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47話 岩戸神楽と磯羅の舞

 午後7時。那珂川、伏見神社の「祇園祭」。

 夜の帳が下りた境内に、お囃子の調べが朗々と響き渡る。

 

 並べられた提灯の明かりが、古き杜を柔らかな橙色に染め上げていた。人々は思い思いの場所に立ち、静かに舞台を見守っている。夏の夜特有の、湿り気を帯びた熱気が肌を撫でた。


 神職の清らかな声が、境内の空気に溶け込んでいく。


「この岩戸神楽は、福岡県無形文化財の第一号。かつては農閑期の民たちが奉納してきた神事(しんじ)であり、今は有志の手で、大切に受け継がれております。用いられるのは能面。神楽としては極めて稀な姿でございます」


 弥沙は、その言葉をそっと胸の奥に収めた。

 名もなき人々が、幾百年もの間、絶やすことなく守り続けてきた祈りの形。


「本日の演目の中に——『磯羅(いそら)』がございます」


 その一言に、弥沙はハルと顔を見合わせた。


「……磯良の舞が、ここで。……志式神社でも、舞われていたわ。あの社は、磯良に縁がある場所だった」


 弥沙は、かつて訪れた奈多の風景を思い出した。福岡のごく限られた、数えるほどしかない社で今も守り続けられている、海神の記憶。


「点と点が、また一つになったね。限られた場所でしか舞われないからこそ、その『意味』は重いんだ」


 スリングの中のハルが半身を乗り出し、静かに応えた。その瞳には、舞台の灯火が星のように映っている。


 弥沙の肩の上で、源じいがもぞりと羽を揺らした。


 子供神楽から始まり、やがて大人の神楽へと移ろう。刀を振るい舞台を祓い清める剣舞、四季の神を称える四神の舞。二人の演者が息を合わせ、米の入った薄い箱を遠心力で操る『敷米(しきまい)』。


 舞台の上で繰り広げられるのは、観客に媚びぬ、土地の神へと捧げられる純粋な祈りそのものだった。


 漆黒の闇の中、焚火の炎が爆ぜる。ふと、弥沙はいつもの違和感を覚えた。誰か、とてつもなく大きな存在が、この場所を見守っているような気配。それに加えて、今日は殊更(ことさら)に大きく重い。


 ああ、そうだった……。今、自分の隣にいるのは皆、人ならぬ者たちだ。

 弥沙は隣のクナドを仰ぎ見る。彼は腕を組み、銅像のように微動だにせず舞台を凝視していた。その体躯を、揺らめく神気が淡く包み込んでいる。


 源じいが、耳元で掠れた声を響かせた。


『この地の神楽は、特殊での。神々に力を与えるのじゃ。真摯な祈りは神を『神たるもの』へと成し遂げる。神はこれが好物での。この地から他所へは行こうとせんのじゃな』


 カケスは満足そうに小さくぴぃと鳴いた。


『何故だか、分かるか?』


 源じいは続ける。その姿は、周囲の人々には見えていないのだろう。

 弥沙の脳裏に、一つの閃光が走った。この土地に刻まれた、消えない記憶。


「神功皇后と、武内宿禰……。裂田溝(さくたのうなで)を拓いた彼らへの、千年以上続く途切れない祈りがあるのね……」


『そうじゃ。この地こそ、神の聖なるゆりかご。忘れ得ぬ、故郷なのよ』


 カケスは、小さな頭を一度、弥沙の頬にそっと摺り寄せた。


──この神は、この土地が心から愛おしんでいる。

 そう悟った瞬間、この場所に導かれた自分を、弥沙は誇らしく思った。自分はこの地の米を食べ、この地の水で生きている。その事実が、今、深い確信となって胸に満ちた。


 宴もたけなわとなり、舞台の縁には子供たちが鈴なりになる。やがて、その(とき)がきた。


──磯羅。


『……この舞は、久しぶりに見るのう』


 源じいの声は、ひどく遠い場所から届くような響きを帯びていた。

 お囃子が厳かに改まり、舞台の空気が張り詰める。


「神功皇后は武内宿禰らと共に、三韓へと向かいます。宿禰は、勝馬の海神より干珠満珠を授からんと願う。……そこからの場面です。なお、勝馬とは玄界灘のこと。登場するのは、武内宿禰と磯羅、神功皇后の妹の豊姫(とよひめ)、そして海神」


 最初に現れたのは、長い顎髭(あごひげ)を蓄えた翁の姿――武内宿禰。


 勝馬の海で、磯羅は海神から珠を受け取ることができない。そこで宿禰と磯羅が相談している。

 豊姫を行かせることになった。


──『八幡愚童訓』と違う。


 弥沙は幻視の記憶を手繰り寄せる。磯羅こそが龍宮から珠を授かる唯一の者であったはず。この神楽では、豊姫がその役割を担うのだ。


 豊姫が纏うのは、鮮やかな赤い衣。その面と衣装は、別の演目では天岩戸の前で舞ったアメノウズメのものであった。


 舞台の奥に衝立(ついたて)が立てられ、そこが海神の宮の見立てとなった。

 衝立の上から顔を出したのは、海神。その面は、他では『黒鬼』として知られるもの。


『珠が欲しければ、舞を舞え』

 海神が朗々と告げると、豊姫はゆったりと袖を(ひるがえ)した。


 弥沙は海底で磯羅を呼び出した、あの賑やかな光景を思い出す。

「……同じだわ。神楽で、神を動かす」


 舞台上の豊姫は、右に左に、たおやかに身体を傾け、くるりと回る。

 広げた扇が、波間に揺らめく光のように。


 弥沙は、演者の衣装と面から、奇妙な錯覚に陥った。


 ――まるで、天岩戸の前で舞う、アメノウズメではないか。


天晴(あっぱれ)じゃ』

 

 豊姫の舞が終わる。海神の手から、二つの珠が授けられた。

 干珠と満珠。

 豊姫は、静かにその珠を武内宿禰へと託した。


 二人の手によって、二つの珠が高く、天へと掲げられる。


 弥沙はその瞬間、胸の奥が静かに、けれど激しく熱くなるのを感じた。

 千数百年前の神話が、今この夜、那珂川の小さな社の舞台の上で、確かに『真実』として息づいている。


 勝馬にいる龍神。──綿津見神であり、高良神。


 お囃子が、夜空に溶けていく。

『……ようやく、目覚めるかもしれんのう』


 源じいが、ぽつりと呟いた。

 弥沙が隣を見ると、舞台の明かりに縁取られたクナドの横顔が、金色に輝いている。


「……岩戸が、開く」


 弥沙は、無意識にその言葉を(こぼ)していた。


 この地は、祓いの神・住吉神が宿る岩戸の里。

 筑紫の日向の小戸の檍原(あはきはら)。神話が産声を上げた、故郷の地。


 土地の神へと捧げられるひたむきな舞は、今もなお、彼らの由緒を静かに、だが力強く語り継いでいる。


──そうだ。『違い』とは、合わせ鏡であり、見立てなのだ。

 たとえ形が異なろうとも、そこに宿る『核』が同じならば、それは唯一つの真実になる。 







お読みいただき、ありがとうございます。

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