37話 故に、磯良と名づく
鏡の縁に指先が触れた瞬間、世界の音はことごとく潰えた。
肺の奥まで満ちてゆくのは、どこまでも深く、重い、太古の潮の香。
弥沙はハルを強く抱き寄せ、ツキの腕を掴んだ。隣をゆくクナドの気配を標に、蒼い光の渦へと身を投じる。
爆ぜるような光に、思わず瞼を閉じた。
再び目を開けたとき、弥沙は柔らかな泡の衣に包まれていた。
――海。
武神タケミカヅチの記憶の底に、なぜ、これほどまでに豊かな海があるのか。
一行は、吸い込まれるように下降してゆく。
到りついたのは、暗い深淵ではない。海面から降り注ぐ光が、万華鏡のように乱舞する、明るい水底だった。
その時、視界の端で何かがぎらりと閃いた。
砂を巻き上げ、そこに横たわっていたのは――。
――巨大な龍。
その面は、一枚の大きな白い布で覆い隠されている。鱗のあちらこちらには、痛々しいほど無数の牡蠣がこびりついていた。
龍がゆっくりと頭を上げ、布越しにこちらを射抜く。
弥沙は息を呑んだ。
――これは、虜囚だ。
『……哀しい匂いがするわ』
ツキが弥沙の袖をそっと引き、その琥珀の瞳を細めた。
『果てしない、孤独の匂い。……ずっと、たった一人で、誰かを待っていたのね』
布の下に隠された真実を問うことも、近づくことも、今の弥沙には許されない気がした。
ただ、水底に縛り付けられたその孤独に、胸が締め付けられる。
――海の底の、名もなき囚われ人。
〈〈 鹿島の明神は、元は武甕槌神なり。 〉〉
重厚な、地響きのような声が響く。鹿島の神の声だ。
〈〈 人面蛇身なり 〉〉
――蛇。古の民は、龍のことをそう呼んだ。
<< 常州鹿島の浦の海底に居す >>
<< 一睡十日する故に、顔面に石牡蠣を生ずること磯のごとし >>
あれは、眠りすぎたゆえだというのか。
弥沙は、龍神の体にびっしりと付いた石牡蠣を見つめた。十日の眠りを重ねるたびに、磯の礫が覆ってゆく。それを剥ぎ取ってくれる手は、どこにもなかったのだ。
<< 故に、磯良と名づく。 >>
弥沙の胸を、激しい衝撃が貫いた。
――磯良。安曇磯良。
これまで幾度となく耳にしてきたその名が、今、目の前で横たわる痛々しい龍の姿と、鮮烈に結びつく。
鹿島の武神、タケミカヅチ。その峻厳な正体が、これほどまでに孤独な、水底の虜囚であったというのか。
名付けられたその名の由来が、誰にも顧みられず眠り続けたゆえの、哀しい「石牡蠣」の痕跡だったなんて。
<< 神功皇后、三韓を征し給う時に九尾六瞬の亀に乗りて九州に来る >>
声が響くと同時に、鏡の中の視界が、にわかに開けた。
逆巻く波濤を蹴立てて、山のごとき巨亀が海原を突き進む。その背に悠然と立つのは、顔を布で覆った龍神――磯良だ。
人の形を成してもなお、天を衝くほどの巨躯。その面を隠す布が、風に激しくなびいている。
──大きい……。
弥沙は、その圧倒的な進軍の光景に目を奪われた。
遥か西の空、茜に染まる九州の山影。一人の女王の召喚に応じ、龍神は東の果てから海を渡る。
──安曇磯良。ここでも神功皇后なのか。
<< 勅により梶取となる >>
荒れ狂う玄界灘。けれど、巨亀の上の龍神が指先をひとたび振れば、怒涛はひれ伏すように道を譲る。それは単なる道案内ではない。海そのものを御する、絶対的な権能の発露だった。
<< また筑前の鹿の島(志賀島)の明神 >>
志賀海神社が浮かぶ。その上空に一匹の龍の姿。
<< 和州春日の明神 >>
和州……奈良の春日大社。その上空にやはり、龍がいた。
<< この鹿島同じく、磯良の変化なり >>
三つの影が、重なる。
視界は次第に海を離れ、さらに高みへと上昇した。日本列島をはるか上空から俯瞰する、無音の宇宙。
湾曲する水平線。闇の中に青く光る地球。
弥沙は、この光景をどこかで知っていた。記憶の淵で、何かに触れそうで触れられない、もどかしい感覚。
足元にひしめく無数の『生』の気配。
暗い海に浮かぶ列島の上に、次々と眩い光の柱が立ち昇った。
東の『鹿島』、大和の『春日』、そして西の『志賀』。
それらは各々光の柱で結ばれ、その先は宇宙へと消えている。夜の底に巨大な星座を描き出していた。
弥沙は、その人智を超えたスケールの『絵図』を、息を呑んで見つめるしかなかった。
……『神秘書』と同じだ。
喉の奥が、熱い塊に突き上げられるような震えを感じる。
磯良、鹿島、春日、そして志賀。
――やはり、そうだったのだ。
あの時、志賀の境内でひらめいた予感は、真実だった。
この列島は『鹿』という名の暗号で、古より密かに、けれど強固に結ばれていたのだ。
かつて誰かがバラバラに散らした真実の欠片が、今、弥沙の瞳の中で一つの魂に結ばれていく。
東国最強の武神、タケミカヅチ。その峻厳な鎧の下で鼓動していたのは、安曇の海を統べる、深い慈愛を秘めた龍神の心だったのだ。
「……だから、鹿は神使とされたのね。神の真の姿を、その名の中に宿すから」
腕の中のハルが、瑠璃色の瞳を瞬かせて頷く。
「その通りだよ、弥沙。やはり、壮大な『合わせ鏡』だったんだね」
一行は、闇を貫いて立ち昇る四つの光柱を、しばし言葉もなく見上げていた。
