38話 異類の怨嗟、神の諦念
視界を埋め尽くした白光が、潮が引くようにゆっくりと引いてゆく。
足元には、玻璃の球体にも似た、青い地球が横たわっていた。
だが、先ほど鹿島神が見せた、あの慈しみ深い『幻視』とは、何かが違っている。
列島に立ち昇る、四つの清冽な光の柱。その神々しい輝きを侵すように、今、漆黒の澱みが、地表のあちこちから這い出していた。
「……おい。ありゃあ、なんだ……?」
クナドの声が、これまでにないほど険しく、刃のような鋭さを持って響く。
彼の視線の先――北部九州、筑紫の地。
黄金の夜明けに染まるはずのその場所で、どす黒い影が生きた悪意のように蠢いている。
「……あの音だ。安徳台で聞いた、結界の底が抜れたようなあの嫌な響き……。あっちこっちで鳴り出してやがる」
クナドが吐き捨てるように言った。
その影は、まるで古の毒虫が地を這うように、あるいは墨汁を垂らしたように、列島の光をじわじわと塗り潰してゆく。
『……まつろわぬ者たちの、胎動よ。……繰り返すのだ』
その重厚な声は、宇宙の静寂を震わせる。傍らで、黄金の亀がゆっくりと旋回していた。
────弥沙の胸に届いたその響きには、どこか拭い去れぬ諦念が、澱みのように混じっている気がした。
直後、宇宙の深淵を埋め尽くしていた漆黒の静寂が、凪いだ水面のように揺らぎ始める。
眼下の青い地球の輪郭が朦朧と溶け去ってゆく。代わって、底知れぬ闇の奥から、別の『時』の層がすうっと浮き上がるように顕れた。
そこは、雷鳴轟く、原生の緑が猛り狂う地だった。蛍火のように妖しく明滅する鬼が夜の闇を埋め尽くし、草木が、風もないのにざわめきながら、おぞましい言霊を吐き散らしている。
天を劈く稲光の下、鋭利な光を放つ剣を携え、音もなく降り立った二柱の武神。武甕槌神と経津主神。
それは、天照大御神の命を奉じ、天孫が降臨する以前の『葦原中国』を平定せんとする姿だった。
地上の主であった大国主に対し、苛烈なまでに国を譲れと迫り、跋扈する異形の神々を梺めてゆく。
彼らはその淀みへと、躊躇なく踏み込む。荒ぶる山河を切り伏せ、地に蔓延る『まつろわぬ神々』を、その圧倒的な神威をもってねじ伏せてゆく。
それは慈悲なき平定。この国に『秩序』という名の杭を打ち込むための、熾烈な戦いの記憶だった。
『これは、神話の情景ね』
ツキの、氷片が触れ合うような静かな声が響く。
「……へっ。師匠もまた、その『想念』の檻の中に居るってワケだ」
クナドが苦々しく吐き捨てる。
『……人が望む限り、繰り返される。それが神の宿命よ』
ツキが静かに、けれど重く言い添えた。
『これは、其方たちの『今』……そして、近き『先』の写し絵なり。
我らが磯良と共に封じた『異類』の怨嗟が、結界の綻びより溢れ出す』
「異類……? 神功皇后は、それと対峙していたわ。……おそらくは、高良の神。磯良と共に」
弥沙は、足元で黄金の軌跡を描きながら旋回する亀を見つめた。
「お願い。鹿島神様のところへ、私たちを連れて帰って」
亀は一度だけ、厳かに首を縦に振った。
その甲羅が、呼吸を始めたかのように白く、透き通るような燐光を放ち始める。
『心をひとつに、強く念じていて』
片割れの亀が、銀の鈴を転がすような声で告げた。
弥沙は、腕の中のハルをこぼさぬよう強く抱きしめ、ツキの細い腕をもう片方の手で固く取った。
すかさず、背後に立つクナドが、逃れようのない大きな熱量で弥沙の肩を抱き寄せる。
彼ら全体を包み込むように、亀から放たれた光が球状の結界を編み上げ、重力さえも消え失せた。
その確かな護りの気配に、弥沙が深く息を吐いた瞬間――。
網膜を焼くほどの白光が、すべてを呑み込んで激しく弾けた。
*
不意に、足の裏を貫くような石畳の固い感触が戻ってきた。
深い杉木立。天を衝く梢。その隙間からこぼれ落ちる光の筋は、まるで神域を分かつ薄衣のように揺れている。
鹿島神宮の神殿は、宇宙の激動など露知らぬ様子で、永遠の静寂の中に鎮座していた。
弥沙は、肺の隅々まで行き渡るように深く息を吸った。
湿った苔の匂いと、大気を劈くような鋭い鉄の気配。それが、この地に座す武神の吐息そのものであるかのように、弥沙の鼻腔をかすめた。
鹿島神は、石段の上に腕を組んで立っていた。先ほどと寸分違わぬ峻厳な佇まいで。
『……見たか』
低く、重厚な声が石畳を伝って響く。
「はい」
弥沙は、自身の内に宿り始めた確かな重みを噛みしめるように深く頷いた。
「……あの黒い澱みが、あふれ出そうとしていました」
『そうだ。かつて磯良と共に封じたものが、再び目覚めようとしておる』
「結界が、また壊れるって言うのかよ」
