29話 高良大社の二柱の神と、解けない謎
安徳台を吹き抜ける風が、心なしか冷たく感じられた。
ハルが映し出したのは、黄金に輝く『新たな設計図』。
それは、記紀神話という巨大な迷宮を解き明かすための、一筋の光だった。
『神秘書』が示す道筋に沿って、ハルが偽りの壁を切り裂いていく。
そうして紡ぎ出されたのは、かつて誰も見たことのない、真実へと至るための羅針盤である。
「……ハル、解析データを固定して」
「了解。構造を再構築するよ」
ハルの声とともに、ホログラムの構造が音もなく組み替わっていく。
弥沙は、空中に浮かぶ光の線を見つめた。その瞳には、風の止んだ台地で見透かすような、静かで強い意志が宿っている。
「『神秘書』の系譜を解き明かす前に、まずいくつかの『前提』を理解しないといけないの」
「ああん? 前提だあ?」
クナドが退屈そうに鼻を鳴らし、浮遊する光の粒子を無造作に手で払った。
「神様の家系図なんて、元からぐちゃぐちゃなんだぜ。世代飛び越えなんて日常茶飯事だ。今さら驚かねェよ」
『ちょっとクナド、静かにして。……弥沙、続けてちょうだい』
ツキが長い尻尾をピシッとクナドの足に叩きつけて黙らせると、弥沙は小さく頷いて解説を始めた。
「ウガヤフキアエズに住吉五柱の御子がいたよね。その内の女子二柱が、綿津見神三柱の内の二柱だったのよ。綿津見神が女子? って不思議に思ったのよ」
ホログラムに10センチほどの二柱の女神が現れる。
一柱は手に、海が凝縮されたような蒼い輝きの珠を、もう一柱は白い珠を持っていた。その姿が映るたび、台地の上の草がざわりと波のように揺れる。
「綿津見神って、志賀島の志賀海神社の神なのよ。海神、龍宮の龍神。社でも『当地が龍宮』とされてるわ」
鏡から志賀海神社の社殿のホログラムが立ち上がる。
「でね、その神の娘が神話では、豊玉姫と玉依姫。『神秘書』の女子二柱って、この神たちを意味してるのじゃないかな。これは仮定ね」
社の前に立つ、二柱の女神の衣は風にさやさやと揺れていた。
「話は『神秘書』に戻るけど、書には神功皇后が出てきてたよね。高良神を呼びだしたのも彼女、社の神紋もその時の様子だった。つまり、高良大社、高良神には神功皇后の存在は、欠かせないの」
弥沙がそう断言すると、背後の鏡の表面がさざ波立ち、武装した女神が現れ、輪郭が銀色の縁取りを刻む。神功皇后だ。
「でね、こんな一節が神秘書にあったのよ」
弥沙は熱を帯びた指先で、宙に漂う光の塵をなぞった。すると、そこから文字の断片が、まるで古代の呪文がほどけるように浮かび上がってくる。
『三男 月神の垂迹 底筒男尊 皇后、夫妻となりたもう。嫡男 日神の垂迹 表筒男尊は、皇后の御妹豊姫と夫婦となり』
「つまり、ウガヤフキアエズの御子、男子は住吉三神で、三男の月神・高良神は神功皇后と夫婦。長男の日神・表筒男命は皇后の妹の豊姫と夫婦になったということね」
銀色の月を抱いた神の横に、武装した女神、神功皇后が寄り添った。
白い太陽を背負った神の横に、もう一人、女神が現れる。
「随分、神話と違うな」
クナドは、あれこれ言っていた割には興味津々で見ている。
「そう。でもね、前も言ったけど、住吉大社の秘伝書にも『住吉神と神功皇后の間に夫婦の契りがあった』と記されていたのよ」
「……へっ、なるほどな。高良の奴らが勝手に抜かしてる御託じゃねェってわけか……。
表向きの歴史がどうあれ、裏ではきっちり『真実の糸』を繋いでたってことじゃねェか。大した結束力だぜ」
クナドは腕組みをして鼻先で笑ったが、その瞳は黄金の文字から離れようとしない。
