30話 神部物部の五姓*安曇氏
志賀島へは、海の中道を走る。
水族館や巨大な観覧車が、車窓を後ろへと流れていく。
『わあ、あれはなあに?』
無邪気にはしゃぐツキに、弥沙はハンドルを握りながら軽く説明を返した。
助手席のハルは瑠璃色の瞳で水平線を眺めている。
砂州の先に、こんもりとした緑の島が見えてきた。
道が細くなり、左右に青い海が広がり始める。
『わあ……! 弥沙、海が広い!』
ツキが窓に額をくっつけ、興奮で尻尾をせわしなく揺らした。
「海の中道だからね。両側が海なのよ」
弥沙は、ツキの反応がいちいち可愛くて微笑む。
「海なんざどこでも見られるだろうが」
後部座席のクナドが退屈そうに鼻を鳴らした。
『うるさい!』
玄界灘の青は、底に冷たい刃を沈めたような、重く鋭い紺碧だった。それに引き換え、博多湾は乳白色を混ぜたような、穏やかな翡翠色に凪いでいる。
対照的な二つの海に挟まれた一本道を、弥沙は迷いなく進んでいった。
社の前に海が見たいというツキの言葉で、志賀島の先端にある国民休暇村の浜辺と向かう。
「高良神は、物部の神だったよね」
弥沙が流れていく景色を見ながら言った。
「そうだね」
ハルは助手席で、流れる景色を瑠璃色の瞳に映したまま頷いた。
「『神秘書』には、血を吐くような言葉で記されていた。『物部を背くと当山滅する』――。それはもはや、ただの記録ではなく、呪いにも似た誓いだよ」
「高良の神が物部だってことは、もはや疑いようもねェ真実のことだろうよ」
後部座席から、低く、唸るような声が響く。クナドは背もたれに深く体を預け、あの日見た光景を振り払うように目を細めた。
「もし、彼が饒速日命なのだとしたら」
ハルは、空中の一点を見つめるように視線を固定した。データの海から、たった一つの正解を手繰り寄せるような、静かな口調。
「あの不可解な『神秘書』の系譜は、パズルの最後の一片のように、すべてが繋がってしまうんだ」
クナドが後部座席で腕を組んだまま、窓の外の海を一瞥する。
「神話じゃ敵同士だろ」
弥沙は、対向車とすれ違う瞬間にハンドルをわずかに切り、前を見据えたまま静かに応じた。
「神話ではね。でも『神秘書』の系譜では――」
一呼吸置いて、弥沙は確信を込めてその名を紡いだ。
「高良神と神武天皇は、兄弟として記されている。本来、敵同士として語られるはずの二人が、ここでは同じ血を分けた存在になっているの」
その言葉が車内の空気に重く落ちた瞬間、助手席のハルが、瑠璃色の瞳を鋭く瞬かせる。
「……もし、彼が饒速日命なのだとしたら、その矛盾した記述には二つの意味が生まれることになるね」
ハルは、流れていくガードレールの影を追いかけるように視線を動かし、一語一語を確かめるように紡ぎ出した。
「一つは、高良神という存在が、神武天皇という物語の根幹に深く関わっていた――その事実を消し去ることはできないと示していること」
道が大きくカーブし、視界いっぱいに玄界灘の濃い青が飛び込んでくる。ハルはその光を全身に浴びながら、静かに、けれど断定的な口調で続ける。
「そしてもう一つは……。本来なら相容れないはずの神武を、あえて高良神と同じ血脈に連ねることで、両者を切り離せない『一つの流れ』に閉じ込めたんだ。後世の誰もが、その繋がりを疑いようがない形にしてね」
しばらく、タイヤがアスファルトを叩く音と、遠い波の音に似た沈黙が車内を支配した。
あまりに巨大な仮説――あるいは作為の気配に、弥沙はハンドルを握る指先に、無意識に力がこもるのを感じた。
「……それが、何を意味するのか。……今のところは、まだ仮定の話だけれどね」
『ねえ』
ツキが窓から顔を離さずに言った。
『その饒速日って……あの人よね』
誰も答えなかった。
クナドは窓枠に肘をつき、苦いものを噛み潰したような顔で荒ぶる海を見つめている。饒速日――その名を呼ぶ唇が、わずかに強張るのを、弥沙は見逃さなかった。
休暇村の広い駐車場に車を止めると、ドアを開けた瞬間に強烈な潮の香りが飛び込んできた。
ツキが真っ先に砂浜へ駆け出していく。
『わあ……! 弥沙、見て! どこまでも青いよ!』
白い砂浜と、どこまでも続く玄界灘の青。
スカートを翻して、じゃばじゃばと水際で遊んでいる。
「あれ? あいつ、尻尾どうしたんだ?」
「腰のとこに紐でくくったのよ。上からスカート穿いてたらそうそう分からないわよ」
クナドはどかっと石段に腰を下ろした。
「あいつ、あっち(神話の世界)へ行った時、ずっとウサギの姿だっただろ? こっちじゃ自在に人の格好をしてやがるのに、何でなんだ?」
「私も不思議で聞いたんだけど、向こうではどうしても駄目だったって言ってたわ」
弥沙は、クナドの問いを潮風と一緒に飲み込み、再び視線を水平線へと向けた。
波打ち際までゆっくりと歩を進めると、ふかふかの白い砂がサンダル越しに足の裏を押し返してくる。
「……ねえ、ハル。さっきの話の続きだけど」
寄せ波の音に声を乗せるように、弥沙は隣に歩むハルへ問いかけた。
ふと見れば、ハルは白く細かな砂の粒に足を取られ、一歩進むごとに「ずぶずぶ」と深く沈み込んでいる。
瑠璃色の瞳を瞬かせながら、柔らかい砂浜に悪戦苦闘するその姿が、どこか危なっかしくて見ていられない。
弥沙は腰をかがめると、温かい陽だまりのようなその体を、ひょいと腕の中に抱き上げた。
ハルは驚いたように、けれどどこか安心したように弥沙の腕に収まり、彼女の肩越しに海を見つめた。
「物部の五姓の一つが安曇氏なんだよね?」
「そう。『五姓をさだむること、神部物部を秘せんがためなり』と記されていたよ」
弥沙の腕のなかで、ハルの答えは潮騒に混じって静かに、けれど涼やかに響いた。
「そりゃあ、五姓だか何だか知らねェが、名前を五つに割ってまで『物部』って看板を隠したかったんだろ。……ますます、きな臭い一族じゃねェか」
クナドが砂を蹴り、冷めた声を出す。彼は波打ち際に背を向け、まるで背後の松林の暗がりに潜む気配を警戒しているようだった。
「……その五姓って、誰のことなの?」
弥沙は、足元まで押し寄せては引いていく白い波紋を見つめて訊ねた。冷たい海水がサンダルの隙間を通り抜け、微かな震えを伝える。
「……安曇氏と、前田氏。それに、草部氏、草賀部氏、丹波氏だね」
ハルがその名を紡ぐたびに、まるで古い封印が一つずつ解かれていくような錯覚を弥沙は覚えた。そのすべてが、高良の山から放たれた血脈の網なのだ。
「その安曇氏が、今から向かう志賀海神社の社家なのね」
弥沙は、水際でスカートの裾を掴みながらはしゃぐツキを見て、ぽつりと独り言ちた。
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*参考・引用文献
・荒木尚ほか編『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社,1972,
※本書における引用の現代語訳および内容解釈は、筆者が原典に鑑み、独自に行ったものである。




