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23話 饒速日命と、白き天鳥船

──虚空見(そらみ)(やまと)の国。

 

 それは神話において、確かに、空を飛ぶ船として記されている。


<< あまのとりふね >>


 ぶおん。ぶおん。


 地を這うようなその響きが、大気を、そして弥沙の鼓膜を震わせ始めた。

 

 弥沙の足が、見えない(くさび)で地面に縫い付けられた。

 知っている。この光景を、私は知っている。

 幾度となく繰り返される夢の中で、里の者を逃がさねばと、喉を枯らして叫んでいたはずだ。


 あれは、御炊屋姫が見た予知夢だったのだろうか。時を越えて、私は彼女の恐怖を共有してしまったのだろうか。

 けれど――その夢の先には、おぞましい『異形』がいた。記紀の神話には、そんな存在はどこにも記されていないはずだ。


「弥沙」


 ハルの声が、耳元で静かに、けれど確かに響いた。

「……しっかり見届けるんだ。これは、神話が生まれる瞬間なんだから」


 その言葉が、強張(こわば)っていた全身に沁み込んでいく。弥沙は腕の中のハルを、壊れ物を扱うように抱きしめた。

 一度、深く息を吸う。


 肺に流れ込む空気は、二年前と変わらず、春の陽光に温められた土の匂いがした。けれど、今の弥沙にはそれが、嵐の前の静けさを孕んだ、ひどく危うい甘さに感じられた。


 生駒山の稜線が、夕陽を背に受けて、白銀の火を噴いたように輝いた。


 そして――山を越えて、滑るようにして、それは現れる。


 白い。

 

 巨大な白い船が、天空を滑っている。


 音もなく、(ゆる)やかに。あまりに悠然と。

 それなのに、一瞬にして視界のすべてを奪い去るほどに、それは巨大だった。


 帆が、落日の光を鋭く弾いて白光を放つ。船底が、茜色の空を静かに押し分け、大和の懐へと分け入ってくる。


 遠く、地の底を這うような重低音が、大気を震わせ始めた。それは音というより、世界の骨組みが軋むような、重々しい響きだった。


 夢の中では、ただ恐怖に追い立てられるだけだった。逃げなければ、隠れなければ、愛する者たちを守らなければ――。


 けれど、今は違う。

 弥沙は、その白き巨体から、瞬きすることさえ忘れて目を奪われていた。

 

 ……綺麗。


天鳥船(あまのとりふね)だ」


 クナドが、低く、重みのある声で言った。同じように空を行く船を見上げてる。

 いつもの不敵な笑みは消え、その横顔は、遠き神代の記憶をなぞるように厳かだった。


「あれに乗って、奴は来る。虚空見(そらみ)大和(やまと)の国へ――(あめ)の向こうから、降りてくるんだ」


 白き船が、夕闇の迫る大和へと、ゆっくりと高度を下げていく。


──そして、天鳥船が、矢田の里に下りていった。御炊屋姫の里に。


 船が里の境界を越えた瞬間、大気が黄金色の粉を撒いたように発光した。

 巨体は音もなく広場の上空で静止し、船首から放たれた目も眩むような光の綱が、大和の古き巨木に絡みつく。


 それは物理的な(なわ)というより、空間そのものを繋ぎ止める「(ことわり)」の鎖に見えた。


 どよめきが里を包み、人々が平伏する中、白い船体はゆっくりと降下を止める。

 けれど、それは大和の土を直接踏むことはなかった。


 草の葉一枚押し潰すことなく、地表からわずか数寸の虚空で、船はぴたりと静止している。まるでこの現し世の重力さえ、その清冽な「白」を汚すことは許されないと言わんばかりに。


