46話 住吉大社の、満珠
翌朝、7月14日、午後5時。
弥沙が玄関の扉を押し開けると、まだ衰えを知らぬ盛夏の陽光が、アスファルトの熱気とともに足元から這い上がってきた。
けれど、その熱を切り裂くように、夕刻の風が涼やかに吹き抜ける。
『暑いーっ』
「ツキ、文句を言うな。歩くぞ」
先を行くクナドの背中を見つめながら、弥沙はふと不思議な感慨に打たれた。こうして「人ならぬ者」たちと連れ立って歩くことが、呼吸をするのと同じくらい当たり前になっている。クナドもツキも、弥沙のアパートをすっかり自分たちの領分にしてしまっていた。
ツキの背後で、白い尻尾が風に遊んでいる。はじめこそ人の目を憚って隠していたが、最近では幻のように存在を消し、自在に振る舞えるようになったらしい。
クナドの背も、この数週間で一段と逞しさを増している。弥沙の傍に在ることで、彼らの『想念』が確かな形を結び始めているのだという。
自転車の前かごに収まったハルが、満足げに目を細めた。
「ここは風が気持ちいいよ」
弥沙は、小さく喉を鳴らして笑った。社の影に溶けるように姿を消したかと思えば、涼しい顔で「ネットにアクセスした」など嘯く白い影。この小さき猫が何者なのか、その謎は深まるばかりだ。
住宅街の向こう、巨大な神木の梢が天を指していた。現人神社の森がそこにある。
「現人神社でね……たぶん、住吉の神の幻視を見たの」
弥沙の呟きに、クナドが鋭く眉を跳ね上げた。
「住吉って、あいつか」
「ええ。『神秘書』では、高良神と同じ神よね」
「……へっ」
クナドは鼻を鳴らしたが、紺の瞳がわずかに細まった。
那珂川の風が、汗ばんだ頬を撫でていく。
現人神社の鳥居が見えてきた頃、西日が少し傾いて、木々の影が長く伸び始めていた。セミの声が、頭上から降り注ぐように鳴き響く。
弥沙は足を止め、石造りの鳥居を仰ぎ見た。
「大阪の住吉大社を古くから守ってきた津守氏は、天火明命を始祖と仰いでいるわ。それが饒速日命を指すのだとすれば……」
「……物部か」
クナドの声が、湿り気を帯びた熱気の中に重く響いた。
「そう。住吉神も物部の神になる。『神秘書』で住吉神と同神って言ってる高良神も物部の神。二柱は物部で繋がるの」
「結局、同じ神ってことだな」
クナドが確信を込めて言い切った。その言葉は、空気に溶けることなく、真実の重みを持って弥沙の胸にすとんと落ちた。
「……そう思うよね?」
弥沙が問い返し、視線が絡まる。ハルは自転車からしゅたっと降りると、足元でくすくす笑った。
「やっぱり、最近の二人は息がぴったりだね。ハルから見ても、なんだか楽しそうだよ」
「……なっ。……からかわないでよ、ハル」
弥沙は少しだけ耳を赤くして、逃げるように自転車を置きに行った。
手水舎へと歩を進める。冷たい水が、夏の熱気と、どこか落ち着かない胸の鼓動を鎮めてくれる。
ハルは、弥沙の足元で見上げた。
「志賀海神社の安曇氏の始祖は『海神綿積豊玉彦神子穂高見命』。綿津見神、またの名を豊玉彦。……その娘が豊玉姫で、彼女の夫で海神の宮を訪れたのが山幸彦。……弥沙、山幸彦が海神の宮で授かった『宝』が何か、覚えている?」
「……潮満瓊と潮涸瓊。潮を操る、二つの珠だよね」
弥沙は手水舎の冷たい水を指先に感じながら、思考を巡らせた。昨日、志賀の浜辺でハルが見せてくれたホログラム。あの時、胸を打った言葉が鮮やかに蘇る。
「昨日、『神秘書』の中で、高良神は『干珠満珠』で国土を治めたって見たよね。その龍神の正体が、安曇磯良であり、高良神だった。
……神話の山幸彦が授かったのも、名前こそ違うけど、潮を自在に操る全く同じ力を持つ『二つの珠』。……ねえ、ハル。これって偶然じゃないよね?」
ハルが「もちろん!」とばかりに尻尾を揺らすと、弥沙の視界を覆っていた霧が晴れた。いくつもの物語の断層がピタリと重なり合って、鮮明な一本の道筋を描き出す。
『ってことは何? 神話の山幸彦の話も、全部あの人たちの自作自演ってこと?』
ツキの突拍子もない言葉に、弥沙はハッとして動きを止めた。
「……自作自演、か。でも、それならすべてに辻褄が合ってしまう。龍宮の主も、そこへ珠を求めに行った方も、結局は同じ神の別の姿だったということ……?」
弥沙は、昨日みんなで導き出した「同一神」の結論を反芻する。
