36話 鹿島神の千里鏡
弥沙たちは、蒼い渦の中に吸い込まれていく。
次の瞬間、足の裏に固い石畳の感触があった。
見上げれば、天を衝くほどの杉の大木が、左右にびっしりと並んでいる。その梢は遥か上空で交わり、空を細い光の筋だけに切り刻んでいた。
石畳の参道が、奥へと一直線に続いている。先ほどまでいた志賀島とは、空気が違う。肌を刺すような、張り詰めた清冽さ。潮の匂いはない。代わりに、古い苔と、研ぎ澄まされた鉄の気配が鼻腔をかすめた。
「……ここ、鹿島神宮? 少しずつ違う気がするけど」
弥沙は思わず声を落とした。囁き声でさえ、この空間では余計な音のように感じられる。
彼女は、腕の中で瑠璃色の瞳を瞬かせていたハルを、そっと石畳の上に下ろした。ハルは着地すると、真っ白な尻尾を一振りして、弥沙の足元にぴたりと寄り添う。
その時、参道の奥から、低い衝撃音が響いた。続けて、もう一つ。規則的で、重く、迷いがない。
クナドの足が、無意識に止まった。
「……クナド?」
弥沙が振り返ると、彼は参道の奥を見つめたまま、微動だにしない。その横顔から、いつもの軽口が消えている。
石畳の脇、巨木の根元に、深く刻まれた無数の剣傷があった。古いものも、比較的新しいものも。長い年月をかけて重ねられた痕跡。
クナドの視線が、そこに落ちた。
「……あいつに、何度もここに叩きつけられた」
彼はそう言って、無造作に、けれど慈しむようにその傷跡を撫でる。
「……行くぞ」
それだけ言って、また歩き出す。弥沙は何も聞かなかった。
梢の隙間から、まるで真珠の粉を撒いたような霧が降りてくる。
その白濁した空気の向こう側で、幾つもの影が動いた。
──鹿。
弥沙は息を呑む。現実の鹿島神宮では、鹿たちは金網のフェンスの中に守られていたはずだ。けれど、鹿たちは本来の主として、杉の巨木の間を自由に、誇り高く闊歩している。
一頭の雄鹿が、深い苔を踏みしめて弥沙たちの前に歩み出た。角の先まで研ぎ澄まされた威厳を湛え、漆黒の瞳で一行を射抜く。
「……ここでは、自由なんだね」
弥沙の呟きに、ハルが小さく頷いた。
「本来の姿だよ。ここでは神の使いもまた、その枷を脱ぎ捨てるんだ」
悠然と去っていく鹿の背中を、クナドは苦いものを噛み潰したような顔で見送っていた。
「……へっ。使いの連中はいいよな、身軽で。……結局、神サマだけが囚われたままだ」
ぼそりと零れたその声は、霧の中に吸い込まれて消えた。弥沙は、彼の横顔に一瞬だけ過った、深い孤独の色に胸がざわつく。
彼女は日吉神社での光景を思い出す。
あの時、神であるクナドは『祭神に名が無い神』に苦しんでいたのに、神使である子猿は何事もないように木々を飛び跳ねていた。
……そうか。使いの猿や、この鹿たちは、人間が作り出した『神』という枠組みの外側にいるんだわ。
『……哀しいことね』
不意に、隣を歩くツキが長い尻尾を揺らしながら、静かに声を漏らした。
『神は人の祈りを受け止めるほどに、その祈りが形作った『器』から逃れられなくなってしまう。
自由を捨ててまで、人の心の拠り所であり続けようとする。……それは、尊いけれど、とても孤独なことよ……。うちも、他人のことは言えないけれど』
ツキは自嘲気味に微笑み、自分の透き通るような指先を見つめた。その言葉に、弥沙より先にハルが反応した。
「え? ……ツキも、神なの? 神使だと思ってたよ」
弥沙の隣を歩いていたハルが、瑠璃色の瞳を丸くしてツキを仰ぎ見た。あまりに直球な問いに、ツキはふふっと小さく吹き出す。
『ふふ、ツキは神使じゃないよ。神様の一柱だよ』
そう言って自分の尻尾をつまむ。スカートの中に隠していたはずのそれは、布という物理的な理を透過し、外側へとゆらゆらと溢れ出している。
「……そうなんだ」
弥沙は、意外にもすとんと腑に落ちるのを感じた。
神使か、神か。そんな言葉の定義はこの際どうでもよかった。
ただ、この透き通るような白銀の尾の輝きと、彼女が纏う凪のような静謐さが、何よりも雄弁にその『格』を物語っている。
「ツキは、ツキだもんね」
弥沙が呟くと、ツキは慈しむような笑みを深めた。それ以上は何も語らず、二人はまた歩き出す。
一行は、霧と鹿たちの視線に見守られながら、さらに奥へと進む。
参道の突き当たり、巨大な拝殿の前に出た。
その前に、一柱の神が立っている。
片手に木刀を持ち、微動だにしない。
『カシマの主さま、シカノシマの皆様をお連れしました』
あの金色の亀たちが、共に声を揃える。
──カシマ? あれが、あの鹿島神なの……?
