50話 五色の亀と神話の裏側
網野神社の境内は、ひっそりと静まり返っていた。潮騒の音が遠く、けれど確かにはっきりと耳に届く。
弥沙がふと隣を見ると、ハルの瑠璃色の瞳に金の光が幾度も走っている。古の地層を穿つように、見えない情報の海へと深く潜っているのだ。
「何やってんだ、ありゃ」
「クナドは見るの初めてなんだね。ああやって、ネットにアクセスしてるんだって」
クナドは腕を組み、あごに手を乗せた。
「ハルは……どこぞの神使かと思っていたんだが。白ピカ(饒速日命)が知ってたことといい……。何もんなんだ、こいつは」
「ハルはハルだよ。クナドが神であることと、私にとっては変わらないことよ」
弥沙に曇りのない、真っ直ぐな瞳で見つめられ、クナドは一瞬、言葉を詰まらせた。彼は彼女をしばし見つめ、やがて居心地が悪そうに視線を泳がせる。
「ま、お前がそう言うならな」
ふい、と横を向いて、鼻先を仄かに赤くしながらも、その口角は隠しきれずに緩んでいた。
かつて孤独に沈んでいた神が、今、確かな居場所を得て、その心を微かに綻ばせている。その様子を見てると、たまらなく愛おしくなった。
やがて、ふわふわと浮いている双子に、ハルが問う。
「これは……丹後史料叢書の巻の八、神祇の部、網野神社の伝承なんだね」
『さようでございまする』
二人は満面の笑みを向ける。
ハルは弥沙から鏡を渡されると、そこにそっと手を置いた。
すると、昏い鏡面に曼陀羅のような図が描き出され、やがてそれは、古の文字となって浮かび上がる。
「網野神社では、浦嶼子は日下部首の祖として祀られているんだ。祭神は水江浦嶋子、それに住吉神」
「日下部?」
弥沙が、鏡に浮かんだ『日下部』との文字を指さした。奇妙な既視感が、胸をかすめる。ツキは、反対側からホログラムを触ろうとしていた。
「うん」
ハルは神妙な顔をする。
「一説では、浦島太郎は月読尊の末裔ともあるよ。社家は日下部系の森氏が、代々継いでいる」
「日下部って……『神部物部』の五姓、草部氏と草賀部氏じゃないの?」
弥沙は、ハルを見つめた。鼓動が、微かに速くなる。
ハルは、その言葉を噛みしめるように、一呼吸置いた。
「そうだよ。日下部氏は同族。『神部物部の五姓』だ」
弥沙は、背筋に冷っとするものを感じた。あのおとぎ話の仮面の奥から、巨大な神の影が、鎌首をもたげてこちらを見つめているような──。
「高良大社の『神部物部』……。高良神は月神……そして、住吉神……よね」
「京丹後市の網野神社は、古くから日下部氏が根を張った拠点なんだ。
彼を『|水江能長者日下部浦島太郎《みずのえのちょうじゃくさかべうらしまたろう》』、──日下部首の祖として祀ったのは、日下部氏自身。高良大社の一族、神部物部とみて間違いないよ」
「日下部氏が祀るのが住吉神なら——」
弥沙は、目の前の社を見つめたまま考え込んだ。思考の糸が、絡まり合いながらも一つの方向を指し示そうとしている。
「また、高良神か」
『あ、安曇磯良ね? 隠されてるからわざわざそんなことするんじゃないの?』
クナドとツキが同時に声を上げた。クナドは苦々しく、ツキは退屈しのぎの謎解きでも楽しむような軽やかさで。それは問いではなく、抗いようのない必然に対する吐息のような、確信だった。
「住吉神と月神は、すべて高良神の別の顔……。おとぎ話の浦島太郎でさえ、その網の目に繋がっているのね。関わりのある者はみんな、いつの間にか彼の中に吸い込まれてしまう」
『さようでございます』
亀助が、深く静かに首を垂れた。
「つまり、浦島説話っていうのは……日下部氏が自分たちの祖神である高良神や住吉神、月読尊の物語を、誰にも悟られないよう『龍宮の物語』という衣を着せて、未来へ遺した暗号だったのね?」
弥沙は背後の社を振り返る。神は静まり返った社の奥に坐しているようで、決してその姿は現さない。
「登場する者はみな、姿を変えられた祖神だったんだわ……」
「うん。物部氏の五姓が各地で祖神を祀った。その神の正体を、共通の物語という揺り籠に託した。そうすることで、物語は時を越え、誰にも悟られずに継承されてきたんだ」
「神部物部の五姓……。五色の亀……。浦島を導く……」
弥沙は、ハッとして顔を上げる。そこには、不思議な光を湛えて宙を舞う、亀助と亀吉がいた。
「もしかして、五色の亀って、神部物部の五姓、そのものを意味してるの……?」
『ご明察~!』
二人は、歓喜に震えるようにその場でひらひらと舞った。
「じゃあ、君たちも?」
問いかけると、二人は満面の笑みを向け、鏡に映したように同時にこくっと頷いた。
亀助が首にかかった青い珠をそっと握ると、凪いでいた風が吹き抜け、丹後の海が、さらに静かに透き通っていく。
