49話 おとぎ話の仮面*浦島太郎
夏の朝の光は、どこか現実味を欠くほどに透き通っていた。
弥沙たちは久しぶりに、クナド神の社──日吉の境内へと足を運ぶ。
「子猿の様子も気になるからな」
クナドは道中のスーパーで買い込んだ、素焼きのナッツや果物の袋を揺らした。
「一応は神使だろ? 想念なんだから、食わなくたって死にゃしねぇんだけどよ……。けど、美味いと嬉しいんだよ、あいつも」
弥沙の隣を歩くクナドの横顔には、かつての刺々しさはなかった。この場所で「名も無き神」として、神使にすら存在を忘れられていた、あの絶望的な『断絶』。背中を丸めて闇に沈んでいた姿は、もうどこにもない。
「あ、いた!」
拝殿の石段に、白い羽を休めた子猿がちょこんと座っている。弥沙たちが近づくと、子猿は黒い瞳を瞬かせ、クナドの掌から迷わずナッツを頬張った。
『美味い! あんた、いい奴じゃな!』
「……フン、当たり前だ」
無造作に顔を背けるクナド。そのぶっきらぼうな優しさを見守りながら、弥沙は彼とこの場所との絆が、いつか、確かな形となって結ばれますようにと願わずにはおられなかった。
ハルが静かに語り出す。
「昨日も言ったけど、『浦島太郎』の話は、単なるおとぎ話じゃないよ」
木漏れ日の中、すぐ側を流れる那珂川が、清涼な風を運んでくる。
「浦島太郎は亀を助けたお礼に龍宮城へ招かれ、乙姫と楽しい時を過ごす。
けれど、地上に帰ってきて『決して開けるな』と言われた玉手箱を開けると、三百年の歳月が一気に彼を老人に変えてしまう……。誰もが知る、悲劇の物語だね」
ハルは優雅に座り直し、瑠璃色の瞳を細めた。
『なにそれ。開けるなと言われた箱を渡されるの? 絶対に見たくなるじゃない』
ツキが呆れるように鼻をならす。
「開けてはいけない箱を開ける。これって、何か意味がありそうに思わない?」
ハルは、ついでに買っていたリンゴを瑞々しい音を立てて齧った。
「そう言えば……」
弥沙が、ふと思いついたように口を開く。
「志賀海神社の伝承の亀、鹿島神が乗って来た亀、浦島太郎の亀。全部、共通してるよね」
弥沙の脳裏に「亀」の姿が浮かんだ瞬間、リュックの中から眩い光が溢れ出した。
次の刹那、白橡色の狩衣を纏った双子の童子が現れる。
「亀吉と亀助じゃないか」
クナドが顔を上げた。
『舞台は整いました。丹後の海へ参りましょう。弥沙さま、鏡を』
亀助が、鈴を転がすような声で誘う。
弥沙は亀助に鏡を預けた。亀吉は亀に変化して、再び大きな鏡となる。
『今から?』とツキが亀助に問う。
『さようでございます』
『あんたたちの主って誰? ──って聞いても、うちと同じく言えないわよね』
問いかけに、亀助はただ、静かに微笑みを返した。
弥沙は二人の会話を耳にしながら、ハルをスリングに入れ、クナドとツキの手をしっかり握った。鏡の向こう側へと踏み出す直前、クナドがふと振り返る。
「また、来るからな!」
「お待ちしています」
子猿はふわふわと浮き上がり、にこっと微笑んだ。少しだけ、距離が縮まったんだろうか。見上げる彼女の視線を受け、クナドはその意味を推し量るように口を開く。
「ああ。何か、拒絶されることはなくなったみたいだぜ」
その一言に、弥沙の脳裏にはいつか見た光景が鮮やかに蘇った。かつて、凍てつくような孤独の中で背を丸めていた、あの日の彼の姿が。
「神にはテリトリーがあるからな。招かれざる客神には、本来は厳しいものなのさ」
クナドは猿田彦。けれど、この社にはその名はない。ゆえに彼は、ここでは「招かれざる客」でしかなかったのだ。
弥沙は繋いだ手に、自然と力を込めた。この孤独な神を、もう二度と独りにはさせない。そんな思いが指先から伝わっただろうか。
鏡を越えた瞬間、足元から大地の感触が消えた。
弥沙たちは、空にいた。
眼下に広がるのは、青く輝く日本海。白い波頭が、岩礁に砕けては消える。その奥には緑濃い丹後の山並みが連なっていた。
「……綺麗」
志賀島とも、鹿島とも違う、どこまでも深く、吸い込まれそうな蒼。
『浦島説話の発祥地の一つ、網野神社の伝承でございます』
亀助の声が、風に乗って届いた。
彼は弥沙たちの傍らで、羽のようにふわふわと浮いている。
眼下の海岸沿いに社の屋根が見えたとき、弥沙は直感した。
「これって、社の記憶なのね」
『さようでございます。受け継がれてきた伝承。すべて社を想う者の『祈り』が形を成したものにございます』
その時、海面がゆっくりと揺らぎ始めた。
まるで誰かが絵巻物を広げるように、海の上に光景が浮かび上がってくる。想念の記憶が、かたちを成していく。
一人の若者が、小舟の上にいた。亀吉が告げる。
『筒川嶼子、またの名を、浦島児——後に、浦島太郎と呼ばれる者でございます』
彼の網に、光り輝く亀が絡まっていた。五つの色が、甲羅の上で交互に煌めいている。
「……五色の亀」
ハルが静かに呟いた。
次の瞬間、亀は姿を変えた。絶世の美しさを湛えた夫人が、波の上に凛として立っている。
『天上界より参りました』
夫人はそう告げ、浦島を海の彼方へと誘う。遥か水平線の向こうに、未知の島が見えてきた。
『やがて蓬莱山に至ります』
亀吉が朗々と告げる。
弥沙は、その光景を空から見下ろしながら、胸の奥に、説明のつかない懐かしいような痛みを感じていた。
『常世の国へ行き、海神の都で時を過ごしました。思うに、それこそが龍宮城であったのでございます』
3年の月日が流れ、浦島が「帰りたい」と嘆くと、神女は玉匣を渡し、静かに告げた。
「再びここへ戻りたくば、決してこの箱を開けてはなりませぬ」
そうして、浦島は浜に戻る。だが、そこに知った顔は一人もいなかった。
『彼を怪しんだ村人に問うと、『昔、浦島児という者が海へ遊びに出たきり帰らなかったと伝わっている』と申します』
『龍宮で、3年の月日が経つうちに……人の世では、347年の歳月が流れておりました』
浦島は茫然とし、神女の禁忌を忘れて玉匣を開いた。
紫の雲が立ち昇り、浦島は瞬く間に老いていく。
クナドが、低く息を吐いた。
「……なんで開けるんだよ。開けなきゃ、またあそこに戻れたかもしれねぇのに」
「開けてしまうから、物語なのよ」
弥沙は静かに、けれど確信を持って答えた。
──禁忌を破り箱を開ける。
それこそが、伝承が語り継がれる理由なのだ。
一行は、導かれるように網野神社の静かな境内に降り立っていく。
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*参考資料
・永浜宇平ほか『丹後史料叢書』第1輯,丹後史料叢書刊行会,昭和2, 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1175321 ,