武神の名に違わず、威風堂々とした佇まいの神。
その存在感は、深い海底の圧力を跳ね返すほどに鋭く、神々しい。
──武神、武甕槌神。
弥沙は息を呑んだ。神の肌は岩肌のように荒々しく、身に纏う鎧は燃えるような深紅。それは文字通り、古の神仏画から抜け出してきたかのような、猛々しくも完成された姿だった。
「……綺麗。イメージ通りの姿」
思わず漏れた呟きに、鹿島神の瑠璃色の瞳が向けられる。
『……そうだな。神とは想念の産物だ。人が心に描き、言葉で呼び続けることで、形を成す。神仏の像も、その残影に過ぎん。それを見て、さらに神の形が固定される』
『……やっぱり、そうなのね。私たちが今、こうして人の姿を保っていられるのも、誰かの祈りの形があるから……。そう言うことね?』
ツキが、自分の手のひらをそっと見つめながら、確かめるように呟いた。
『人の想念が、神の器を造った。像が神を写したのではない』
弥沙は、目の前の深紅の鎧をそっと見つめた。
『最初の一人が『武神』と言葉で紡いだ。それが始まりだ』
この猛々しい姿も、気の遠くなるほど長い年月、無数の人が『武神』と呼び続けた祈りの堆積なのか。
弥沙は、自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。
「名付けられた、神……? ……綿津見神は、高良神だった。名付けられた神の正体を解くことは、その大元を辿ることになる。それは、名付けられる前の、純粋な神の姿……」
弥沙は、底知れぬ深淵を覗き込んだような気がして身震いした。
──私たちが今していることは、神という大いなる真理の扉に、指先をかけているのではないか。
鹿島神がゆっくりと歩み出る。その足音が、石畳に重く響く。一行の前で足を止め、その瞳がクナドに注がれる。
彼は、弥沙たちの背後に隠れるように立っていた。
『クナド神よ。久方ぶりじゃのう』
峻厳な顔立ちが、ふっと和らぎ、かの神は破顔する。
「お、おう。……まさか、こんなところまで引っ張り出されるとは思わなかったぜ」
いつもの威勢はどこへやら、クナドが珍しくもじもじと視線を逸らす。
『どうしたの、クナド? もしかして、まだ頭が上がらないの?』
ハルが不思議そうにツキを見上げた。ツキは慈しむような笑みを浮かべる。
『鹿島神はね、クナドのお師匠様なのよ。昔、武術を習いに通っていたんですって』
鹿島神は、クナドをしばらくじっと見つめた。その瞳に、遠い時代の記憶が揺れる。
『……随分と、大きくなったな』
その一言に、クナドの肩がわずかに震えた。
「……うるせェ。俺はずっとこの歳だ」
それ以上は何も言わなかった。けれど弥沙には分かった。この「うるせェ」は、いつものそれとは違う。
鹿島神は一行を見渡して、重々しく口を開く。
『『源』の字と、鹿の島の龍神からは話を聞いている。……どれ、鹿島の記憶を見せてやろう』
「源じいさん……そんなに有名なんですか?」
弥沙が問いかけると、クナドは困ったように頭をかいた。
「あの爺さんは食えねェやつだからな。俺たちの動向なんて、全部筒抜けってわけだ」
金色の亀の一匹が、その甲羅を次第に透明な鏡へと変質させていく。
『千里鏡じゃ。戻る時は、片割れに願うがよい』
鏡の中に、太古の潮騒が響き始める。
弥沙たちは誘われるように、その鏡の光の渦へと踏み込んでいった。
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