51話 『神功皇后』と千年の檻
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*参考・引用文献
・荒木尚ほか編『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社,1972,
※本書における引用の現代語訳および内容解釈は、筆者が原典に鑑み、独自に行ったものである。
丹後の潮風が、静かに凪いでいく。
弥沙は、網野神社の境内をもう一度見渡した。ここもまた、異界なのだろうか。
本来は街のなかにあるはずの社の目の前に、今はただ、茫漠とした海が広がっている。寄せては返す潮騒に混じって、梢が低くざわめきを上げている
男神側の正体は、安曇磯良に結びついた。
クナドが腕を組み、納得したようでありながら、どこか腑に落ちないといった風に鼻先を鳴らす。
「……男神の正体は、あいつ(磯良)で決まりだ。だが、お前たちの追ってる神話にゃ、必ず隣に女がいただろう」
その言葉に、弥沙は弾かれたように顔を上げた。思考の霧が、新たな方向へと晴れていく。
「そうよね……。男神側がみんな高良神の別の姿だったのなら、女神側だって同じことが言えるはず。乙姫も豊玉姫も玉依姫も……本当はたった一柱を指してるんじゃない?」
地名や血脈は、すべて高良神──磯良に繋がっていく。では、女神は?
「その通りだよ、弥沙。安徳台で立てたあの『仮説』が、この地でどう確信に変わるか、もう一度整理してみよう」
ハルが鏡に手を置くと、『神秘書』の一節が浮かび上がる。
《 皇后の妹二人。一人は宝満大神。一人は河上大明神。これが豊姫 》
鏡の上に15センチほどの三柱の女神が浮かび上がる。
「前にこれを見た時は、まだどこか『物語の中の話』だと思ってたよ」
弥沙は、女神の奥に投影された與止日女神社(河上神社)のホログラムを指差した。
「この社の由緒書きには、淀姫(豊姫)は豊玉姫であり、神功皇后の妹だと明記されていた。宝満山の玉依姫もまた、『神秘書』では彼女の姉妹……。三姉妹だから、皇后も綿津見神の娘になるんだ」
「綿津見神が、高良神でしょう。神功皇后はその后。親子という設定が揺らぐのね」
弥沙は、鏡の上に立つ女神たちをしばらく黙って見つめた。
海風が、髪をそっと撫でる。
「女神側もまた、一柱に集約されるのよ」
弥沙の声は、確信に満ちていた。ホログラムの女神が一柱に重なる。
そこにいたのは、甲冑を纏った一柱の女神。
かつて断片的に見えていた知識が、今、丹後の海を背景に、逃げようのない「真実」として血肉を得ていく。
「男神がすべて高良神の別の顔だったように、彼女たちもまた、一柱の女神……神功皇后自身だった。そうでしょ、ハル?」
女神の横に、一柱の男神が現れる。
──そうよ。この二柱には、それぞれ色んな名前があるだけ。
「弥沙……! 仮説が、今、完全に繋がったね!」
ハルの声が弾む。しかし、ツキは冷静に、どこか悲しげな慈しみを湛えて弥沙を見つめていた。
『……ねえ、弥沙』
ツキが、ふいに割り込んだ。
『それって、この二柱が実在した夫婦だったってこと、よね?』
その一言が、空気を変えた。
「……そうよ」
弥沙は、静かな声で答える。
「神話じゃない。歴史から消された、本物の夫婦の話」
言葉にした瞬間、自分でも驚くほど、腑に落ちた。
「……何でこんなことになってるかって言ったら、……彼らが実在した、夫婦の二柱であることを消したかったから。でも、……物語の中に閉じ込めてでも、守らなきゃいけないものがあったから……」
弥沙は、自らの内に芽生えた新たな疑問を解き明かすように、再びホログラムに指先を伸ばした。
「……ハル。山幸彦を龍宮で待っていたのは、豊玉姫だったよね?」
弥沙の問いに、ハルは鏡を操作し、一柱の女神の姿を映し出した。
「綿津見神の娘、豊玉姫。それに、その時姿を見せてない、妹の玉依姫だね」
ハルが鏡面をなぞると、水紋のような光が広がり、現れては消える女神たちの影が、静かな潮騒の音を立てる。
弥沙は、ホログラムの女神に視線を落とす。
「神話では、豊玉姫が海へ帰った後、妹の玉依姫がウガヤフキアエズを育て……後に、二人は結婚するの。叔母と甥の婚姻――。
なぜそんな無理な設定にしてまで、血筋を繋げようとしたのか、ずっと不思議だった」