「そう。共有されてるの。……この豊姫が何者かも、『神秘書』に記されていたわ」
『皇后の妹二人。一人は宝満大神。一人は河上大明神。これが豊姫』
「宝満大神って、太宰府の宝満宮竈門神社の玉依姫のことよ。神功皇后も祀られているけどね」
鏡から立ち上ったのは、宝満宮竈門神社の奥宮の映像。山頂には見事な上宮がある。
「玉依姫、まさに綿津見神の娘よ。神話では山幸彦、彦穂穂出見命と夫婦になっているわ」
ホログラムの山並みが白く煙り、そこに鎮座する社殿がいっそうの静寂を纏う。
「そして、河上大明神とは佐賀の與止日女神社の豊姫。河上神社とも呼ばれているの」
弥沙が指し示すと、ホログラムの境界線が滲み、もう一柱の女神の姿が、水面に浮かぶ月影のように淡く現れた。
「社では綿津見神の娘の豊玉姫であり、神功皇后の妹ともされるとあるの。
最も、宝満山の神が玉依姫なんだから、その姉妹という與止日女神社の豊姫は、豊玉姫と確定するわ」
弥沙は、ホログラムの中で揺れる女神たちを見つめた。
「つまり、ここにいる女神たちは……バラバラに見えて、実は神功皇后、豊玉姫、玉依姫という、三つの強い光の柱に集約されるのよ」
弥沙の指先が宙を薙ぐと、さざめいていたいくつもの幻影が、互いに引き寄せられるように重なり、三柱の女神の姿へと鮮やかに結実した。
「ん? ってことは與止日女さんも『神秘書』と同じことだってことになるか?」
「そう。クナド! つまり、『神秘書』は独特の伝承を主張してるようで、数多の神社と共有してたんだ」
ハルは嬉しそうに、パタパタと尻尾を振った。
「……おい、待てよ」
クナドが眉をひそめて、光の家系図を覗き込む。
「それじゃ、山幸彦とウガヤはどうなるんだ? 神話じゃアイツらの嫁だろうが。この系図だと、旦那が完全に別人じゃねェか。……めちゃめちゃだな、おい」
「そう。このあり得ない系譜が、『神秘書』を偽書とされてしまう原因なのね。でも……。神話だって矛盾だらけよ……」
弥沙は一度言葉を切り、上を見上げた。梢の隙間から、どこまでも青い空が見える。
「さっき、ウガヤフキアエズの御子の内、女子二柱が綿津見神だと言ったよね。で、神功皇后の妹の二人とは豊玉姫と玉依姫」
「どういうことだ?」
「少なくともこの姉妹は、綿津見神の娘。『神秘書』の系譜では豊玉姫は、ウガヤフキアエズを経て、孫に当たる表筒男命と夫婦になったことにされているの」
「めちゃめちゃだな」
『そうでもないのよ。クナド。これを暗号と見ると、何を示しているのかが分かるわ』
ツキは映像に見惚れながら紡ぐ。
「ハルお願いね」
弥沙が声をかけると、ハルが「待ってました!」と言わんばかりに光を増幅させる。それは、古の真実に繋がる羅針盤。
空中でバラバラに並んでいた神々のアイコンが、弥沙の声に合わせて劇的に動き出した。
「彼女たちの父・綿津見神は……」
ハルの操作で、家系図の頂点にいた『綿津見神』の文字が、黄金の光を放ちながらスライドし、高良神(底筒男)の真上に重なった。
「志賀海神社の祭神だったよね。その社家の安曇氏の始祖が安曇磯良とされているの」
再び、志賀海神社が投影される。その前に浮かぶ、一柱の男神。
「おかしいと思っていたのよ。安曇磯良神って、高良大社の神職さんから聞いた、高良神であり、住吉神なの」
「つまり、安曇磯良、住吉、高良……。そう、これらの男神はすべて同じ存在、高良神の別の姿じゃないのかな? 神話のその間の系図にいる、山幸彦も、ウガヤフキアエズもね」
