みんなに追いつきたい……」
「大丈夫よ」
タウラが胸を張る。
「エルなら、すぐ追いつくわ」
「本当に……?」
「ええ。だってエルは頑張り屋さんだもの」
タウラはそう言って笑った。
けれど――エルザの表情から、不安が完全に消えることはなかった。
(魔力も身体能力も、知力も……)
エルザは二人を見る。
(私の知っている五歳児とは、到底思えない)
リフレインもタウラも、自分と同じ五歳なのに、まるで高ランク冒険者のような身体能力を持っている。
魔力制御だって異常なほど精密だ。
知識量も、自分とは比較にならない。
(これも全部……ミゼル様の力なんだよね)
だからこそ。
エルザは焦っていた。
自分も、もっと頑張らなければならない。
早く強くならなければ。
――この家の家族として、認めてもらうために。
☆
その日の夜。
屋敷が静寂に包まれた頃。
マリアはいつものように、子供たちの部屋を順番に回っていた。
「タウラもリフレインもぐっすり寝ているわね」
二人の寝顔を確認して、マリアは小さく笑う。
次にエルザの部屋へ向かう。
そっと扉を開けると――。
ベッドの上で、エルザが目を開けていた。
「……エルザ?」
「……マリアさん」
「眠れないの?」
「……うん」
エルザは小さく頷いた。
「色々考えてたら……眠れなくなっちゃった」
「そう……」
マリアには、その気持ちが痛いほど分かった。
自分も幼い頃、同じだった。
兄や姉と比べられ、もっと頑張れと言われ続けた。
努力しても、努力しても認めてもらえなかった。
貴族の家に生まれながら魔力が少なく、魔法を使えなかった自分は、無能だと扱われた。
やがて家を出され、奉公に出された。
それでも――。
(魔法は駄目だったけど……私は私にできることを、全部頑張った)
学問。
礼儀作法。
料理。
裁縫。
掃除。
貴族社会で女性に求められることを、一つずつ身につけていった。
いつか認めてもらえると信じて。
けれど。
最後まで、父が自分を認めることはなかった。
そんな自分を拾ってくれたのが、あの公爵家だった。
(努力は……無駄じゃなかった)
だからこそ。
今、目の前にいる少女に、自分と同じ思いをさせたくなかった。
「ねえ、エルザ」
「はい」
「今日は、私と一緒に寝ない?」
「……え?」
「私のベッドで、一緒に寝ましょう」
エルザが目を丸くする。
「お布団の中で、色々お話しましょう?」
「…………」
「それとも……私と一緒に寝るのは嫌かな?」
「そ、そんなことないです!」
慌てて起き上がったエルザを見て、マリアは思わず微笑んだ。
「じゃあ決まりね」
マリアはエルザをそっと抱き上げる。
「わっ……」
腕の中に収まったエルザは、思っていた以上に軽かった。
(……こんなに軽かったんだ)
今まで、この小さな身体でどれだけ頑張ってきたのだろう。
「じゃあ、このまま抱っこして行きましょう」
「……はい」
エルザは抵抗しなかった。
マリアの肩に顔を預ける。
「…………お母さん」
「え?」
エルザがハッとした。
「あっ……!」
顔を真っ赤にする。
「い、今のは違うんです! ちょっと間違えただけで……ごめんなさい!」
「うふふ」
マリアは笑った。
「謝らなくていいのよ」
「でも……」
「あの子たちも、たまに私のことを『お母さん』って呼ぶのよ」
「タウとリフが……?」
「ええ」
マリアは歩きながら、少しだけ遠い目をした。
「あの子たちは、本当に小さな赤ちゃんの頃にここへ来たから……本当のお母さんのことは覚えていないんだけどね」
「……そうなんだ」
「だから、今の話は二人には内緒よ?」
「うん」
エルザはマリアの首に腕を回した。
「分かった……お母さん」
「……ええ」
マリアは優しく笑った。
「それでいいのよ」
☆
マリアの部屋。
窓から差し込む青白い月明かりが、部屋を淡く照らしていた。
マリアはエルザをベッドへ寝かせ、その隣に腰を下ろす。
「それでね、エルザ」
「はい」
「リフレインたちがあんなに凄いのは、ミゼル様が色々と――」
マリアは一瞬、言葉を止めた。
「……実験……」
「?」
「いえ、指導した結果なのよ」
危ない。
今のは危なかった。
「だから、エルザもミゼル様に相談してみるといいわ」
「相談……?」
「ええ。今、困っていること。辛いこと。どうなりたいのか。全部、正直に話してみるの」
「全部……?」
「そうよ」
マリアは微笑む。
「ミゼル様は古の大英雄で、伝説の大魔導師なんだから」
そして、少しだけ胸を張った。
「ミゼル様の研究ノートには――不可能という文字はないんだからね」
「…………!」
エルザの目が輝いた。
「ミゼル様、凄ーい!」
「そう。ミゼル様は凄いのよ」
「うん!」
エルザは嬉しそうに笑った。
「明日、話してみる!」
「ええ。それがいいわ」
マリアはエルザをぎゅっと抱きしめた。
その夜。
二人は遅くまで話をした。
好きな食べ物。
好きな遊び。
楽しかったこと。
これからやってみたいこと。
行ってみたい場所。
そんな他愛もない話をしているうちに――。
「……すぅ……」
「あら」
いつの間にか、エルザは眠っていた。
