32話 龍宮の合わせ鏡
吹き荒れる風に目を射られ、弥沙はたまらずまぶたを閉じた。
木々の葉が擦れ合う激しい音と、潮騒の唸りが耳元で渦を巻き、平衡感覚が奪われていく。
「弥沙、しっかりしろ!」
クナドの叫ぶような声と、肩を掴む強い力が、かろうじて彼女をこの世に繋ぎ止めていた。
やがて、あれほど荒れ狂っていた風が、嘘のように止む。
弥沙が恐る恐る目を開けたとき、そこにあったはずのアスファルトの照り返しは消えていた。
背後には、天を衝くような巨木がひしめく濃緑の森が。
そして目の前には、白く砕ける波が岩を噛む、荒々しい玄界灘が広がっている。
森の湿り気と、潮の香りが混じり合う境界の地。
その波打ち際、木漏れ日が奇妙に白く淀む波間に、その『声』の主が、ゆっくりと実体となって現れた。
大気を震わせ、潮鳴りさえも組み伏せるような威容。
銀色に輝く鱗を重々しく波打たせ、巨大な龍が、岩場にその巨体をわだかまらせている。
『……『源』の隠居から、お主らのことは聞いておる。あやつ、今はカケスの姿で羽を整えておるそうだが、相変わらず人の世の『糸』を解くのが好きよな』
その巨体は、体をうねらし一行を見据えた。
「けっ、神様ネットワークかよ」
『クナド神、お主は属しておらぬそうじゃな』
「俺様は暇じゃないからな」
クナドは銀色の龍を恐れる風もなく、不遜に言い放った。一方でツキは、その圧倒的な神威に目を丸くし、弥沙の裾をぎゅっと握りしめている。
『くっくっく。まあ、それも一興じゃて』
龍神が目を細めた瞬間、潮風が渦を巻いた。
長く鋭い爪が虚空を切り裂く。
志賀の海を覆っていた霧が、意志を持つように動き始める——そして、世界が、反転した。
そこは、夜の帳が降りる直前の、海の中道の浜だった。
波打ち際では、篝火が夜気を焦がさんばかりに火の粉を散らしている。
これは――さっき亀石の案内板で読んだ、あの情景?
弥沙は、自分の足元を洗う波の冷たさと、爆ぜる火の粉の熱に息を呑んだ。文字で追っただけの物語が、今、圧倒的な質量を持って押し寄せてくる。
七日七晩、絶えることなく奏でられ続けた神楽の響きが、大気を、そして海神の眠る底の底までを激しく揺さぶっていた。
浜に立つのは、一人の女性。
武装したその姿――神功皇后は、潮風に髪をなびかせ、水平線の彼方にある『目に見えぬ国』を凝視している。その傍らには、一人の男。海神への祈りを捧げ、地を這うような低い祝詞が、重苦しく響き渡る。
その時、海が裂けた。
月光を跳ね返す波間から、巨大な、そして神々しい黄金の輝きが浮上する。
それは金色の雌雄の亀の背に乗った、この世のものならぬ威容。
二柱の神──志賀明神と勝馬明神が現れたのだ。
黄金の光が彼女の頬を白く焼く。
神が差し出したのは、二つの珠。
それを受け取る皇后の指先が、一瞬、神の手に触れる。
その刹那、弥沙は見てしまった。
伝承には残らぬ、二人の間に流れる「確かな熱」を。
弥沙の胸に疼くような痛みが走ったとき、隣にいたツキが、小さく震える声で呟いた。
『……弥沙。この二人、とっても悲しくて、とっても温かい匂いがするよ』
ツキの黄金の瞳には、幻影の篝火が映り込んでいる。
「……亀石の伝承と、同じ……」
呟きは幻影の波音に吸い込まれる。だが、一度生まれた予感は止まらない。
神功皇后が関わる高良大社のタペストリーに描かれたあの船。三韓征伐の情景、そして『神秘書』にある、四王寺山での二人の出会い。それらが重なっていく。
──描かれている人物が違えど、そこに流れる『空気』はすべて……。
言いようのない既視感が弥沙を貫いた瞬間、激しく燃えていた篝火の熱がふっと遠のき、潮騒の音が現代の静かな波音へと塗り替えられていった。
夜の帳を映していた幻影は、朝の光を含んだ霧となって四散し、再び銀色の龍がわだかまる海辺の情景が姿を現す。
ただ、幻視の中にいたはずの二匹の亀だけが、実体を伴ったまま、するりと思いのほか小さくなって残っていた。
亀たちはハルを気にして、熱心にその白い毛並みに頭をこすりつけている。
「ちょっ……やめて……」
弥沙は、網膜に焼き付いたあの映像が離れない。
「──亀石には、浜にいた男が阿曇磯良とあったわ。そして海から現われた二柱の神が、干珠満珠を授けた……」
自分の記憶をなぞるように、宙を凝視した。断片的な情報の欠片が、激しく火花を散らす。
「もしかすると、これらすべてに『共通する核』があるのでは……? 違う場所で、違う名前で語られていても、根底にある熱量は同じなの?」
ふいに、指先が凍えるような冷たさに支配された。それと引き換えに、思考は研ぎ澄まされ、冷徹なまでの透明度を増していく。
「そうだ。これも合わせ鏡。プリズムのように、一つの光が幾つもの色に分かれて見えているだけだとしたら……」
弥沙の脳裏で、とりとめもなく散っていた伝承の粒が、磁石に吸い寄せられるようにして透明な結晶へと結実した。七色の光を放ちながら、それは猛烈な速度で回転し始める。
『筋がいいぞ。じゃが、違いにこそ、意味があるのじゃ』
「そう。今宮神社や、社の公式にある伝承とも、少しずつ違っていました」
「あ! こそばゆいってば!」
ふと気づけば、ハルはいつの間にか亀の背に乗せられていた。金色の甲羅が放つ微かな光を反射して、ハルの白い毛並みが真珠のように淡く輝いている。
「弥沙まかせて! ホログラムにするよ」
ハルが促し、弥沙が鏡を差し出す。亀の背に置かれた鏡にハルが小さな手を当てると、冷ややかな光が溢れ出し、虚空にホログラムの曼荼羅が浮かび上がった。
「これ、亀石の案内板の映像だよ。――『神功皇后が阿曇磯良を介し、神楽を奏して祈願した。珠を授けたのは黄金の亀に乗った志賀明神と勝馬明神である』」
ハルが手を動かすと、光の粒子が形を変え、境内の摂社の情景を映し出す。
「でも、今宮神社の由緒はこうだ。『阿曇磯良が龍宮から珠を借り受けた。綿津見神は安曇氏の祖神なり』」
さらに、昨夜検索した神社のHPの文字が青白く空中に踊った。
「そしてこれ、公式の情報。――『皇后が志賀島の阿曇磯良を海国から召した。龍神より珠を授かる』……」
龍神は、騒がしく揺れる光の断片を、ただ静寂を湛えた目で見つめている。
──やがて、銀色の鱗を月光のようにきらめかせ、神は深い得心の声を漏らした。
『どれも真実であり、どれも真実ではない』
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*参考・引用文献
・志賀海神社『志賀海神社について』(公開日不明)http://www.shikaumi-jinja.jp/about/index.html ,(参照2025-06-11)
・志賀海神社の亀石、今宮神社の案内板。




