40話 勝馬──潮が、引く
──ちりん。
海の中道公園を出たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
鏡がまた鳴っている。
運転中の弥沙の代わりに、ツキがリュックの中の鏡を確かめた。
そこに映っているものが変わっている。
──海の中の小さな島。
『朝、遊んだ浜と島が映ってるわ』
ツキが鏡を覗き込んで、ふわりと微笑んだ。
「勝馬ね。了解」
弥沙がアクセルを踏み込む。
クナドが鏡を覗き込んだ。
「おい、亀。」
応えるように、鏡面がふわりと白く濁る。
次の瞬間、双子の童子が——白橡色の装束をきちんと整えて──車内に現れた。10センチほどの大きさで、ふわふわと浮いている。
『お呼びでございますか』
「勝馬に行けばいいのか?」
二人は顔を見合わせ、楽しげに目を細めた。
『さよう。……本日の潮を、ご覧になりましたか』
クナドはスマートフォンを取り出した。潮見表を開くと、今日——7月13日の最大干潮は、午後3時。
「……島に、渡るのか?」
『年に数度しかない潮にございます。主の趣向で』
「主の趣向って、あの龍神の?」
クナドが眉を跳ね上げる。
『さよう』
童子たちは涼しい顔で頷いて、くすくす笑っている。
「……あの龍公、相変わらず食えねェな」
クナドが舌打ちしながらも、楽しそうな顔をした。
そう言えば、クナドはよく笑うようになった。会った頃はどこか斜に構える風であったのに。
弥沙は、ルームミラーにちらっと映ったクナドを見て微笑んだ。
それだけじゃない。いつの間にか、その背丈も、まとう気配の重さも、最初に会った頃とは違う気がする。大和の幻視を見た頃から、だろうか。今や弥沙より頭一つ分は大きい。
*
勝馬の浜に着いたのは、午後2時を過ぎた頃だった。
朝に来た時とは、海の顔が違う。
沖まで続く砂の道が、ゆっくりと姿を現しつつある。水が退いた跡に、貝殻と海藻が点々と残されていた。白い光が砂を照らし、小さな水たまりがそこここに光を溜めている。
「……引いてる」
『刻限まで、もう少しでございます』
童子の一人が、静かに告げた。
一行は黙って、潮が退くのを待った。
ツキは浜を歩き回り、ハルは貝殻を検分している。クナドは弥沙の横にどかっと座って、腕を組んで空を睨んでいた。
弥沙は、隣にあるクナドの大きな気配を盗み見る。
いつだって、彼はこうして隣にいてくれた。危ういときは手を引き、迷ったときは背中を蹴飛ばすようにして、自分を日常のその先へと連れ出してくれた。
気づけば、自分の中でクナドという存在が、これ以上なく大きな重みを持つようになっている。
最初に会った頃、彼は弥沙にとって「得体の知れない何か」だった。突然現れて、乱暴な言葉で引っ張り回して、でもいつも、肝心な時には必ずそこにいた。
いつからだろう。その存在が、あって当たり前のものになったのは。
波が一つ、静かに砂を濡らして引いていく。また一つ。砂の道が、少しずつ、少しずつ顔を出してくる。
クナドはまだ空を睨んでいる。その横顔に、弥沙は視線を向けた。神の顔だ。
けれど今は、ただ隣に座っている一人の男の横顔だった。不思議なほど見慣れた、体温のある気配。
「沖津島っていうんだよね。あっこ、志賀海神社の奥宮になるんだ」
「ん?」
「……今日この時間に潮が引くのは、偶然じゃない気がして。……やっぱり、『神事』だからかな」
「そりゃそうだろう。主(龍神)が『舞台』を整えたんだからな」
何もかも、神の意のまま。自分たちの足跡さえ、大きな掌の上で踊らされているような感覚に、弥沙は微かな頼りなさを感じて口を開いた。
「……クナドは、そんな風に、誰かの意のままに動かされるみたいなのでも、嫌じゃないの?」
弥沙は、波の音に溶けるような声で聞いた。
クナドは鼻で笑って海を睨んでいたが、ふと、その藍色の瞳を緩めた。
「……面白けりゃ、それでいいんじゃねェか? 誰が舞台を作ろうが、そこをどう歩くかは俺様が決めることだ。俺様は、俺様がしたいようにしてるだけだしな」
「寂しくない? ……ずっと、そうやって流されていくのは」
「……寂しい、か。そんな人間みてェな感情、とっくに忘れたと思ってたがな」
クナドが、ほんの少しだけ弥沙の方へ肩を寄せた。その肩の熱が、弥沙の腕に伝わってくる。
「だが、今は違う。隣で危なっかしく震えてる女と、理屈うるせェ猫がいりゃあ、寂しがる暇もねェよ。……ツキもいるしな」
「そっか。……楽しいんだね、今」
「まあな」
クナドはぶっきらぼうに答えて、ふいっと顔を背けた。けれど、その耳の端がわずかに赤いことを、弥沙は見逃さなかった。
鹿島神と向き合ってたあの時、クナドは低く、けれど揺るぎない声で「決まってる」と言った。
何を守ろうとしているのか、その答えを彼は決して口にはしなかったけれど。
あの時の低い声が、目の前の彼の温もりと重なった。
誰の意のままになろうとも、面白ければいい。寂しがる暇もないほどに、自分たちとの時間を楽しんでいる。
彼が守り抜こうとしているものの正体を、言葉の代わりにその熱から受け取った。
「そう言えば、クナドって何歳?」
「神に年齢とか聞くな。千年以上だよ。細けぇことは覚えてねぇ」
「だよね」
弥沙はふふふと笑う。──しかし、それだけの間、ずっと一人だったのだ。鹿島神と触れ合えた日々は、彼にとってどんな時間だったのだろう。
「神って大変だな」
弥沙は、波を見つめて、独り言ちた。幻視の御炊屋姫たちが頭によぎる。
「そりゃな。変に祀られて堕ちるヤツもいるんだ。俺様は祀ってくれる者たちがいる。……まあ、悪くはねェよ」
*
午後3時。
砂の道が、島まで繋がった。
弥沙は一歩を踏み出す。
水から頭を出した石の上を渡る。
弥沙の足元で砕ける波は、現世の重さを削ぎ落としていくかのように冷ややかだった。
その瞬間——空気が、密度を増した。
潮の匂いが粘りつくように濃くなり、背後にあるはずの現世の喧騒が、遠い砂嵐の音のように消え去る。
まるで、世界の継ぎ目を一歩跨ぎ越したような——。
「……もう、異界に入ってるのね」
弥沙の呟きに、童子たちは答えなかった。ただ、二人して静かに微笑んでいる。
島に渡り切った時、リュックの鏡が熱を持ち始めた。
童子の一人が、すっと前に出る。その手には、中にあったはずの鏡を持っていた。
『……では、ご覧ください。琉球神道記よりも、ずっと昔に書かれた物語を』
もう一人が、鏡の縁に細い指先を触れた。
鏡面が、深い青に染まる。
そこに映し出されたのは——海だった。
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