52話 大蛇の静謐、あるいは龍の鼓動
「ハル!」
叫んだが、声は形にならない。
逃げ場のない墨色の闇が、じっとりと肌を包む。
(浦島が見たという龍宮を、追っていたはずなのに)
弥沙はその圧迫感に抗うように、胸元のハルの重みを強く抱きしめた。
(良かった。ハルは無事……)
ふと触れた足元には、リュックの感触があった。無意識に手放さなかったのか。ハルと、鏡を抱えたその重みだけが、今の弥沙を現世に繋ぎ止める唯一の錨だった。
混沌とした空間で、心臓の音だけが耳元でうるさく響く。
クナドの熱い手のひらも、ツキの冷ややかな指先も、今はもうどこにもない。
あるのは、足首に絡みついたままの、震えるような冷気だけ。
<< 剣を……龍宮へ…… >>
湿り気を帯びた粘りつく声が、耳元で、あるいは頭の中に直接響く。不意に、闇の向こう側から淡い光が漏れ出してきた。
それは、夜の海が放つ夜光虫のような、どこか物悲しく、禍々しい燐光。
「龍宮? 浦島説話の?」
その光に照らし出されたのは、波間に浮かぶ無数の平家の軍船。
風の音に混じって、「しゃらん」という、どこか聞き覚えのある鈴の音が聞こえてきた……。
弥沙の視界が少しずつ開けていく。
背中に感じる、滑らかでひんやりとした、けれど圧倒的な質量を湛えた感触。
自分が寄りかかっていたのは、幾千年の時を吸い込んだ大樹の幹か、あるいは打ち鍛えられた古剣の輝きを秘めた、巨大な何かだった。
弥沙が身動き一つできずにいると、その巨躯が僅かに脈打ち、衣服越しに鱗が擦れ合う微かな音が伝わってくる。
見上げれば、蛇の顔があった。
その眼は静謐さを湛えていて、紛れもなく古の神が化身した大蛇のものだった。
大蛇の吐息が、すぐそばの空気を震わせた。
弥沙と、その巨大な眼の視線が、至近距離で絡み合う。
漆黒の瞳は、澄んだ、慈しみさえ感じさせる知性を宿している。
(――襲ってくるなら、とっくにしてるはずだわ)
そう確信した瞬間、不思議と震えが止まり、胆が据わった。
この存在は、気高い意志そのものなのだ。
──おそらく、以前に海底でそれに近い存在を目にしていたせいだろうか。
目の前の巨躯から漂う、荒々しくもどこか神聖な気配。かつて出会った安曇の神、磯良の面影が、今の弥沙に冷静さを与えていた。
その時、胸元のスリングの中で、ハルがもぞりと動いた。弥沙はスリングの口を少し広げ、中を覗き込む。
ハルは不安げな様子も見せず、弥沙を見上げる。
「ハル、大丈夫?」
恐る恐る出した声は、思いのほかはっきりと闇の中に響いた。
「うん。弥沙こそ、大丈夫?」
「何ともないよ。海の中みたいだけど、息もできるし話せる……。ここは、異界なのかな?」
「おそらく、そうだと思う。クナドたちは、はぐれてしまったみたいだね……。でも、この巨大な反応……。弥沙、後ろにいるのは――」
言いかけたハルが、スリングの中で息を呑んだ。
圧倒的な神の気配と、背後に横たわる巨大な質量を、ハルの内なる眼が捉えたのだろう。
(大丈夫。大丈夫。ハル、怖くないよ……)
布越しにその小さな体を優しく撫でた。
自分の背中を支えている、冷たく強靭な筋肉の山。
そこから伝わってくるのは、ただの恐怖ではなく、何千年も積み重ねられたような、深い、深い「哀しみ」に似た振動だった。
<< ……お待ちして……おりました……>>
再び、湿り気を帯びた声が響く。大蛇の漆黒の瞳が、至近距離で弥沙を見つめている。
寄りかかっている巨大な胴体から、微かな振動と共に、色のない記憶が弥沙の脳裏へと直接流れ込んできた。
――激しく渦巻く、壇ノ浦の鈍色の波。
燃え盛る船の煙と、血の匂いが混じり合う絶望の中で、幼い安徳天皇を抱きかかえる二位の尼の姿があった。
「波の下にも、都がございます……」
その穏やかな声と共に、幼い帝は微笑み、迷うことなく深い、深い海へと沈んでいく。
「あ……」
弥沙の頬を、一筋の涙が伝った。それが誰の涙なのか、自分でも分からない。
ただ、大蛇の冷たい鱗を通して、一千年以上もこの海に沈み続けてきた底冷えするような孤独が伝わってくる。
