24話 祝いの言霊*饒速日命
遠く、三輪山の稜線を朝日がなぞり、里の霧を白く染め上げる頃。
クナドが焚き火の跡を足で消し、「さて、行くか」と弥沙たちを促した。
ツキが時間を進めると告げる。
弥沙がリュックから鏡を取り出し、ハルの前に掲げた。
ハルが前足に力を込めると、鏡の面から青い光の粒子が立ち上った。
虚空に浮かぶ血脈の曼荼羅が、まるで高速回転する歯車のように輝きを増していく。
流れゆく景色。弥沙は、眩しさに目を細めた。
遠くに見える矢田の里が、陽炎のように激しく揺らぎ始める。
桜の淡い色が稲穂の赤銅色へと溶け落ち、季節が猛烈な速さで書き換えられていく——。
「……っ!!」
鋭い吸気音が響くと同時に、荒れ狂っていた光の曼荼羅が、軋むような音を立ててピタリと停止した。
慣性に引きずられるように、弥沙の視界がぐらりと揺れる。
クナドとツキが、驚いたようにハルを振り返った。
弥沙の胸元、スリングの縁から身を乗り出し、鏡に置いていた前足を小刻みに震わせていた。ハルが縋るような声で訴える。
「……弥沙。僕、まだ行きたくない。……あの白い人。あんなに怖かったのに、今は、彼が一人でどこか遠い場所へ行ってしまうような気がして……。放っておけないんだ」
ハルの瑠璃色の瞳には、演算データには現れない、名前のない切なさが宿っていた。
ハルのその言葉は、弥沙の胸の奥に澱のように溜まっていた予感、そのもの。
そう、弥沙自身も、ずっと気にかかっていたのだ。
ここで、彼らが笑い、語り合う『今』を、この目に焼き付けるべきではないのか。
例え、想念の世界であっても、あの人は……
──「お前たちは、誰だ」と言った、あの透き通った拒絶。
それは、想念の台本をなぞるだけの『人形』が発する言葉ではない。
彼もまた、この残酷な物語の中に投げ出された、孤独な『個』の魂なのではないか。
*
踵を返し、駆け下りるようにして里へ戻った弥沙たちを待っていたのは、半年を経て、見違えるほど立派になった矢田の里だった。
里を囲む湿地には、穂を垂らした赤米が夕陽に照らされ、まるで大地が静かに燃えているかのように赤く輝いている。
茅葺の竪穴住居が立ち並ぶ。後に聞けば、船から降りた者たちも共に暮らしているのだという。
「……あら、弥沙様! クナド様!」
声をかけてきたのは、以前の幼さは消え、一国の主の妻としての気品を纏った御炊屋姫だった。
「良い時にお戻りくださいました。……あと三日で、私と饒速日様の祝言にございます。どうか、今度こそ共にお祝いしてくださいませ」
幸せそうに微笑む彼女の背後で、饒速日命が静かに佇んでいた。
彼は、数か月ぶりに会う弥沙たちを驚くふうもなく、ただ、あの日と変わらぬ透き通った声で告げる。
「……おかえり。……待っていたよ」
弥沙たち一行は、饒速日命や御炊屋姫、長脛彦たちと同じ卓を囲んだ。
笑い声が響き、祝杯の酒が注がれる。
「弥沙……」
ハルがスリングの中から、心細そうな声を出す。
――やっぱり、まだ怖いの?
