39話 花と、棘と、手のひら
志式神社の境内に、見慣れた午前の光が満ちている。
林を揺らす風の音も、波の響きも、何ら変わりはない。
『……お供は、ここまででよろしいでしょうか』
不意に背後から、鈴を転がすような、幼い声が二つ重なって響いた。
弥沙が驚いて振り返ると、そこには六歳ほどの、瓜二つの容貌をした双子の男の子が並んで立っていた。
「……え? 誰……? あ、もしかして……」
弥沙が言いかけるより早く、白橡色の装束を着た二人が、深々と頭を下げる。
『先ほどの亀にございます。主様より、これからもお側にてお供するようにと仰せつかっておりました。御用の時はお呼びください』
二人の男の子が声を揃えて言うと、クナドが横から不躾に口を挟んだ。
「おい、お供ったって、その恰好でずっと後ろを付いてくるつもりか? そんな目立つガキ二人を連れて歩くなんて、俺様は御免だぜ」
男の子の一人が、賢しげな瞳を上げて、いたずらっぽく微笑んだ。
『ご安心ください。ずっと実体のまま現世の地を踏むわけではございません。我らは普段、その鏡の内に潜んでおります』
「……鏡の中に?」
『さよう。そのお手元の鏡は、天より降りし尊き方の魂を宿し、すでに『異界の鏡』へと変じております。鏡を覗き込み、我らの名を念じてくだされば、いつでも時空を越えて駆けつけましょう』
天より降りし尊き方――。
弥沙は、リュックの中で今も微かな熱を放っている鏡に触れた。あの奈良の幻視で、鏡が勾玉を飲み込んだ瞬間の光景が、脳裏をよぎる。
……あの勾玉。饒速日の勾玉が、ここに……。
弥沙がその御名を唇に乗せようとした瞬間、クナドが鋭い視線でそれを制した。
「……なるほどな。あの『物部』の祖神様の力を取り込んじまったってわけか。道理で、背中がムズムズするほどデカい神気が漏れてると思ったぜ」
クナドが肩をすくめると、双子の男の子たちは顔を見合わせ、楽しげに目を細めた。
『さよう。……では我らはこれより、次なる物語の『舞台』を整えに参ります。主様より賜りし記憶の糸を、再び手繰り寄せる準備にございます』
「舞台……? またどこかへ行くの?」
「準備が整いましたら、鏡を通じてお呼びいたしましょう。……それまでは、どうぞ現世のひとときをお楽しみください。では、また後ほど」
二人はその場でくるりと舞うと、淡い光の粒となって、志賀の海の奥へと吸い込まれるように消えてしまった。
静寂が戻った境内に、再び潮騒の音だけが響き始める。
「全部が、夢みたい」
「……ほら、さっさと歩くぞ。いつまでもここに突っ立ってると、本当に現実と神話の区別がつかなくなるぜ」
『ねえ、弥沙』
ツキが弥沙のスカートをくいっと引いた。その白い尻尾が、そわそわと揺れている。
『お花、見たい。さっき来る時に、きれいな色が見えたの』
「海の中道の公園ね。……うん、行こうか。さっき乗りたいって言ってた観覧車も乗ろうよ」
『やったぁ!』
ツキは嬉しそうにその場でくるりと回った。
弥沙は、鏡をリュックにしまいながら頷いた。宇宙の果てまで旅して、武神と対峙して、地球の夜明けを眺めた後に、花を見に行く。なんだかひどく、現実離れしていて可笑しかった。
「腹減った」
クナドが言った。
「……そうだよね」
*
志式神社から車で10分ほどで、海の中道海浜公園につく。
まずは、皆で三回も観覧車に乗った。食事をして、ベンチに腰を下ろすと、ようやく全員から力が抜ける。
「観覧車面白かったね!」
ハルはまだ興奮が収まらない。他の人の目には映らないまま、ソフトクリームを食べている。
安徳台の光から出てきたハルも、神使か、神なんだろうか。その割には人型に成ったりしないな。弥沙はソフトクリームを食べているハルを微笑みながら見た。