「……へっ。俺様も、あんな風に見えてるのかね」
ぽつり、とクナドが零した。いつもの不敵な笑みは鳴りを潜め、黄金に縁取られたその横顔は、遠い悠久の彼方を見つめている。
「え?」
「いや……。俺様だって日吉の神だ。あんな風に、この列島の上に立つ一筋の光に過ぎねェんだなって、改めて実感しちまっただけさ。……普段は、そんなこと気にしねェで暴れ回ってるけどな」
クナドが自嘲気味に鼻を鳴らす。
弥沙は、自分の隣に立つクナドをそっと見上げた。『神とは想念』と言えど、確かにここに在る。その存在がたまらなく愛おしく、峻烈なまでに尊いものに感じられる。
「……クナドにも、見える時があるよ。クナドが一生懸命誰かを守ろうとしてる時、あんな風に真っ直ぐな光が立ってるのが、私には見える」
「…………」
クナドは驚いたように目を見開き、それから決まり悪そうに視線を列島へと戻した。
「……そうかよ。……これ、神の視点なんだぜ。本来なら一人で、孤独に眺めるはずの光景だ。……まさか、横に一緒にこれを見られる奴がいるとは、思わなかった」
「ふふ。……私もよ。ただの人間には、見ることさえ叶わない景色だもの。……クナドが一緒に来てくれてよかった」
弥沙の口から零れたその一言は、夜明け前の静寂に、波紋のように優しく広がった。
二人は顔を見合わせ、夜明け前の淡い光の中で、静かに微笑みを交わした。
そこで、クナドが射抜くような眼差しを弥沙へ向けた。
「……お前、本当に……ただの人間なんだろうか」
「……え? もちろん、どこにでもいる人間よ」
やがて、湾曲する水平線の向こうから、凄まじい光があふれ出す。
地球の、夜明けだ。
ツキは、溢れ出す黄金の光に向かって、静かに胸元で手を組んだ。
その横顔には、弥沙には測り知ることのできない、遠い遠い記憶への慈しみが浮かんでいる。それは、この夜明けそのものを寿いでいるかのような、あまりに静謐な姿だった。
不意に、ツキの唇が微かに動く。
『……また、会えたわね』
誰に向けた言葉なのか、弥沙には分からなかった。けれど、その囁きは確かに、天へと昇る光の柱の一つに向けられていた。
「……ま、師匠の記憶にしちゃあ、上出来な眺めだな」
クナドが、照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「……そうだわ。『儺の國の星』の真鍋氏の先祖は、物部であったという。遠い昔、鹿島の神官を務めていたその血筋……。
それは、鹿島の神を祀り続けてきた者が、他ならぬ物部であったということ。……安曇氏も物部。
すべては、血脈という絆で繋がっているのね」
名は違えど、果たす役割は同じ。
社家が祀る始祖と祭神が一致すること。
伝承の構造が鏡合わせのように等しいこと。
「各地に散らばった神様たちは、皆で一つの物語を語っていたんだわ。……合わせ鏡の元の像を、守り抜くために」
弥沙は、自らの目の前で悠然と回る、一匹の金の亀を見つめた。
パズルの空白が埋まっていく。けれど、その中心にはまだ、さらに巨大な『光』が座しているのを、弥沙の魂は直感していた。
──安曇磯良。彼は高良神だった。……その神が、鹿島神であり、春日神。
これは、筑紫という一地方の物語ではない。この国そのものを形作っている、底知れぬ巨大な意思なのだ。
弥沙は、地球を染め上げる黄金の光輝を、ただ呆然と眺めていた。
――そうだ。私は、これを知っている。
深淵のごとき暗い宇宙に、青く、慈しむように輝く球体。そして、すべてを塗り替えるように溢れ出す、あの黎明の光。
あの時、私は確かにこれを聞いたのだ。
星々の囁きにも似た、けれど宇宙のすべてを包み込む、あの声を――。
〈〈 全は一つ 〉〉
今、再び、同じ声が鼓膜ではなく魂に響いた。
それは鹿島神の峻厳な響きとも、クナドの不敵な響きとも違う。
けれど、この世界のあらゆる形を造り出し、名付けられる以前の『大いなる命』そのものの震えだった。
「……全は、一つ……」
弥沙は、その言葉をなぞるように、小さく唇を動かした。
己の指先も、隣で輝くクナドも、暗い水底に沈む龍神も。そして、この広大な星そのものも。
すべては等しく同じ光から分たれ、同じ一つの物語を生きている。
その時、背負ったリュックの隙間から、凄まじい光が溢れ出した。
中に納めていたあの『鏡』が、弥沙の魂の叫びに呼応するように、灼熱の輝きを放っている。
鏡の光は、瞬く間に弥沙たちの輪郭を白濁させ、宇宙のすべてを飲み込むほどに膨れ上がった。
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*参考*引用資料
・荒木尚ほか編『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社,1972,
※本書における引用の現代語訳および内容解釈は、筆者が原典に鑑み、独自に行ったものである。
・釋袋中『琉球神道記』明世堂,1944, p. 73-74.国会国立デジタルコレクション図書復刻版