 ハッチが静かに開き、中から溢れ出したのは、この世のものとは思えないほど清冽な風だった。


 そこから、一人の男が歩み出る。

 夕闇を切り裂くような白き衣を纏い、船から地へと踏み下ろされたその足だけが、初めてこの地の土を、確かな重みを持って踏みしめた。


 弥沙たちは、里の喧騒から少し離れた木陰で、その光景を息を殺して見守っていた。

 けれど、広場に降り立ったはずの白い影が、ふっと陽炎のように揺れた――と思った、その瞬間。


 クナドが低く舌打ちした。


「……やっぱりな。あいつには見える。(ことわり)も、全部飛び越えてきやがる」


「え?」


 弥沙が問い返そうとしたときには、もう遅かった。

 誰もいなかったはずの場所に、いつの間にか一人の男が立っていた。


 瞬き一つする間もなかった。

 広場にいたはずの彼が、今は弥沙たちのわずか三歩手前で、大和の夜風をその身に纏ったまま静かに佇んでいる。


 あまりに自然な、けれど道理を無視したその歩みに、弥沙の思考は凍りついた。

 男はゆっくりと、穏やかに唇を分かつ。


「……お前たちは、どこから来た」


 凪いだ海のように、底の見えない透き通った声だった。


 その瞳が弥沙を射抜いた瞬間、彼女は――ようやく、震えるほど深く息を呑んだ。

 この人……同じだ。夢の中で見た人と、全く同じ顔……。


 そこから溢れ出しているのは、未来の果てまでをも見通すような、深く静謐な慈しみだ。

 幾度も夢でなぞってきたその気配が、今、目の前で確かな体温を伴って弥沙を包み込んでいる。


 その場の誰も、一言の言葉すら発することができずに立ち尽くしていた。


 張り詰めた沈黙を破ったのは、彼が弥沙の胸元――スリングの膨らみに目を落とした、その時だった。


「ハル。……久しぶりだな。息災であったか」


 弥沙の腕の中で、ハルが石のように硬直するのが伝わってきた。


 彼はそれ以上追及することなく、ふっと春の陽だまりのように微笑むと、光を引くように里の奥へと消えていった。 


「僕……知らない……。弥沙、怖かったぁ」


 クナドは腕を組んだまま、珍しく黙っていた。


 弥沙は、去りゆく男の背中を見つめ、不意にこみ上げる懐かしさに胸を突かれた。この夢を、他人の予感として突き放してきたはずなのに。魂の奥底で、何かがこの男を知っていると叫んでいる。


 それは、逃れようのない宿命の鎖が、再び彼女を絡め取った合図だった。


          *


 饒速日命が里の境界を越えたとき、御炊屋姫が弾かれたように彼に駆け寄った。

 その瞳には、かつて弥沙たちを迎えた時のような、けれどそれよりもずっと深い、魂の震えが宿っている。


「……お待ちしておりました」


 彼女は、彼が天から降臨することを、鏡のような夢の中で幾度も見ていたのだろう。

 叩頭(こうとう)する姫を見つめ、饒速日命が初めて、ふわりと相好を崩した。


――その笑顔。


 弥沙の胸が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。

 この純粋な出会いが、後にどんな悲劇へと繋がるのか。神話の残酷さを知っているのは、自分たちだけなのだ。

 

          *


 里からは少し離れた、見晴らしの良い丘の上に、一行は身を寄せた。

 ハルが饒速日命の気配に震えていたため、里の喧騒を避けることにしたのだ。


 クナドが、草の上に寝転がって空を見上げている。

 彼が起こした焚火の炎が、パチパチとはぜて夜空へ吸い込まれていく。


「……なあ、弥沙」

「何?」


「お前、あの男の顔を見た時——泣きそうになってたぞ」


 弥沙は何も言わなかった。

 クナドはそれ以上追わない。ただ、星の多い夜空を、黙って見上げている。


 ハルが、弥沙の膝の上で静かに紡いだ。


「神話は、変えられない。僕たちがここにいても——起きることは、起きる」

「……分かってる」


 弥沙は膝を抱えた。

「分かってても、見ていられないかもしれない」

 

