31話 志賀海神社の志賀と鹿
志賀海神社は、島の北側、潮の香が最も濃く漂う場所にあった。
姿を消したハル、年相応の私服に身を包んだクナド、そして尻尾を隠して神妙な顔をしたツキ。どこから見ても、夏休みに入ったばかりの平日の参拝客にしか見えないだろう。
駐車場を後にし、潮風に洗われた石造りの鳥居をくぐる。その手前、古びた棚に木箱が置かれ、志賀の清らかな浜砂――『御潮井』がうず高く盛られていた。
弥沙は、古くからの作法に従ってその砂を指先に取ると、自身の左右の肩に軽く振りかける。乾いた砂の粒が、肌に触れた一瞬だけ冷たく、清冽な刺激を伝える。それは目に見えない結界をくぐり抜けるための、厳かな儀式だった。
その先には、天を衝くような石段が待ち構えている。一段、また一段と踏みしめるごとに、外界の喧騒が波音の中に溶けて消えていった。
参道の両脇からは、歳月を重ねた古木が力強く枝を伸ばし、空を覆い隠すほどの深い緑の回廊を作っている。
隙間からこぼれる陽光は、あまりに白く、鋭い。弥沙は眩暈を覚えるような光の奔流に目を細めた。
石段を登り切った先、威風堂々とした楼門が、沈黙のなかに鎮座していた。その奥に控える巨大な社は、まるで深い海の底で時を止めたまま、訪れる者を静かに見下ろしているかのようだ。
本殿の前に立ち、弥沙は深く頭を垂れて手を合わせた。
目を閉じると、潮鳴りに混じって、境内を吹き抜ける風の音が鼓膜を震わせる。
ふと、肌を刺すような鋭い気配を感じて目を開けた。
社殿の海側、木漏れ日の中に、その石はある。
大きな、そしてあまりに平らな「亀石」。
傍らの案内板には、黄金の亀の伝承が記されている。
「ハル。ここでは安曇磯良が神功皇后に関わってる……」
「うん」
形のないハルの声が、風に溶けるように応えた。
亀石に宿る、遠い海の記憶。
弥沙は、案内板に記された『黄金の亀』の文字を食い入るように見つめた。
──そこにあったのは、神功皇后と安曇磯良神の伝承。
「……ハル。これについて話したい。車に戻って──」
急き立てられるように踵を返そうとした弥沙を、ハルの静かな声が引き止めた。
「待って、弥沙。焦らなくていい。ここにある『証拠』を、今はすべて、その目に焼き付けておくんだ」
ハルの声に呼び止められ、弥沙は一度深呼吸をして、逸る心臓をなだめるように歩き出した。
向かった先は、境内にひっそりと鎮座する摂社――今宮神社。
そこには、亀石の案内板とはまた少し毛色の違う、けれどどこか通底する不思議な伝承が刻まれていた。
弥沙はスマートフォンを取り出し、画面越しにその文字を捉える。
機械的なシャッター音が、静寂な境内に小さく響く。
耳を澄ませば、遥か波打ち際で砕ける水の音が、まるで巨大な生き物の呼吸のように寄せては返していた。
文字の一つ一つを、逃さぬようにデータへと刻んでいく。そのデジタルな記録さえも、この場所では遠い神域へと繋がる糸口のように感じられた。
「……よし。これで全部ね」
社殿の階段を下りた所に、石造りの鹿の像が、静かに境内の脇に立っている。さらにその奥――。
『……何よ、あれ』
ツキが弥沙のスカートをぎゅっと掴み、蔵の隙間を指差して声を震わせた。
暗い隙間から覗く、無数の白い角。それは声を奪われた者たちが積み上げられた骨の山のようで、乾いた死の白さが日光を弾いている。
「……鹿、か。海神の社にしちゃあ、物騒なもんを溜め込んでやがる」
クナドが苦々しく吐き捨てた鹿の像を射抜いた。弥沙は記憶の引き出しを一つずつ丁寧に開けていく。
「志賀島と鹿には、古い伝承があるのよ。神功皇后が三韓征伐の後に、鹿の角をここに納めたのが始まりだと言われているわ」
弥沙はそこまで言って、ふと、自身の声が潮鳴りに吸い込まれていくような奇妙な感覚に陥った。
「島の名前自体も、『筑前国風土記』によれば、皇后がこの場所を『近嶋』と呼んだのが始まり……。それが訛って、今の志賀島になったとあるの。全部、皇后の足跡で埋め尽くされているのね」