弥沙の熱を帯びた声が安徳台の斜面を駆け抜け、草むらで虫たちの声がぴたりと止んだ。世界が、たった一つの答えを導き出すその瞬間を待っている。
さらに、三人の女神が、一柱の巨大な女神のシルエットへと吸い込まれるように統合されていく。
「男神が一柱なら、対となる女神もまた、一柱に集約される……。そんな、あり得ないはずの答えが浮かび上がってくるの」
三柱の女神のシルエットが重なり合い、その輪郭が溶け、一つの巨大な、そしてあまりにも神々しい光の輪へと昇華されていく。弥沙の頬を、その光が白く照らし出した。
「神功皇后、豊玉姫、玉依姫……。みんな、『神功皇后』という一人の存在に集約される。このあり得ない系譜が指し示しているのは、彼女たちがみんな、名前という『仮面』を付け替えられた、たった一柱の女神だったという仮説よ」
目の前にあるのは、二柱の男女の神。
「信じられる? バラバラに散らされていたのは、ラベルを書き換えられた、この二柱の神様だった……。それが、千年の間隠されてきた真実じゃないのかな」
弥沙が告げた瞬間、安徳台を騒がせていた風が、まるで何かに圧し殺されたようにぴたりと止まった。
木漏れ日の中、黄金に輝く二柱のシルエットだけが、悠久の孤独から解き放たれたかのように、いっそう鮮烈な光を放っている。
ホログラムの曼荼羅は、今や迷路のような枝葉を捨て、太く輝く一本の『血脈』へと姿を変えていた。
「――ハッ、なるほどな」
クナドが短く吐き捨てた。その口角が、わずかに吊り上がる。
「名を変え、姿を変え、系図のあちこちに自分を『偏在』させて網を張ったってわけか。……とんでもねェ執念を、千年も繋ぎやがって」
『……いいえ、そうするしかなかったのよ』
ツキが悲しげに瞳を細めた。
『そうでもしなければ、あの独裁的な大和の神話の中に、自分の居場所を……愛する人との『証』を残せなかった。……そうでしょう、弥沙?』
弥沙は深く頷いた。そして。
「えぇ。それに、こうしたのはあくまでも後の世の者たち。彼らが、二柱を守るためにそうしたのよ」
弥沙は、自らが引き出した『真実の血脈』を愛おしそうに見つめた。それは、千年の嘘を飲み込み、ようやく息を吹き返したばかりの、細く、けれど力強い光の糸だった。
「……この謎を解くのが、『神部物部』。……源じいさん、そうでしょう?」
弥沙がまっすぐに源じいを見据える。その瞳には、かつての迷いはなかった。
源じいはしばらく黙ってホログラムを見つめていたが、やがてカケスらしからぬ深い溜息をついた。
『……大儀じゃ、弥沙。……安曇磯良、住吉、高良。……名を変え、姿を変えて守り抜いたのは、人ではない『一族』の血の記憶そのものじゃ。……この意味、志賀の海へ行けば嫌でも分かるじゃろうて』
「行くよ。志賀島へ。……ハル、ツキ、クナド。一緒についてきてくれる?」
「もちろんだよ、弥沙! 」
でも、まだ分からないことがある。饒速日命は、本当に高良神だったのか——。
高良神が彼ならば、『神功皇后』とは何か──。
これが岩戸を開けることに繋がるのか。
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも、面白い、続きが気になる!と思っていただけたら、★★★★★、お気軽にコメントもいただけると、執筆の大きな励みになります!
*参考・引用文献
・荒木尚ほか編『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社,1972,
※本書における引用の現代語訳および内容解釈は、筆者が原典に鑑み、独自に行ったものである。