 里から、笑い声が聞こえてくる。長脛彦(ながすねひこ)の豪快な笑い声。御炊屋姫の鈴のような声。饒速日命の、清冽(せいれつ)で穏やかな響き。


 みんな、知らない。

 この幸せが、あとどれくらい続くか。


「ツキ」

 弥沙は、クナドの上に座っているウサギに声をかけた。


『……なに?』


「止められないの? 神様でも」


 ツキは耳をふるるっ、と震わせる。


『この世界だけを変えても、意味がないのよ。ここは神話に対する想念の世界。……人の想念というのは、そう簡単には揺らがないものだから。これは、過去でも何でもないの』


 弥沙は顔を上げ、降り注ぐような星の海に視線を漂わせた。

 広大な銀河の輝きが、答えを拒むように冷たく、けれど美しく彼女を照らしている。


「人の想念を変えると、彼らの未来は変わる?」


『……これが神事(かみごと)、……神から授けられた役割ならば、神話そのものを書き換えてしまうかもしれないけれど』


「……そっか」


 弥沙の目に、じわりと熱が(にじ)む。


「泣くなよ」


 クナドが、寝転がったまま声をかけた。


「まだ何も起きてねェ」

「……うん」


 けれど弥沙は、里の灯りから目が離せない。


『神にはそれぞれ果たすべき役割がある。その織り目があるからこそ、世界は形を保っていられるのよ』


「でも、見守るだけなんて。こんな理不尽な役割――」


『理不尽でも、それがその神の道。クナドだって、道の神として方向を示すことはできても、その道を歩む者の運命にまでは、手を出せないのだから』


 クナドは草の上で静かに目を閉じ、沈黙を守る。


『もし他の神が手を出せば、神の役割ごと世界が歪むわ。一つが歪めば、繋がる全てが狂う。人の想念も、祈りも、伝承も――全部。歪みきった果てに何が起きるか、それは誰にも分からないわ』


「……へっ、そんな歪み、ハナから込みかもしれねェぜ」


 クナドが星の海を睨むように呟いた。焚火の爆ぜる音が、彼の低い声を夜闇に溶かしていく。


「こんな偽り、ぶっ壊してやれってな」


「偽り……?」


 弥沙はハッとしてクナドを見た。

 けれど、彼はそれ以上語らず、ただ不敵な笑みを口元に浮かべて、静かに目を閉じた。

 

 彼女はスリングの中でようやく寝息を立て始めたハルの頭を、慈しむように撫でた。

 なぜ、あの神はハルを知っていたのか。なぜ、ハルはあんなに怯えたのか。


 彼は、空を飛ぶ天鳥船でやって来た。

 けれど、これは神話の世界。現実ではない。


 ハルは、いったい何なのだろう。


 弥沙も、あの男の顔を見て『懐かしい』と感じていた。

 何度もこの夢を見続けてきたからだ――そう、自分に言い聞かせたかった。


 そう思わなければ、自分の心までが、この神話の奔流(ほんりゅう)に呑み込まれてしまいそうで。



「……弥沙様! クナド様!」


 闇の向こうから、鈴を転がすような声が近づいてくる。

 御炊屋姫が、自身も荷物を抱え、二人の供の者にも重そうな籠を持たせて、夜の斜面を軽やかに駆けてきた。


「今宵は里を挙げての祝いにございます。皆さま方にも、美味しいお食事とお酒を持ってまいりました」


 彼女の顔には、もう先ほどの『畏れ』はない。ただ、最愛の者に巡り会えた幸福な少女の顔があるだけだった。


「これ、里で一番良い酒です。兄上も、ぜひ神様方に召し上がってほしいと。……再び、相まみえましたことをお喜び申し上げます」


――弥沙たちが彼女と別れてから、まだ数時間ほどしか経っていない。

 だというのに、目の前に立つ彼女は、あの幼かった少女ではない。十六ほどの、凛とした美しさを湛えた立派な女性へと成長していた。


「……ああ、ありがとう。……でも、俺様たちはこれを見届けに来ただけだ」


 クナドが焚火に照らされながら、不敵に、けれどどこか寂しげに笑った。その瞳には、移ろいゆく人の時を幾度も見てきた、道の神特有の諦念(ていねん)が滲んでいた。


「明日にはまた、旅に出る。……だが、また会おう。道が繋がっている限り、な」


 弥沙は、美しく成長した姫と、その背後に広がる里の灯りを見つめた。

 神話は加速している。自分たちが一息つく間も、この残酷で美しい世界は、結末へと向かってひた走っているのだ。







*************


お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも、面白い、続きが気になる!と思っていただけたら、★★★★★、お気軽にコメントもいただけると、執筆の大きな励みになります!



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