宝剣とともに波の下に沈み、永遠の欠落を抱えたまま凍てついた、遠き日の記憶。それが濁流となって弥沙の魂を浸していく。
(これは、平家物語の壇ノ浦のシーン……)
映像はそこでプツリと途切れた。
弥沙の脳裏に、かつて鹿島の海底で対峙した、あの磯良の気配が鮮やかによみがえった。
海よりも深く、誰にも触れさせぬまま澱のように積もった沈黙。目の前の大蛇が湛えるこの底なしの哀しみは、あの時触れた、海の神の孤独と重なるものではないか。
大蛇の瞳は相変わらず静かに弥沙を見つめているが、その奥に潜む「何か」が、まだ自分に伝えたいことがあるのだと、肌に伝わる微かな震えが告げていた。
*
「……いねぇ。弥沙が、いねぇぞ!!」
夏の朝の光が降り注ぐ、日吉神社の境内。筑紫の地に降り立った瞬間、クナドの怒号が蝉時雨を切り裂いた。
繋いでいたはずの手の感触は、鏡を抜ける瞬間に消失していた。
ツキが背後の鏡を凝視する。そこには、本来映るはずのない渦巻く海門の光景が、どす黒い波紋となって広がっていた。
『……瀬戸内、壇ノ浦の呪縛ですね……』
傍らで浮遊する亀助が、苦渋に満ちた声で、鏡へと姿を変えたままの亀吉の甲羅に映る不穏な波紋を見つめる。その鏡の表面に映り込んでいるのは、怨念に狂う平家の赤旗と、底なしの海の深淵だ。
「ふざけんな! 今すぐ引きずり戻してやる!」
クナドが拳を固め、再び鏡の中に飛び込もうとしたその時、ツキが冷静な声を上げた。
『待ってクナド。無闇に行っても駄目でしょう。壇ノ浦……安徳天皇? そう言えばここって安徳台があるでしょう? 何か安徳天皇に関する……』
言い終えない内に、クナドが口を開いた。
「安徳台の源じいだ。あのジジイなら、この土地の『安徳天皇』のことに一番詳しいはずだぜ。手がかりを一つずつつぶす。亀吉、もう一度鏡を開け! 安徳台へ飛ばせ!」
クナドの気迫に押され、亀吉が再びその甲羅を眩く輝かせる。
「弥沙……無事でいろ……」
呟くクナドの顔を、ツキは見逃さなかった。
一行は、夏の光が満ちる日吉神社の社を背に、再び鏡の境界へと飛び込む。
*
鏡を抜けた先には、風の吹き抜ける安徳台の風景が広がっていた。
『騒々しいのう』
「源じい! 弥沙が、鏡の途中で引きずり込まれちまったんだ!」
カケスは静かに、けれどすべてを見透かしたような鋭い目で口を開いた。
『あそこは『時の止まった海』よ。弥沙を助けたければ、この台地の南にある社におられる御方を連れて行くがいい。あの方を連れて行かねば、異界の扉は二度と開かぬぞ』
「南の社……? おい、待てよ!」
クナドが源じいに向って叫ぶ。
源じいは答えを待たず、力強く羽ばたいて南へと飛び始めた。
『ここにはな、土地の者が千年も前から大切に祀り続けてきた、安徳天皇の御魂がいらっしゃるのだ』
木立の合間に小さな社が姿を現した。ひっそりと、けれどそこだけ空気が澄み渡っているような、確かな存在感を放って佇んでいる。
社の屋根に、カケスの源じいがふわりと舞い降りた。
「こんな小さな社に、安徳天皇が……?」
疑わしげなクナドを余所に、源じいは胸を張って続ける。
『四月の神事で土地の者が祈りを捧げる度、その絆は強まっておる。さあ、迷っている暇はないぞ。あの方こそが、異界の扉を開く唯一の鍵だ』
源じいの言葉に導かれるように、社の扉から、細く鋭い光の糸がほどけ出した。
それは夜明けの露を透かしたような淡い輝きとなり、風に舞う花びらを集めるようにして、ひとりの少年の輪郭を編み上げていく。
現れたのは、地上に属さぬ瑞々しさを纏った、あえかなる御姿だった。
「余が行こう」
安徳天皇が、静かに、けれど揺るぎない意志を持って歩み出た。
カクヨムに同じものを投稿してます。
追いつくまで、一日二話目標でアップしていきます!
しかし、何? この那珂川の舞台配置は^^;
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも、面白い、続きが気になる!と思っていただけたら、★★★★★、お気軽にコメントもいただけると、執筆の大きな励みになります!




