48話 覚悟の夜、星の道標
境内の提灯が、一つ、また一つと闇に呑まれて消えていく。
潮が引くように神楽の熱狂が遠ざかると、あとには耳の奥に響くほどの、重たい沈黙だけが残された。
弥沙のまぶたの裏には、いまだあの『磯羅の舞』の燐光が、熱を帯びて焼き付いたままだ。
自転車のタイヤが、夜の砂利を噛んで乾いた音を立てた。
弥沙はハンドルを握りながら、先ほどまで見ていた神楽の光景を反芻する。
海神から授けられた、二つの眩い珠。
「ねえ、ハル。あの『磯羅』を見ていて思ったの。綿津見の社は龍宮。そこから豊姫が玉を授かる物語……。これって、誰もが知る『浦島太郎』と重ならない?」
自転車の前かごで、ハルが瑠璃色の瞳を瞬かせた。その瞳は、夜の闇を映してどこまでも深い。
「気づいたね、弥沙。そう、亀に導かれ、宝を授かる物語。……けれど、今夜はもう遅い。明日、その『おとぎ話の仮面』を、僕たちで剥ぎ取っていこうよ」
「仮面、か……」
弥沙が呟くと、肩の上で羽を休めていた源じいが、くぐもった声で笑った。
『ほぉほぉ。それもまた尊き『祈り』の一環。わしはここで辞すとしよう。また面白い風が吹いたら、寄って行きなせ』
源じいはそう言い残すと、大きな翼を広げて安徳台の方へと消えていった。
「……鳥なのに、夜も平気なのね」
「ま、あれでも一応は神の端くれだからな」
隣を歩くクナドが、事も無げに吐き捨てる。弥沙はその横顔を盗み見た。月光を浴びる彼は、どこか人の理から外れた不敵な美しさを纏っている。
「クナド、今日も私ん家来るの? 毎日毎日、雑魚寝なんだから。……そもそも、あんたたちは今までどこで夜を明かしてたわけ?」
「日吉の社とか、木の上とか。俺様たち、もとは漂う『想念』だからな。どこに身を置こうが、大した差はねェんだよ」
『ツキが弥沙の家にいるのは、楽しいからだよぉ。うちらがいると、不思議と困ることはないでしょう?』
ツキが夜風に溶けるような足取りで笑う。
その言葉に、弥沙は「思い当たること」の重みに、背筋を走る冷たい震えを感じた。
数週間前、クナドにバイトを辞めろと詰め寄られた時のことだ。
「神事に関わるということは、己の全てを捧げることだ。片手間で触れていい領域じゃねェんだよ」
そんな尊大な命令に、弥沙は「生活はどうするのよ!」と食ってかかった。だがその日、気まぐれに買ったロトが、目も眩むような幸運を運んできたのだ。
「ロトが当たったからって、そんなのいつまで続くかわからないじゃない! 私、親とも絶縁状態で出てきたんだから……」
言い終える頃には、自分の声が心細く夜気に震えるのが分かった。
「俺様たちがついているんだ。食いっぱぐれるような無様は見せねェよ」
クナドは不敵な笑みを浮かべ、淡々と告げる。
「今はただ、神事に集中しろ。それは上からの『合図』だ。お前は余計な恐れを捨てて、目の前の道だけを見据えてりゃいいんだよ」
それは、目に見えない巨大な手に、無理やり運命のレールを敷き直されたような感覚だった。現に、規定では1か月前に届けを出さなければならないのに、その日にすぐ辞められた。
理不尽だ。このままでは、夏休みが終わった後、専門学校まで辞めさせられるかもしれないと戦々恐々としている。けれど、もしバイトを続けていたら、この古の謎に迫るための時間も、体力の余裕も、とうに枯れ果てていただろう。
──それに。
けれど、あの御炊屋姫の、縋るような瞳を思い出せば、もう後戻りなどできないと分かっていた。
これは、世界中で私にしか果たせない役目。
たとえ薄氷を踏むような幸運に支えられた日々だとしても。
人の生は瞬きのように短い。ならば、この壮大な神話の裏側へ、自らどっぷりとはまるような生き方があってもいいのではないか。
たどり着けるのが自分だけだと言うのなら、その孤独な特権を謳歌してやろうではないか。
世界に私しかいない。彼らの真実を解き明かせるのは。
何よりも今、自分の胸の奥が、これまでにないほど熱く沸き立っている。
弥沙は、自分を取り囲む異形の同居人たちを見渡し、ふっと唇を綻ばせた。
「まあ、いいわ。もし路頭に迷ったら、クナドに全責任を取ってもらうから」
「……あ? 今、何か言ったか?」
「ううん。なーんにも!」
満天の星空の下、四人の足音は夜の底に溶け合い、確かな家路へと続いていく。
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