26話 御炊屋姫の独白
──岩戸を開けて。
御炊屋姫はあの日、確かにそう言った。
すべてを予見していたかのような饒速日もまた、同じ言葉を弥沙に遺している。
同じ祈りが二人の口から漏れたのは、単なる偶然なのだろうか。それとも、姫もまた彼と同じ、底知れぬ「時の渦」を視つめていたのか──。
猛り狂っていた春の嵐は、嘘のように鳴りを潜めている。
ナガスネヒコの亡骸を、彼が愛した里の土へと深く還し、弥沙たちは再び、主を失って沈まり返る館へと戻っていた。
陽光はもはや残酷な煌めきを失い、連子の隙間から、力なく床を這っている。
その淡い光の先に、饒速日はいた。
天の印を自ら差し出し、魂を削り取られた神の姿は、あまりに白く、透き通っている。
横たわる彼の胸元は、微かな呼吸を刻むことさえ忘れたかのように静止し、深い昏睡の淵に沈んだままだ。
傍らで、御炊屋姫が饒速日を見つめたまま、一言も発さずに座している。
「姫……」
弥沙が恐る恐る声をかけると、姫はゆっくりと首を巡らせた。
その瞳には、もはや絶望ですらない、深く静かな何かが宿っている。
けれど、聞かなければならない。
「姫、もしかしたら……知っているの?」
弥沙は、傍らに跪き、震える姫の細い手にそっと自分の手を重ねた。
姫の肌は冷たく、けれど弥沙の熱を拒むことはなかった。
彼女は、魂の抜け殻のように白い饒速日から、目を離さぬまま静かに唇を開いた。
「ええ。……初めてあなたとまみえた時、夢で見たと言ったでしょう。あの時の抱っこ紐も……あなたたちの時代の形をなぞって、私が作ったものなのよ」
その言葉に、弥沙は息を呑んだ。
姫は、弥沙たちがこの地へ至る遥か以前から、未来を『記憶』していたのだ。
「これで、何か変わるかもしれない。……そう思うだけで、嬉しかったわ」
姫は、遠き日々をなぞるように一度天を仰いだ。それから、力なく重なった自分の両手へと視線を落とす。
「私もまた、この惨劇を見届けるだけの『観測者』なの。けれど、この想念の海に永き時に囚われて、出口を見失ってしまった……」
姫の声は、寄せては返す波のように静かで、けれど逃れようのない重みを伴って、弥沙の心の深奥へと染み込んでいく。
「繰り返すのよ。この地獄を。兄様が死に、すぐに彼も亡くなって……やり場のない祈りだけが取り残されて、また残酷な幕が上がる。未来永劫、終わることのない円環の中にいたの。……けれど、今回は違ったわ」
姫が顔を上げ、真っ直ぐに弥沙を見返す。
「あなたたちが、来てくれた」
その瞳が、初めて生きた熱を帯びた。
「けれど、結局、何も変えられなかった……。何もできなかったわ」
消え入りそうな弥沙の呟きを遮るように、姫がその手をそっと、けれど拒絶を許さない確かさで包み込んだ。
「弥沙。そしてクナド神、ハル、ツキ……。あなたたちは今、この世界の理を知った」
高窓から漏れる光が、板敷きの床に落ちる影をいっそう長く引き延ばしていく。
館を包む静寂はあまりに深く、遠くで鳴く鳥の声さえ、別の世界の出来事のように遠い。
姫は遥かな間、一人で抱えてきたその『知』の重みを噛み締めるように、一度だけ深く目を閉じた。
「知ったなら、道はもう分かたれている。変えられるのは、あなたたちだけなのよ」
重ねた指に、姫のさらなる力がこもる。
「だからこそ、彼はあなたたちに手出しをさせなかった。……ここで、目の前の死を一つだけ退けたとしても、想念の海が枯れぬ限り、悲劇はまた形を変えて繰り返されるだけだから」
ふいに、吹き放たれた広縁を風が駆け抜け、御簾の裾を揺らした。冷たい空気の渦が、淀んでいた部屋の空気を震わせる。
姫は、弥沙の瞳の奥に宿る『未来の光』をじっと見つめ、祈るように、けれど退路を断つような強さで言葉を継いだ。
「弥沙。……もう、終わりにして」
その凛とした声音に反して、姫の瞳からは、大粒の雫が堰を切ったように溢れ出し、白い頬を伝っていく。
千数百年の孤独な歳月を、たった一人で耐え抜いてきた魂の、それが初めての独白だった。
その細い手首には、饒速日があの日、弥沙たちに授けたものと全く同じ――清冽な輝きを湛えた翡翠の勾玉が結ばれている。
重なり合った二人の掌の中で、姫の勾玉と弥沙の勾玉が、カチリと澄んだ音を立ててぶつかり合った。
静まり返った館に響く、瀬戸物のような、けれどどこか神聖なその余韻に、ツキが黄金の瞳を鋭く光らせた。
『……勾玉。そうか、そういうことだったのね。これは『分け御霊』だわ』
「分け御霊……?」
『ええ、弥沙。彼は自分の一部――神としての証である神器を、あらかじめ私たちに預けていたのよ。それは、彼の「分身」そのもの。……これを彼のもとに還せば……』
「戻せば、彼が目覚めるかもしれないってこと!?」
『やってみる価値はあるわ。さあ、みんな外して! 姫も。それ、彼からもらったものでしょう?』
ツキはてきぱきと指示を出す。
弥沙、クナド、そして姫の手首から。ハルとツキの首元から。
解き放たれた五つの翡翠が、昏睡し続ける饒速日の、氷のように白い胸の上に並べられた。
けれど、時間は残酷に過ぎていく。
五つの輝きは、主を失った石のように沈黙したまま、何の奇跡も起こさない。
「……だめなの?」
弥沙は、隣に立つ男の横顔を仰ぎ見た。この世界の理を知り、神としての強大な力を持つクナドなら、この絶望を打ち破る術を知っているはずだ。
「……クナド、どうにかできないの!?」
彼女の悲痛な叫びに、クナドは苦々しげに顔を歪め、自分の腕に残った呪の痕を見つめた。
*いつも長くなってしまうので、今回は二つに分けました。
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも、面白い、続きが気になる!と思っていただけたら、★★★★★、お気軽にコメントもいただけると、執筆の大きな励みになります!
*参考資料
・坂本太郎ほか校注『日本書紀(一)』岩波書店,1994,
・中村啓信訳注『古事記』,KADOKAWA, 2009,
・前川茂右衛門『先代旧事本紀 一〇巻』[1],寛永21. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2563301, ( 参照2025-06-12)