猫に見えるけど、猫じゃないから、食べられるんだよ!と力説していたハルが可愛かった。
「食べたかったんだぁ」
ツキは、花の方へと駆けていった。薄茶の髪が風に揺れ、翡翠色のドレスが陽光に映える。尻尾を隠しているから、どこから見ても普通の少女だ。
「……ねえ、ハル。さっき見たのは、鹿島神の由緒記でしょう?」
「そうだね。おそらく、『琉球神道記』だよ」
「志賀島のあの龍神様も、鹿島の水底にいたあの磯良も、本当は……」
弥沙は、ベンチの横に置いたリュックに視線を落とした。そこには、勾玉の熱を宿した『異界の鏡』が眠っている。
「……同じだったんだよね。鹿島神も志賀神も高良神だったんだから。あの二人から伝わってきた『熱』は、どうしても同じものに思えるの」
ハルが瑠璃色の瞳を鋭く細めた。
「その通りだよ。人間たちが勝手にラベルを貼り替えても、源流にある水の味は変わらない。各地の社が、自分たちの言葉で必死にその『色』を守り抜こうとした結果の、壮大な目くらましだね」
「けっ、結局はあの龍公(磯良)の独り舞台じゃねェか。人を散々連れ回しておいて、自分は高みの見物かよ」
クナドが苦々しく吐き捨て、空を睨みつける。その紺の瞳には、神の傲岸さと、それを凌駕するような未知への苛立ちが混在していた。
「だがな、弥沙。その核に触れちまったからには、お前はもう、ただの観客じゃねェ。その物語の中に足を踏み入れちまったんだぜ」
「……ずっと遠い昔の、自分には関係のない出来事だと思ってた。でも、そうじゃないのね。全部、今もここに繋がって、息づいている……。これは、本物の『真実』だったんだわ」
しばらく、誰も何も言わなかった。風が吹いて、花の香りが運ばれてくる。
その時、ツキの小さな悲鳴が聞こえた。
「ツキ?」
花壇の縁でツキが手のひらを押さえてしゃがみこんでいた。弥沙が立ち上がって駆け寄った。
『……バラの棘に、やられたわ』
「見せて」
弥沙は屈んで、ツキの手を取る。
細い指の付け根に、小さな赤い傷。じわりと血が滲んでいる。
弥沙は何も考えていなかった。ただ、痛そうだと思って、その傷に手のひらをそっと当てた。温かい。自分の手のひらの中心から、じんわりと熱が広がっていくような——。
ツキが、静かに息を呑んだ。弥沙はゆっくりと手を離す。
傷が、消えていた。
弥沙の指先が触れた場所から、肉が盛り上がるような生々しい感覚さえなく、ただ『初めから無かったこと』のように。
『弥沙、……あなた……。今まで、こういうこと出来てた?』
「ううん。今、初めて……」
御炊屋姫は、人を癒す力を持っていた。その力が……今、ここに、ある。あの時の天の鳥船を夢で見て……あの人を見た。これって、どういうことなの?
弥沙は、自分の手のひらをもう一度見つめた。見た目は、何も変わっていない。
「……クナド」
彼女は、隣に立つクナドを見上げた。
「……そんな顔して俺様を見るな。その手の熱が何なのか、お前の魂が一番よく分かってるはずだぜ」
クナドは視線を逸らしたまま、低く言った。
「お前が『ただの人間』じゃないかもしれないって、俺様はとっくに思ってたぜ」
観覧車が、ゆっくりと回り続けている。
花の香りの中で、弥沙はただ、自分の手を見つめていた。
ちりん。
――清冽な、鈴の音がした。
リュックの中で鏡が鳴っている。鏡面を覗き込むと、そこには現世の公園の景色ではなく、深い青に沈んだ志賀海神社の情景が、生き物のようにうねりながら映し出されていた。
「……舞台が、整ったってことね」
弥沙は、自分の変質した手を強く握りしめ、立ち上がった。
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