弥沙は、胸元の小さな震えを感じて、ハルの背をそっとさすった。
景色が黄金色に書き換えられたとはいえ、弥沙たちにとっては、あの凍りつくような邂逅からまだそれほど時間は経っていないのだ。
ハルにとって饒速日命は、今もなお本能が警鐘を鳴らすような『畏怖』の対象のままなのだろうか。
「丘の方に行こうか。……少し、外の風に当たろう?」
弥沙が優しく声をかける。
すると、ハルは布から這い出し、弥沙の予想を裏切るように、迷うことなく饒速日命の方へと足を進めた。
彼は賑やかな談笑をふっと止め、ハルを見つめる。
「ハル、おいで」
白き衣の裾へ寄っていく小さな体を、彼は壊れ物を扱うように抱き上げた。
その指先が、ハルの柔らかな毛並みをそっとなぞる。
「……お前たちは、優しいな。……去りゆく時を惜しんでくれるのは、この世界で、お前たちだけだ」
その言葉は、宴の喧騒を通り抜けて、弥沙の耳元にだけ冷たく響いた。
去りゆく時――。
彼は、この祝祭『終わり』へ向かう序曲であることを、やはり知っているのだ。
豪快に笑う長脛彦が、饒速日命の肩を叩く。
「がはは! 猫様まで懐かせるとは、さすが我が義弟よ。姫が身籠られたのだ。春には赤子が誕生する!……弥沙殿、これでもう、我らは一つの家族のようなものですな!」
饒速日命は静かにハルの頭を撫でていた。その指先は優しく、ハルもまた、うっとりと目を細めて彼に身を預けている。
ハルのあの恐怖心は何だったのだろうか。この男に対する畏怖か。
御炊屋姫は、そんなハルを見て微笑んでいる。
弥沙は、ふと思い出した。饒速日命はその子の顔を見られないのではなかったか。逃れようのない宿命の影が、全身を射すくめた。
こんなに温かな時間を、無くしてはいけない。
……もしも彼が、この温もりごとすべてを『葬る』つもりなら。
どうにか、回避する方法はないのか。
宴会の席を抜け出し、ツキと話す。
「ツキ……」
『弥沙、あなたも違和感に気付いたのではなくて?』
二人の瞳が絡まった。
『あの男の周りだけ、想念の密度が違うわ』
『……もしかすると、彼はただの『再現体』じゃない。私たちと同じように、外側の意志を持ってこの地獄を眺めている『観測者』なのかもしれないわ。……確かめなきゃ』
宴が夜の深淵へと沈み、人々がまどろみ始めた。
眠りに落ちた里の静寂を縫うように、饒速日命を追って、弥沙はツキと共に銀色の丘へと向かった。
月光の下、饒速日命が一人佇んでいる。
「やはり、君たちは来ると思っていたよ」
白き衣を纏った神はゆっくりと振り返った。月光を弾く衣が、夜風にさらさらと鳴った。
二人は顔を見合わせた。
──間違いない。
「……やめることは、できないの?」
彼は答えなかった。その瞳には、怒りも悲しみもなく、ただ鏡のような静寂だけが宿っている。
「やめる、か。……私はこの想念の世界を幾度も行き来し、その度に、彼を……。
私の大切な義兄を、何度もこの手で葬ってきた」
凪いだ海のような声が、弥沙の胸を鋭く刺す。
「人々の想念が『饒速日は義兄を殺して降伏した』と固く信じている限り、私はこの円環から逃れることはできない」
弥沙は腕の中のツキを抱きしめた。
「……私もまた、彼らの想いに囚われた、哀れな人形に過ぎぬのかもしれぬな」
ふっと、自嘲気味に微笑むその姿は、あまりに美しく、そして残酷だった。
「……人形、だと? ふざけるな、白ピカ。お前は自分の意志でここに居るんだろうが」
クナドが月の光の下へ、のっそりと姿を現した。
ニギハヤヒは驚くふうもなく、その透き通った瞳をクナドへと向ける。
「……クナド。……君こそ、己が何者であるか、本当に理解しているのかい?
……私たちは、人々の想念が作り出した、美しき『まがい物』に過ぎない。
何千年、何万年と、この想念の海で同じ悲劇を繰り返す……」
その言葉が夜風に消える前に、クナドの喉が低く鳴った。
「……へっ。まがい物だろうが何だろうが、俺は俺のやりたいように動く。それを邪魔する奴を噛み千切る……それだけだ」
「君が弥沙たちを導くその衝動……『クナド』という名を与えられ、道祖神として祀り上げられた人々の想念が、君にその役を演じさせているとは思わないかい?