その寝顔には、昼間まで張り詰めていたものがない。
ただの五歳の少女。
未来への不安よりも、これから訪れる明日への期待を抱いた、穏やかな寝顔だった。
マリアは、その髪を優しく撫でる。
「……おやすみ、エルザ」
この夜から――。
夜の添い寝相談会が始まった。
そしてそれは、子供たちが成人した後も、不定期ながら続いていくことになる。
ただし――。
リフレインだけは七歳を境に、参加資格を失った。
理由は単純。
「なんで僕だけ駄目なの!?」
反対するタウラとエルザ。
「汚物を見るような目でこっちを見るなよ!」
タウラとエルザの視線に耐えられなかったからである。
「僕だって悩みくらいあるよ!」
「リフは……」
「何!?」
「……乙女の秘密を聞こうとするから」
「聞いてないよ!」
「聞いてるじゃない!」
「聞いてない!」
「聞いてる!スケベ!」
結果。
リフレインは夜の相談会から永久追放された。
なお、日中の空き時間にマリアへ相談することは許されている。
本人としては、それで十分――らしい。
☆
翌朝。
エルザは意を決して、ミゼルの研究室の前に立っていた。
小さな拳を握りしめる。
そして――。
コン、コン。
「ミゼル様! エルザです! 今、お時間よろしいでしょうか!」
昨夜、マリアに教えてもらった言葉を、そのまま口にした。
「……ん?」
部屋の中から声が返ってくる。
「エルザか。開いておるぞ。入るがよい」
「し、失礼します!」
エルザは背伸びをして、頭上にあるドアノブへ手を伸ばす。
何とかノブを回して、研究室へ入った。
そこには大量の魔導書と研究資料。
怪しげな薬品。
用途不明の魔道具。
そして、何に使うのか絶対に知りたくない謎の装置。
そんな混沌とした研究室の中央で、ミゼルは書類を整理していた。
「どうしたのじゃ?」
ミゼルがエルザを見る。
エルザは一度だけ深呼吸した。
そして――。
「ミゼル様!」
「うむ」
「私、もっと強くなりたいんです!」
「……ほう?」
ミゼルは眼鏡を押し上げた。
「二、三年もすれば、今より遥かに強くなっていると思うがの」
「二、三年じゃ駄目なんです!」
エルザは拳を握る。
「今すぐにでも、強くなりたいんです!」
その瞳は真剣だった。
「なぜじゃ?」
「私……」
エルザは一度だけ唇を噛んだ。
「リフとタウの……足手まといになりたくないんです!」
ミゼルは黙った。
もちろん知っていた。
エルザが二人との力の差に悩んでいることくらい、最初から把握している。
問題は――。
(これ以上の強化となると……)
ミゼルの脳裏に、いくつかの研究成果が浮かぶ。
これまで以上の禁術。
肉体そのものへの干渉。
身体能力を強制的に引き上げるための処置。
成功すれば、飛躍的な成長が期待できる。
ただし――。
身体への負担は凄まじい。
「エルザよ」
「はい!」
「一つだけ、方法がないこともない」
「……!」
エルザの目が見開かれた。
「ただし――」
ミゼルは、あえて低い声を出した。
「物凄い激痛が、身体中を駆け巡るぞ」
「…………」
エルザは黙った。
ほんの一瞬だけ迷う。
しかし――。
「平気です!」
即答だった。
「私、痛いのには強いですから!」
「…………ほう」
ミゼルの目が細くなる。
(なるほど)
この子は、思った以上に覚悟がある。
あれを使うのは、さすがに躊躇していた。
だが――。
本人が望むというのなら。
(魔改造……開始じゃな)
ミゼルの口元が僅かに吊り上がった。
「よかろう」
「本当ですか!」
「一週間――」
ミゼルは少し考えた。
「……いや、三日間耐えられたら、エルザ専用のサプリメントを用意してやろう」
「ありがとうございます!」
エルザの顔が一気に輝く。
「頑張ります!」
「うむ。精進するがよい」
「はい!」
エルザは満面の笑みを浮かべると、研究室を飛び出していった。
「これで……!」
廊下を駆けながら、エルザは拳を握る。
「これで、リフとタウについていける!」
その小さな背中を見送ったミゼルは――。
「…………」
ゆっくりと机の引き出しを開いた。
そこには、厳重に封印された一本の瓶があった。
瓶の中で、紫色の液体が禍々しく揺れている。
「ふふふ……」
ミゼルは楽しそうに笑った。
「さて……久しぶりに本気を出すとするかの」
その時。
「ミゼル様~」
研究室の扉が開いた。
セシリーだった。
「本当にアレを使うんですかぁ?」
「うむ」
「アレですよねぇ?」
「うむ」
「過去に実験した動物が、ことごとく狂い死んだアレですよねぇ?」
「…………」
ミゼルは瓶を眺める。
「そのまま使うわけではない」
「ですよねー!」
「まずは様子を見ながら、少しずつ量を増やしていけばよい」
「さすがミゼル様~!」
セシリーは感心したように頷いた。
「…………」
だが。
その笑顔が、僅かに引きつる。
「……でも、大丈夫かしらぁ」
セシリーは、エルザが消えていった廊下を見る。
ミゼルは何も答えなかった。
ただ――。
机の上には、いつの間にか新しい研究計画書が置かれていた。
その題名は。
――『エルザ強化計画』
だった。