『この地を古くから治めてきたのは、日下部氏。『神秘書』にある五姓——草部氏、草賀部氏の血脈にございますれば』
『五色。すなわち、五姓にございます』
亀吉の白い珠が、清涼な鈴の音のようにちりんと鳴った。
では、と。弥沙の胸の内で、さらに鋭い閃きが走った。
「亀が導き、亀吉ちゃんや、亀助くんが私たちの前に現れる。それ自体が、その血脈の意志だってこと……?」
『私たちは『五姓の化身』。導くのは、私たちの役目にございますれば』
ふ、と風が凪いだ。
その静寂の中で、弥沙の脳裏に、別の古い物語の情景が鮮やかに浮かび上がる。
「……ねえ、ハル。山幸彦の話って、前に話してたよね?」
「うん。兄の海幸彦と持ち物を交換して、釣り針を海で失った話だよね。海辺で憂いていると、塩土老翁に出会って——」
「そこよ」
弥沙は思わず声を上げた。喉の奥が、真実に触れた時の熱を帯びてくる。
「塩土老翁が山幸彦を乗せたのって、竹で編んだ『間无し勝間』の小舟でしょう」
「……『勝間』?」
クナドが、何かに弾かれたように眉を跳ね上げた。
「勝馬よ。私たちが先日行ったあの浜——志賀海神社の奥宮がある、あの場所のことじゃないの?」
沈黙が、重く境内に落ちた。
丹後の潮風が、驚愕に凍りついた一行の間を静かに吹き抜けていく。
「……あそこか」
クナドが、絞り出すように呟いた。
「『古事記』では『間无し勝間』と書いて、まなしかつまと読むのよ。志賀海神社の旧地はまさに『勝馬』。今も仲津宮と沖津宮が鎮座してる、あの神域。神話の『勝間』は、あの場所に坐す神を示すための暗号だったんだわ」
「……俺様たちが、大潮の日にわざわざ渡った島か」
クナドが腕を組んだまま、遥か西の空を見つめた。その瞳には、あの日の眩しい陽光が宿っているようだった。
「主の趣向、だったのかもしれない」
ハルが、静かに、けれどどこか畏敬の念を込めて言った。
弥沙の胸の奥で、カチリと音を立てて、すべての歯車が噛み合う。
「つまり、浦島説話や、山幸彦伝説として語られてきたのは——志賀の神の物語だったということね」
「この地名の一致は偶然じゃないよ」
ハルが静かに頷く。その瑠璃色の瞳が鏡を捉えると、昏い鏡面に再び、光の糸で紡がれた図が浮かび上がった。
「浦島説話も、山幸彦も、志賀の神の物語だったんだ。安曇氏の始祖として海神『豊玉彦』の名が刻まれているのも、すべては必然……。おとぎ話の皮を剥げば、そこには一族の生きた歴史が隠されている」
「龍宮の龍神、綿津見神が豊玉彦。その娘が豊玉姫で、その夫が山幸彦……」
弥沙は鏡に浮かぶ光の線を指でなぞりながら、脳裏に系譜を描き出した。
「ってことは、安曇氏にとって山幸彦伝説は……自分たちの始祖の物語を、神話という衣に包んで遺したもの、ということになるの?」
「そういうことだよ」
ハルは静かに、しかし確信を持って答えた。その声は、長い年月をかけて守られてきた真実に触れるような、敬虔な響きを帯びている。
「それとね、弥沙。もう一つ面白いことがあるんだ」
ハルが鏡の表面をそっとなでると、新しい文字が水面に広がる波紋のように浮かび上がった。
「塩土老翁——山幸彦を勝馬の海へ導いた、あの導きの神。彼は、住吉大社の奥の院とされる開口神社の神なんだ」
「住吉神社の……奥の院?」
「そう。住吉神の『開口』……つまり、その神の真意を語る口。塩土老翁の正体は住吉神に通じ、ひいては——」
「高良神」
弥沙が、その先を射抜くように言い切った。
「山幸彦を龍宮へ導いたのも、高良神だったということなのね」
クナドが、ふっと鼻を鳴らした。
「……あいつ、どこにでも出てくるな。物語の裏側に、必ずあの男の指跡が残ってやがる」
クナドの視線が、宙を舞う「五色の亀」たちを鋭く射抜いた。
『まこと、お働き者にございますれば。……私たちは、ただ主の御心を形にするまでのこと』
亀助が、扇子で口元を隠しながら、いたずらっぽく微笑んだ。
弥沙は、目の前に広がる丹後の海を見渡した。
網野神社の浦島説話、山幸彦の勝間、そして老いた導き神。一見、別の海に流れていたはずの糸が、今、言いようのない必然を伴って、一本の見えない軸へと収束していく。
「浦島説話も、山幸彦伝説も——核心にあるのは、いつも同じ高良神──安曇磯良なのね」
その言葉は、潮風に乗って静かに海へと溶けていった。
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*参考資料
・永浜宇平ほか『丹後史料叢書』第1輯,丹後史料叢書刊行会,昭和2, 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1175321 ,