「珠を授ける側と、授けられる側。もしかすると、神話でも同じ構造なのかもしれない。……住吉大社の大海神社の井戸に『山幸彦』の満珠が鎮められているという伝承があるのよ。それって『同じ存在』だってことを後世に伝えるための、精一杯のメッセージなのかも」
『住吉神が、実は山幸彦だって、暗号でバラしてるんだ!』
「ツキ、言い方……。でも、確かにそうかもしれないね」
弥沙は、いつも核心を突くツキの言葉に、不思議と腑に落ちる感覚があった。
「……まあ、そういうことじゃねェかぁ」
クナドが拝殿に向き合い、独り言ちるように呟いた。その背中には、夕闇を背負う神としての寂寥が漂っている。
「どうにかして、誰にも消されない形で伝えたかったんだろうさ。……自分たちの神が何者かってことをな」
弥沙は、まじまじとクナドを見た。
「なんだよ」
「いや、クナドからそんな言葉が出るとは思わなかったから」
『弥沙の影響ね!』
ツキが楽しそうに尻尾を揺らした。
皆は並んで、手を合わせた。
境内の濃い緑が、神の吐息のような風に揺れている。
ツキが静かに足を止め、社の方へ視線を向けた。
『……ここにも、いるのね。同じ気配が』
誰も何も言わなかった。
ただ、天から降り注ぐ蝉時雨だけが、夏の空を震わせている。
弥沙は鳥居を出て、古き神域に深く一礼を捧げた。裂田溝まで、あと二十分ほど。
歩き出しながら、弥沙はふと、燃えるような西空を仰ぎ見た。
「……昨日、大潮だったのよ」
「ん?」
「年に数回しかない潮で、沖津島に渡れた。志賀海神社の奥宮に。……そして、今日が岩戸神楽の日……ねえ、これって偶然には思えないわ」
「必然だろ」
クナドは迷わず言い切った。
「神事だ。潮も日も、すべては揃うべくして揃ったんだな」
自転車の前かごでハルが静かに頷いた。
「主の趣向、だね」
クナドが、空を睨みながら低く笑った。
「……あの龍公め。相変わらず食えねェな」
現人神社を後にして、裂田溝へと続く道。西日が田んぼの水面を照らして、一面を黄金の波へと変えていた。
「天火明命……」
弥沙がその名を唇に乗せると、ハルが応えた。
「天照国照彦火明命——饒速日命に繋がる物部の神だね」
「天火明……天を照らす、火の明かり」
弥沙は一歩一歩踏みしめるように呟いた。
「また、天照か」
クナドが低く笑う。
「クナド達にとって、天照ってどんな存在?」
「さあ。知らねえなあ。記憶ん中じゃ、会ったこともねェし」
『うちもぉ』
しばらく歩くと、安徳台が見えてきた。
「今日行く伏見神社の祭神、淀姫——豊姫とも呼ばれてるよね」
弥沙は、前かごから行く手を見つめるハルに向かって問いかけた。
「神功皇后の妹とされてた。……でもね、『八幡愚童訓』にも豊姫が出てきたでしょう?」
「磯良を呼び出す場面だね」
「前も言ったけど、河上大明神として書かれてた。それが佐賀の與止日女神社で——そこでも神功皇后の妹、あるいは豊玉姫とされてるのよ」
クナドが射抜くような視線で眉を跳ね上げた。
「……また繋がったのか」
「繋がったのよ」
弥沙は微笑んだ。
「伏見神社の神様が、昨日私たちが見た豊姫なのよ。……これも、神事だと思う」
『……必然ね』
ツキが、祈るように静かに呟いた。
安徳台の丘の上で、カケスが鋭く一声鳴いた。
次の瞬間、羽ばたきの音とともに、一羽のカケスが弥沙の肩にふわりと降り立った。
「……源じいさん」
『おや。今宵は祭りか』
しわがれた声が、耳元で囁く。
「伏見神社の岩戸神楽です。一緒に見に行かれませんか?」
カケスは首をかしげて、しばらく弥沙の顔をじっと見つめた。その小さな丸い瞳には、燃えるような夕暮れの金色が映り込んでいる。
『……ふむ。あそこの神楽か』
遠い記憶を掘り起こすように、老鳥は空の果てを見やった。
裂田溝の水音が、さらさらと清らかな調べを奏でている。
『……まあ、よかろう。久しぶりに拝ませてもらうとしようか』
源じいは満足げに弥沙の肩へ居座った。クナドがその様子を横目で睨み、不服そうに吐き捨てる。
「……爺さん、自分で飛ばねェのかよ」
『この方が楽じゃ』
「……ずるいな」
クナドが、小さく、羨むように呟いた。
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*参考資料
・荒木尚ほか編『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社,1972,
※本書における引用の現代語訳および内容解釈は、筆者が原典に鑑み、独自に行ったものである。




