53話 安徳台の幼帝
その姿は、思わず息をのむほどに清らかだった。
纏うのは、瑞々しい萌黄色の小直衣。
幼き帝の足元を飾るのは、汚れひとつない白い指貫。
その立ち姿は、夏の猛々しい熱気さえも、一瞬で秋の朝露のような清涼な霊気に変えてしまう。
『この地の者たちが、千年の間、余を忘れずに祈ってくれました。 その純な想念が、余の魂を癒やし、この姿を留めておりまする』
少年――安徳天皇は、澄んだ瞳で那珂川の山々を見つめ、誇らしげに微笑んだ。
「おい、言仁。お前が鍵だってのは本当か?」
クナドが臆さずその名を呼んだ瞬間、ツキが顔色を変えて割って入る。
『クナド! 失礼な呼び方をするものじゃないわ。畏れ多くも安徳天皇なのよ』
詰め寄るツキを、幼き帝は柔らかな手で制した。
「構わぬ、ツキ。余はすでに肉体を脱ぎ、この地の神として座しております。クナド神もツキも余も、八百万の末に繋がる同胞。ここには、位も上下もなきのだから」
「言仁、お前しかいねェんだ」
安徳天皇は小さく頷くと、萌黄の袖をひるがえして歩み出す。
『いざ、参ろうぞ』
その足取りは、まるで水面を滑るかのように軽やかで、けれど迷いなど微塵も感じさせない。
亀吉が変化した鏡の表面は、今や異界の瘴気に当てられ、どす黒く波打っていた。
近寄る者すべてを拒絶するその闇。
安徳帝は恐れる様子もなく、そっと白く柔らかな手をあてる。
その瞬間、指先から萌黄色の光が波紋のように広がり、鏡にこびりついていた闇を瞬く間に洗い流していった。眩いほどの純白の光を放ち始める。
入る者を拒んでいたはずの深淵への入り口が、今は安徳帝を歓迎するように、力強く開かれた。
帝は光の渦の直前でふと足を止め、振り返ると、源じいに向かって小さく手を振った。
『源じいさま、行って参ります』
『ああ、気をつけてな。……腹が減ったら、いつでも戻っておいで。クナド神たちも、この子を頼みますぞ』
源じいの温かな声に送り出され、萌黄色の装束をなびかせた幼き帝は、躊躇いなく光の向こう側へと姿を消した。
一行はあわててその後を追う。
「じいさん! 世話んなったな! 言仁預かるぜ!」
みな鏡をくぐり、最後に残った亀吉が人型に戻る。鏡の形に切り取られた『光の跡』に滑り込もうとした刹那、背後から源じいが静かに問いかけた
『それは、……合わせ鏡の術じゃの。本来なら、鏡になった者はそこをくぐれぬはずだが』
不意を突かれた亀吉が足を止め、振り返る。
『はい。ですが今は、弥沙さまの鏡から授かった力がございます。僕らが鏡になっても、こうしてひと時『道』が消えずに残るのです』
源じいは細めた目で、亀吉の背後に浮かぶ光の穴を見つめた。
『ふむ。物部の鏡が目覚めよるか。……面白い。神の御印を宿し、器が真なる力を取り戻し始めたというわけか』
『? ……では、行って参ります!』
源じいの独り言を、亀吉は不思議そうに首を傾けたが、すぐに満面の笑みを向けた。
吸い込まれるように光の隙間へと滑り込み、そして完全に閉じられた。
*
──弥沙!
誰かに呼ばれた気がして、顔を上げる。
暗闇に閉ざされていた海に、眩いほどの光が溢れだした。
その輝きの中から、一人、二人と姿を現す。
真っ先に降りてきたのはクナドだった。
「弥沙!」
クナドはその体を強く抱きしめる。
「良かった。……無事だった。本当に良かった」
顔を埋めたクナドの肩が、微かに震えている。
いつもは傲岸不遜な彼が、今はただの幼い子供のよう。
弥沙は、一瞬、目を見開き、その震える背中を優しく撫でた。
「クナド……泣いてる?」
彼は答えず、さらに深く顔をうずめる。首筋に触れるクナドの熱い吐息から、彼がどれほどの恐怖の中にいたのかが痛いほど伝わってきた。
「来てくれてありがとう」
ふと、クナドが勢いよく顔を上げた。その瞳には、鋭い殺気が戻っていた。
「お前を引きずり込んだ奴はどこだ」
「分からないのよ。気が付いたらここにいて……」
その時、初めて背後に潜む巨大な気配に気づく。大蛇の体躯は見上げるほどに大きく、その存在感だけで海底の圧力が変わるほどだった。
「これは……磯良か? 鹿島神……違うのか。まったく、敵意がなかったから気づかなかったぜ」
『……呆れた。弥沙しか見えてなかったのね』
ツキが呆れたように溜息をつくと、
『くすくす』
亀吉は袖で口元を覆って笑い、亀助もやれやれと肩をすくめる。
「ぷふぁあ。もう、いい? 苦しいんだけど」
スリングの中のハルがたまらず声を上げた。ハルの小さな不満げな声が、凍りついた海底の空気を少しだけ和らげる。
「あ、ごめん。ごめん」
「悪りぃ」
二人はバツが悪そうに少しだけ距離を置いたが、クナドの手は離れない。しっかりと弥沙を抱きしめたまま、その視線は大蛇を油断なく睨み据えていた。
海底に淡く輝く帝がいた。その前には、暗闇の深淵を埋め尽くす巨大な大蛇。
安徳帝は、その恐ろしげな異形を怖れることなく、大蛇と視線を合わせた。
『……そなたが、余に代わりてその苦しみを受け止めておいでであったか。人目に触れぬ深淵の底にて、ただ独り、こうして余の帰りを待ちわびてくれたこと……。誠に、大儀であった』
萌黄色の装束から滲む霊気が、大蛇を包んでいく。どす黒く変色していた大蛇の鱗が、帝の慈しみに触れ、鈍く光った。
帝は満足げに頷くと、瀬戸内の海の底、あるいは時空の裂け目から響いてくる波の音に耳を澄ませる。
『弥沙。この海の向こう、深淵の底には、まだ多くの魂が波に揺られております。……亀吉、亀助よ、語りたまえ。この物語の始まりを』
促された二人は、弥沙の隣で姿勢を正し、息を合わせて朗々と語り始めた。
『……祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』
その澄んだ唱和は、いつの間にか壇ノ浦の激しい潮騒へと重なっていく。
深い闇の中から、琵琶の音色が一つ、また一つと零れ始めた。
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*参考・引用資料
・永井一孝 校『平家物語』,有朋堂書店,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/964450 (参照 2026-05-05)




