27話 物部の鏡と神
「……チッ。白ピカの野郎、自分の命を切り刻んで俺たちに配りやがったんだ。戻すにしても、ただ置くだけじゃあ『呼び水』が足りねェんだよ」
クナドは荒々しく髪を掻き揚げると、射抜くような視線を弥沙へと向けた。
「弥沙! あの鏡はどうした。俺たちをここまで引きずり込んだ、あの得体の知れねェ鏡なら、こいつの欠片を繋ぎ直せるんじゃねェのか!」
『……! そうよ、鏡……っ!!』
「──あの物部の鏡なら……!」
二人は弾かれたように叫んだ。弥沙は、泥に汚れながらも必死に背負い続けていたリュックから、鈍色の輝きを掴み出す。
掌に伝わる鏡の冷たさが、熱を帯びた弥沙の指先を貫き、確信へと変わる。
「物部……?」
姫が微かに肩を震わせた。
「そう。那珂川の岩戸で見つけた、不思議な鏡。……私たちは、この鏡が物部の意志を宿した『物部の鏡』なのだと確信して、ここまで導かれてきたの……」
弥沙は自分の言葉に、ふと引っかかりを感じた。
饒速日は『岩戸』と言わなかったか。
姫は、その鏡の鈍い光を食い入るように見つめ、祈るような声を絞り出した。
「弥沙。……『観測者』として、あなたに伝えなければならないことがあるわ。聞いて」
「はい……」
「この子は……」
姫は大きく膨らんだお腹を、慈しむように手を当てて紡いだ。
「私たちに授かった子は、後に『物部の始祖』とされるの」
その一言が、弥沙の脳裏で火花を散らした。
「あ……! そうだ。そもそもここへ来たのは、高良の神が『物部の神』だと知ったから。……物部の神といえば、饒速日命なのだと思って……」
「高良の神……。そう。あなたたちは、ついにその御名にまで辿り着いたのね」
御炊屋姫は、慈しむような手つきで、未だ微動だにしない饒速日命の、氷のように白い手に触れた。
「弥沙、この果てしない想念の海を消し去ることは、容易ではないわ。けれど、どうかその神について、もっと深く探して、どこまでも追って。
……それはあまりに険しくて難しい道だけれど、それこそが、この地獄を終わらせる唯一の近道なのよ」
姫は、弥沙の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「信じて。……その探求の果てに、私たちは必ず、再びまみえることができるから」
それは那珂川の岩戸から弥沙を導いてきた、時を繋ぐ楔――。
弥沙が差し出した『物部の鏡』を饒速日命の胸に置き、その上に五つの勾玉を置く。
すると、勾玉を吸い込むようにして淡く脈打ち始めた。
分かたれていた神の断片が、鏡の深淵を通じて再び一つに溶け合っていく。
昏睡していた饒速日の輪郭が、清冽な白銀の輝きで縁取られた。
死の淵から手繰り寄せられるように、その頬にうっすらと生きた赤みが差す。長く美しい指先が、微かな戦慄きとともに動いた。
「饒速日様……っ!」
弾かれたように名を呼ぶ姫の声に導かれ、彼はゆっくりと、瑠璃色の双眸をひらいた。
「姫……」
「饒速日様……ああ、饒速日様……!」
彼は、夢から覚めたばかりの子供のような、戸惑いを含んだ仕草で姫の頬を包み込んだ。
「これは……弥沙たちが……?」
「ええ。あなたが預けてくださった勾玉を、分け御霊を還したの」
饒速日は、ふうと、魂の重みを噛み締めるように息を吐いた。その目尻から、一筋の光の滴がこぼれ落ちる。
「そうか……。姫……すまない。私は、もはやここまでだ。天の御印は、もう無い……」
自ら神の証を差し出し砕かれた代償。彼はもはや、不滅の神ではいられなかった。
「兄上を……すまなかった。……この手で、我が子を抱きしめたかった……」
震える手で、御炊屋姫のまだ見ぬ命が眠るお腹に、彼はそっと触れた。その掌から、父としての、そして一人の男としての切ない慈しみが溢れ出す。
「……わかっているわ。その苦しみも、その愛おしさも……。あなたは、あなたの心に従って、精一杯に生きたのでしょう?」
姫は饒速日の手に自分の手を重ね、慈しむように微笑んだ。
「……ここは、哀しい想念が作り出した幻。けれど、今こうしてあなたが私に触れている温もりだけは、何よりも確かな真実よ」