クナドが低く呻き、地上の影を射抜くように目を細めた。その横顔には、道を司る神としての険しい光が宿っている。
『あれは……異類ともハタレとも言う。ハタレはさらに、ハタレを呼び込む』
「師匠……。これを見せたってことは、俺様たちに何かしろってことなんだな?」
クナドが天を仰ぎ、師へ静かに問いを投げかける。
『お前たちにしかできん。これは神事だ。まだ時間はある。……かの神の、真の姿を解き明かすのだ』
鹿島神の声が、神域の空気を物理的な震えとなって伝わってくる。弥沙の頬を、峻烈な神気が撫でてゆき、肌の産毛が逆立った。
『神の正体は、想念の皮を剥いだ先にある。其方たちが、志賀で、そしてここで見つけた『合わせ鏡』の真実……。それこそが、この澱みを再び封じるための、唯一の鍵となろう』
「神の、真の姿……」
弥沙は、腕の中に抱えたハルの、柔らかい温もりを確かめるようにそっと力を込めた。
高良神。安曇磯良。そして鹿島。
散らばっていた光の柱が、一本の不可視の糸に導かれ、一つの根源へと収束してゆく。
「なぜ今なんだ」
問いを投げたのは、クナドだった。いつもの軽妙さは微塵もなく、それは真なる武神としての、剥き出しの問い。
『結界とは、想念で織られたものだ。人が神を忘れ、伝承が塗り替えられ、真実が闇に沈むほどに……その織り目は粗くなる。
お主たちが解き明かしてきた『合わせ鏡』――それは、瓦解を待つ結界の綻びを、再び縫い直すための浄らかな糸に他ならぬ』
弥沙は、その言葉の重みに息を呑んだ。
「つまり……私たちが真実を解き明かすことが、この国を繋ぎ止める力になる、というのですか?」
『さよう。忘れられた神の名を取り戻し、バラバラに散らされた真実を一つに結ぶこと。それこそが、この国の深奥に打たれた杭を、再び深く、揺るぎなく根付かせる行為なのだ』
クナドが、腕を組んだまま鼻を鳴らした。
「……なるほどな。俺様たちがここまでやってきたことは、ただの謎解きじゃなかったってわけか」
クナドは無言のまま、杉の巨木へと歩み寄った。長い指先が、その樹皮に深く刻まれた古い剣傷をなぞる。
弥沙には、その背中が語る沈黙の意味が、痛いほどに伝わってきた。
『クナド神よ』
鹿島神の声が、木漏れ日を揺らして降り注ぐ。
『お主が、その魂を賭して守ろうとしているものは何だ』
クナドは、傷跡から指を離さぬまま、地を這うような低い声で答えた。
「……決まってんだろ」
それだけだった。けれど、その短い言霊が杉木立の奥へと吸い込まれてゆく間、弥沙の胸の奥では、凍てついた心を溶かすような熱い灯が、静かに燃え上がった。
『……ならば行け。かの神の真の姿を解き明かせ。……それが、お主たちに課された神事だ』
神殿の奥から一陣の風が吹き抜け、濃密な杉の香りが一行を包み込んだ。
弥沙が『行こう』と静かに告げ、黄金の亀たちが旋回を始めたその時――。
クナドがふいに向きを変え、社の前に立つ峻厳な武神を見上げた。少しだけ居心地悪そうに鼻の頭を掻くと、彼はぶっきらぼうに言葉を投げた。
「……おい、師匠。そんなに心配そうな顔すんな。これからはもう少し、まめに顔出しに来てやるよ」
鹿島神は答えない。ただ、組んだ腕に力を込め、わずかに口角を上げたようにも見えた。
傍らで、ツキと弥沙が音もなく深い一礼を捧げる。それは永き時を共に過ごした師への、静かな別れの儀式だった。
彼らの生は、飽くほどに長い。それは、幾千もの季節を一人でやり過ごす、底知れぬ孤独を背負うことでもあるのだ。
「……じゃあな。次に来る時は、とっておきの真実を持ってきてやるぜ」
クナドが背を向け、弥沙の隣に並ぶ。
再び、蒼い泡のような光に包まれ、世界が遠ざかってゆく。
頬を撫でる薄いベールの膜が、淡雪のようにふっと消えた瞬間、鼻腔を突いたのは懐かしい潮の香だった。
足の裏に伝わるのは、浜辺の乾いた土の感触。
永遠にも思える神域の静寂から、騒がしい現世へと強引に引き戻されたような、奇妙な眩暈が弥沙を襲う。
そこは、元いた志式神社の境内だった。
弥沙はスマートフォンを取り出し、画面を点灯させた。
ここで龍神に会って、鹿島神宮の神殿で、宇宙の果てを旅して、武神と向き合って——。
「……一時間しか経ってない」
呟きは、潮風にあっさりと攫われた。
弥沙は、土の感触を確かめるように一歩を踏み出し、まだ熱を持った自分の『今』へと歩き出した。
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも、面白い、続きが気になる!と思っていただけたら、★★★★★、お気軽にコメントもいただけると、執筆の大きな励みになります!