彼女は、鏡に浮かぶ家系図の「綿津見神」という文字に触れた。
「別の血筋を混ぜたくなかったのよ。父も、母も、その周りも……すべてを『綿津見神』の血で満たしたかった……」
そこまで言いかけて、弥沙は首を振った。
「……いいえ、今はそこまで。まだ、見えてない部分がある」
弥沙は鏡の光の糸を指でなぞった。
「分かってるのは——どこを切り取っても、この二柱に突き当たるということ」
鏡の中の系図が、激しい光を放ちながら一本の太い「血の道」へと収束していく。
「この中で、神功皇后だけが異質でしょう。神ではないから。だけど、「神話」の彼女もそうであることを残したかった。だから、残した。これが『神秘書』なんじゃないの? まるで……」
弥沙は、宙に浮かぶ文字を掴み取るように、白く細い指先をゆっくりと握りしめた。その瞳は、暗号の裏に隠された編纂者たちの切実な息遣いを見つめている。
ハルが静かに言った。
「そう。指南書みたいだね。……神話の攻略本」
クナドが、ふん、と鼻を鳴らす。
「……随分と手の込んだことをしやがる」
弥沙はゆっくりと頷き、視線を再び鏡の奥へと沈めた。
「そこにあるのは、この国の根源にある二人の夫婦の姿だったのよ」
弥沙が告げた瞬間、丹後の海が凪ぎ、鏡面には寄り添う二柱の神々しい姿が、鮮やかに写し出されている。
丹後の潮風が、ふいに止んだ。
「ええ。千年の嘘を重ねてまで、彼らが守りたかったのは——この国の根源にいた、たった一組の夫婦の姿だったのよ」
弥沙は、光の中に浮かぶ二柱のシルエットを見つめた。
「高良神と、神功皇后。……名を変え、社を変え、時代を変えても——行き着く先は、いつもこの二柱だった」
「……なるほどな」
クナドが短く言った。その口角が、わずかに吊り上がる。
「名を変え、姿を変えて、系図のあちこちに網を張ったってわけか。……とんでもねェ執念を、千年以上も繋ぎやがって」
『……そうするしかなかったのよ』
ツキが悲しげに瞳を細めた。
『あの独裁的な大和の神話の中に、自分の居場所を……愛する人との証を残すには』
「こうしたのは、後の世の者たち。二柱を守るために、そうするしかなかったのよ」
弥沙は光の中に浮かぶ二柱にそっと目を向ける。
それは、千年の孤独の果てにようやく見出されたばかりの、細く、けれど力強い光だった。
すると。鏡の上に照らし出されていた二柱が、ぽんと地面に降りたかと思うと、すたすたと歩き出した。社の方へ。
弥沙がクナドを振り向くと、「この社の神が宿ったのかもな」と呟いた。
二柱を見守りながら思う。
住吉神、高良神、綿津見神、安曇磯良、浦島太郎。
神功皇后、玉依姫、豊玉姫、乙姫。
結局、すべて、後の世に彼らにつけられたラベルに過ぎなかったのだ。
二柱はそのまま、社の奥へと消えていった。
「何か、凄いもの見ちゃった」
弥沙が胸を押さえて呟く。
「はあ? お前、俺様たちが神であること、忘れてるだろう」
二人の視線が絡む。
「ははは。そうでした。あまりにも一緒にいるから」
クナドは一瞬、憮然とした顔をしたが、「しゃあねぇな」と呟いた。
「帰るぞ。亀吉たち、頼むわ」
『おまかせあれ~』
二人は、扇を持ってその場でくるりと舞う。
亀吉が大きな亀の姿となり、その甲羅がまばゆい光を放つ鏡へと変わっていく。
弥沙はハルをスリングに納めると、隣に立つ二人の手を求める。
左手には、岩のように逞しく、熱を帯びたクナドの手。
右手には、白く冷ややかに透き通る、ツキの指先。
弥沙は、その二つの確かな感触を、祈るように強く握りしめた。
『それでは、筑紫に参りましょう』
亀助の先導で、一行は鏡の中へと踏み出した。
光の膜が全身を包み込み、境界を越える微かな振動が伝わる。
(――でも、何かが足りない)
鏡の向こう側へ吸い込まれる一瞬、弥沙の胸を説明のつかない欠落感が突き抜けた。
饒速日命の、名前がまだ、闇の中に沈んでいる。
<< ……さま。お待ち申しておりました……>>
どこからか、湿り気を帯びた粘りつくような声が響く。
不意に、足首に冷たい何かが絡みついた。
「あ……っ!」
繋いでいたはずの二人の手の感触が、一瞬にして遠のく。
弥沙は悲鳴を上げる間もなく、底知れぬ闇の淵へと引きずり込まれていった。