「へぇ、物知りじゃねェか。だが……それだけか?」
クナドの挑発的な問いに、弥沙は視線を角が積まれた『鹿角庫』の方へと向けた。
「そう。私もずっと気になっていたのよ。もしかすると、深い意味があるのではって。……ねえ、ハル。本当は何だろう?」
弥沙は、角の山から目を逸らさずに問いかけた。
「面白いところに気づいたね、弥沙。一度考えてみてほしい。この島の名前を」
「志賀島……志賀……し、か……。――鹿の島、なの?」
「うん。名前は、最も短い呪だ」
弥沙の瞳にだけ映るハルが、一瞬、幻影の白猫としてその輪郭を現した。満足げに喉を鳴らすと、陽炎に溶けるようにして再び姿を消す。
潮風に洗われた古い板、苔むした石垣。そのすべてが、人知れず秘められた『暗号』の断片に見えていた。
境内の出入り口の楼門を出た後、弥沙の足が、まるで何かに導かれるように参道を外れた。入って来た鳥居ではなく木立の沈黙する石段の方へ。
ハルは姿を解いて、階段をすたすた降りていき、振り返った。
「……弥沙。実は『神秘書』にはこう記されている。
『安曇磯良神と申すは、
筑前国にては志賀大明神
常陸の国にては鹿島大明神
大和の国にては春日大明神』」
「安曇磯良って、高良神だって神職さんが言われてたよね」
「うん。このすべてが、磯良という一つの根源に繋がっているんだ」
ハルの声が響いた瞬間、空気がしんと冷え、陽光さえもがその色を失ったかのように白く透き通った。
「鹿島に春日……。鹿島も、鹿の島。春日大社も、鹿が神のお使いだわ。
奈良では、鹿が鹿島から神を乗せてやって来たって、有名な言葉があるの。もちろん、同神って意味ね。……そして、ここも『鹿の島』」
弥沙は、歩みを止めて声に出した。バラバラだった点と点が、凄まじい速度で一本の線に繋がっていく。
弾かれたように顔を上げた。
「全部……『鹿』で繋がっている」
「そう。……あそこに積み上げられた角は、ただの奉納品じゃない」
ハルの視線を追うように、弥沙はもう一度、社を振り返った。
「ここが鹿島神の根源であり、繋がっている場所であることを、何千年も前から告げ続けていたんだ」
「もしかしたら、鹿が神使とされたのは、神に繋がる暗号だからじゃないのかな? 神の正体を表す暗号……みんな同じ神だと示すための……」
弥沙は息を呑んだ。確か、こんなのが前にもあった。
「──そう、これも合わせ鏡? ……それが、高良神?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに。
「……おい。来るぞ」
クナドが弥沙の肩を掴み、背後へ引き寄せた。
ごう、と頭上の梢が一斉に鳴動した。
海から駆け上がってきた突風が、弥沙の髪を激しく掻き乱し、四人を突き飛ばすような勢いで吹き抜けていく。
ツキが短い悲鳴を上げてしゃがみ込む。
――その嵐のような唸りの中に、確かに、人の喉が鳴らすはずのない響きが混じっていた。
『……大儀であった』
低く、地の底から響き渡るような、けれどどこか懐かしさを孕んだ声。
弥沙の心臓が、痛いほどに跳ねた。
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*参考・引用文献
・荒木尚ほか編『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社,1972,
※本書における引用の現代語訳および内容解釈は、筆者が原典に鑑み、独自に行ったものである。
・中村啓信監修・訳注『風土記』下(筑前国風土記),KADOKAWA, 2024,
・志賀海神社『志賀海神社について』(公開日不明)http://www.shikaumi-jinja.jp/about/index.html ,(参照2025-06-11)