姫の言葉に、饒速日ははっとして目を見開いた。
「そうか。君も……知っていたのだね」
「ふふ……。何千年の果て、こうして最後にあなたと心を通わせられたのは、今回が初めてね」
姫は、散りゆく光のような微笑みを浮かべ、夫の手を重ねて握りしめた。
「あなたは私の中に、この子に、永遠の『光』を遺してくださいました。この子は物部の祖として、私たちを歴史に刻み付けるのよ」
饒速日は、愛する妻を力強く抱きしめた。その瞳には、かつての神の威光はなく、ただ愛する者を守り抜こうとする、静謐な「祈り」だけが宿っていた。
彼は、潤んだ瞳で弥沙たちを仰ぐ。
「弥沙、クナド神、ハル、ツキ……」
神の権威ではなく、一人の友としての呼びかけであった。
ハルがその手へ、祈るようにそっと触れる。饒速日はその温もりを慈しむように、優しく撫でた。
「千年以上繰り返してきた想念の海に……初めて、歪みが生じたよ。
弥沙。……君の手で、岩戸を。この偽りの円環を断ち切り、本物の夜明けを連れてきてほしい」
饒速日は、ただ静かに、深く息を吐いた。
「君たちなら、きっと、やり遂げるだろう」
そうして、御炊屋姫を見つめる。
「姫……次にまみえる時は……」
その言葉を最期に、彼は静かに、けれど誇り高くその瞳を閉じた。
御炊屋姫は、冷たくなっていく夫の亡骸を抱きしめたまま、泣かなかった。
その横顔には、幾星霜の時を経てようやく『本当の別れ』を迎えられた、聖母のような静かな決意が満ちていた。
「……弥沙」
姫が、静かに顔を上げた。その瞳は、もう絶望の淵を視てはいない。
「ここは間もなく静かに閉じられるわ。彼が目覚め、本当の最期を迎えたことで、偽りの円環は形を失ったのよ」
姫は、弥沙の手を取り、その掌に『物部の鏡』をそっと戻した。
「さあ、行きなさい。あなたたちは、あなたの時間へ。……私たちは、私たちの歴史へ」
「姫……っ!!」
「泣かないで。私たちは、この子と共に生き、そして語り継がれていく。……あなたが『真実の御名』を追い続ける限り、私たちは独りではないのだから」
姫が、弥沙の背を優しく、けれど力強く押し出す。
瞬間に、館を包んでいた夕刻の光が、眩い白銀の奔流へと変わった。
「──岩戸を、開けて」
最後の声が、風に溶けていく。
視界が白く塗り潰され、身体が重力から解き放たれるような感覚に包まれた。
*
ふいに、肌を撫でる風の温度が変わった。
弥沙がゆっくりと目を開けると、そこには見慣れた高良山の東屋があった。
テーブルの上の鏡が、静かに、何事もなかったように陽光を返している。
……戻ったんだ。
頬を撫でる風は、あの乾いた太古の風ではない。少し湿り気を帯びた、夏の現代の山の匂い。
弥沙は震える手で、自分の肩にかかったスリングを触った。姫が未来を『記憶』して作った、あの温かい布の感触が、確かな重みとしてそこにある。
「……へっ、驚くこたァねェよ」
クナドが、東屋の柱に背を預けたまま、退屈そうに鼻を鳴らした。その視線は、テーブルの上の鏡に向けられている。
「想念の海だろうが、こっちの現世だろうが……『神』が本気で願えば、想念なんてのは容易く実体化しちまう。……そもそも、神そのものが想念の実体化みたいなもんだからな」
クナドは不敵に唇の端を吊り上げ、鏡の縁を指先で弾いた。
「あの鏡が二つの場所にあったんじゃねェ。……鏡が在る場所こそが、俺たちにとっての『現実』だったってだけのことだぜ」
「それって……合わせ鏡、みたいなもの?」
『そうそう。弥沙、なかなかいい所をついてるわ』
ツキが卓の上で小さく身震いし、現実の感触を確かめるように琥珀色の瞳を瞬かせた。
『――知るは地獄、と言ったけれど。地獄の底で「真実」を見つけたのなら、それはもう、ただの地獄ではないわ。……ねぇ、ハル?』
ハルが瑠璃色の瞳を細め、静かに頷く。
四人を包む東屋の空気は、出発前よりもどこか澄んで、けれど確かな決意を孕んで重く沈んでいた。
物語は、ここからまた新しく動き出す。
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