……君という存在そのものが、想念の顕れ。君が本来持っていたはずの、その真名さえ……もはや、誰に呼ばれることもない。
……私たちは、同じ檻の中に閉じ込められた、永遠の囚われ人なのだよ」
クナドの体が、一瞬、強張った。
いつもは不敵に笑う彼が、反論の言葉を飲み込む。
月明かりに照らされて、輝く彼は、月の神の様。
その顔は白く透き通り、儚げだ。
「だが、これから先は違う」
彼は顔を上げ、弥沙の目をまっすぐ見据えた。
「君が岩戸を開ける」
不意に放たれた言霊は、弥沙の理解を超えていた。ただ、その響きだけが耳の奥で、古の鈴のように鳴り響く。
「……どういう、こと?」
饒速日命は、答えぬ。
「だが、今はまだその時ではない」
その瞳が、弥沙の魂の奥底まで貫いた。
「これから起きることを、お前たちは知っている。……だからこそ、頼む」
月光に透けるまつ毛が、わずかに震えた。
「手を出すな」
弥沙は、息を呑んだ。
「たとえ、何があっても?」
「……たとえ、何があっても」
一陣の風が渡り、白き衣が闇の中で寂た音を立てた。
その眼差しは、懇願でも命令でもない。千年という劫を生き抜いた者だけが湛える、果てなき沈黙。
「もう一つ、聞きたいの。ハルはあなたにとって何なの?」
「その答えは、禁忌だよ」
そう。優しく微笑んだ。
*
三日後の朝。大和の里は、薄衣を羽織ったような乳白色の光に包まれていた。
御炊屋姫の豊かな黒髪に、白い花が一輪、挿されている。
ただそれだけで、この泥濘のような世が、浄土に変わったように見えた。
儀式は、清々しいほどに簡素であった。
産霊の火を囲み、二人が向かい合う。
その静寂の底には、幾千年の歳月が積もらせた、重い「運命」の響きがあった。
*
儀式を終えた後、一行はニギハヤヒと対面した。
その瞳は、もはや現世の光を映してはいない。ただ、遠い、遠い、約束の地を見据えているかのようだった。
「その日、見届けに来ます」
弥沙が涙ぐみながら告げる。
彼は儚く微笑んで、スリングから頭を出していたハルをひと撫でした。
「頼む。これが最後だ」
その一言は、祈りのようでもあり、永い眠りにつく直前の、安らかな吐息のようでもあった。
矢田の裾野を走る風が、彼の白き衣を、そして弥沙の髪を激しく揺らす。
弥沙は、風に翻る彼の白き衣を、ただ黙って見つめ返すことしかできなかった。
返すべき言葉は、もはやこの風の中にしか残されていない。
*
山桜の淡き花びらが、若葉の銅色を透かして、霞のように山裾を染め上げていた。
一陣の風に誘われ、それは雪よりも潔く、神の足元へと散り敷いていく……
花びらが、死を急ぐかのように里を白く染め上げる。
その淡い雪のような色彩の中で、御炊屋姫のすっかり膨らんだお腹だけが、唯一の『生』の灯火のように温かかった。
……けれど、その温もりを、春の嵐が奪おうとしている。
ニギハヤヒは、散りゆく花を見上げ、ただ静かに、その時を待っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも、面白い、続きが気になる!と思っていただけたら、★★★★★、お気軽にコメントもいただけると、執筆の大きな励みになります!
*参考資料
・坂本太郎ほか校注『日本書紀(一)』岩波書店,1994,
・中村啓信訳注『古事記』,KADOKAWA, 2009,
・前川茂右衛門『先代旧事本紀 一〇巻』[1],寛永21. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2563301, ( 参照2025-06-12)




