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22話 奈良湖と御炊屋姫

 鏡の底から這い出した風に巻かれ、気がつくと一行は湖のほとりに立っていた。


 満々と水を湛える巨大な湖が、眼前に広がっている。頬を撫でる風は、春の陽光を浴びて柔らかい。

 肺に吸い込む空気は、温められた土が放つ濃密で甘い匂いを(はら)んで、鼻を突く。


 三輪山が、すぐ背後にそびえ、その裾野には山桜の淡い色が点々と混じっていた。

 耳成山は南西にその端正な姿を横たえ、畝傍の山もさらにその奥に控えている。


 金剛、葛城、二上の連峰は、その稜線がまるで筆でなぞったように滑らかで、それでいて触れれば指が切れそうなほどに鮮やかだ。

 

 間違いない。ここは、奈良だ。



「……実体化してる? ボクのホログラムじゃない? 今までと、解像度が違いすぎるよ……」


 最初に声を上げたのは白猫(ハル)だった。その瑠璃色の瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。


 クナドも自分の腕を強く掴み、野性味あふれる笑みを浮かべた。

「へっ、この泥の匂い、本物じゃねェか」


『鏡が覚醒したゆえでしょうか……。想念の世界なれば、これは過去への不当な干渉ではありませぬ』

 ウサギは耳をふるるっと震わせ、油断なく辺りを見回す。


「おい! しっかりしろ、弥沙!」


 うずくまった彼女の肩を、クナドが乱暴に、けれど温かく抱き寄せる。

 弥沙は、かつて夢の中で見た、逃れられぬ運命を前に立ち尽くす一人の(ひと)がよぎった。


「これ、私の夢……奈良に湖があって……怪物が来て、みんなが……」


 弥沙は、夢の中の異形を思い出し、その場に崩れ落ちそうになった。


「これは神話の世界だって! 夢の続きじゃない。現実でもない。過去でもない」

 体を支えたクナドをしばし見つめる。


「……分かった。ありがとう、クナド」


「弥沙の想念が、この空間そのものを上書きしたんだね」

 ハルが泥で汚れ始めた足元を気にしながら呟いた。


「ハル、後で洗おうか」

 弥沙が微笑み、泥が付いたままの白猫を抱き上げる。

 その小さな体は、今はもう光の粒子ではなく、確かな重みを持って弥沙の腕の中に収まった。


「……やはり、夢に見た通り。……いえ、それ以上に眩しいお方たち」


 鈴を転がすような声に、一行は振り向く。

 そこには十四ばかりの娘が立っていた。朝露に濡れた花のような、瑞々しい生命力を放つ少女。背中には体に似合わない大きな籠を背負っている。

 その瞳は、驚きよりも深い敬意を湛えて、弥沙たちを静かに射抜いていた。


「……(あめ)より降りられた、尊き方々でいらっしゃいますか?」


 弥沙がその圧倒的な透明感に言葉を失い、「えっと……」と言い淀んだ。


「へっ、見ての通りだ。――俺らは神だ!」


 クナドが胸を張り、太陽を背にして不敵に笑う。

 その堂々たる体躯と白い衣褲(きぬはかま)に首から連なる勾玉、腕の中の喋る猫、そして肩に乗る白きウサギ。この神代の世界において、彼らを『異界の神』と信じるに足る証拠は、あまりに(そろ)いすぎていた。

 

『もしや、そなたは、御炊屋姫(みかしきやひめ)かや』


 クナドの肩に収まったウサギが改まって話しかける。


「まあ! さすが天上界の方々! (わたくし)の名前もご存じとは。……はい、みかしきやにございます」


 彼女は、ただそこにいるだけで辺りが明るむような笑みを浮かべた。


 ――この先、彼女を待ち受ける運命を知っているからこそ。

 弥沙の胸の奥で、鋭いトゲが刺さったような痛みが走る。


『うちらは神ゆえ、この世界に干渉してはならぬという(おきて)がある。ただ、そなたらを見守ることしかできぬ。露ほども期待なさらぬよう』

 

 ウサギの凛とした宣告に、少女は一瞬だけ首を傾げたが、すぐに深く(こうべ)を垂れた。


「もちろんでございます。……それでも、この地に長きに渡り、ご滞在いただければと望み(たてまつ)ります」


──御炊屋姫。

 饒速日命(ニギハヤヒ)の最愛の后となり、そして、奪われる者。


          *


 一行を里へと案内します、と御炊屋姫はふんわりと微笑んだ。


「ここから北の岸を回り、半日ほど歩きます。……けれどその前に、お供の方々のお体を清めましょう」


 姫は湖の波打ち際へ向かうと、持参していた布を冷たい水に浸した。

 彼女がその濡れた布をそっと両手で包み込んだ、その瞬間。

 微かな光が(てのひら)から溢れ、固く絞られた布からは、冬の陽だまりのような柔らかな湯気が立ち上った。


「……冷たくては、驚いてしまいますものね」


 慈しむような手つきで、温かな布がハルとツキの汚れを優しく拭い去っていく。すべて、彼女が夢で「必要だ」と見て用意していたものだった。


 生乾きで毛並みがボサボサになったハルを弥沙が抱き上げると、姫がすうっと近づいてきた。


「……乾かしましょうね」


 姫が小さな掌をハルたちに近づけた、その瞬間。

 そこから、暖かな風がふわりと巻き起こった。

 風はハルの白い毛並みを優しく()かし、湿り気を一瞬にしてさらっていく。


 すっかり白く、ふわふわになったハルを抱き直した弥沙は、目の前の少女の『力』に、改めて息を呑んだ。


「さて……ハルたちを連れて、その距離を歩くのは大変ね」

 弥沙が少し困ったように腕の中の白猫を見ると、御炊屋姫は待っていましたとばかりに、背負っていた籠から柔らかな布を取り出した。


「これをお使いください。お供の方々を、お体に近いところでお運びできる帯にございます」


 それは、赤子を抱くための太い筒状の帯だった。御炊屋姫の手ずから、弥沙とクナドの肩にたすき掛けにされたその布は、不思議なほど肌に馴染む。


 ハルとツキは、それぞれ弥沙たちの胸元で、その布のゆりかごにすっぽりと収まった。歩き出す前から伝わる確かな体温と、守られている安心感。これなら、長い道中も乗り越えられそうだった。 


「……少し、冷えますね」


 御炊屋姫は、弥沙の夏服を見て、薄く柔らかな長い布を取り出した。それを弥沙の肩からふわりと羽織らせ、リュックの肩紐をその上から通す。


「これなら、歩いても落ちませんよ」


 姫の手際の良さに、弥沙は思わず苦笑した。夢で見ていたとはいえ、こんな細かいところまで——。


 姫は隣に立つクナドをそっと見上げる。彼に布を差し出す様子はなかった。

 ——神であれば、衣服の一つ、意志だけで整えられる。姫はそれを、はじめから知っていたのだ。


 一行は北へと歩き出す。


「……間違いない。真東に竜王山、三輪山は少し南、耳成を基点にあの角度で金剛山が重なるのは、三輪の北、海知(かいち)のあたりだわ。夢の最初は、いつもこの場所なの」


 弥沙は、山歩きで染み付いた『山体同定』の感覚を頼りに現在地を弾き出した。


「アーカイブと照合したよ。ここは未来では海知町、古くは『海智』と書かれた場所だ。

……それは、この足元まで迫っている湖を、人々が智恵で御そうとした記憶に違いないよ。数千年後の地名にまで、その祈りが刻まれているんだね」


 ハルがスリングから顔を出し、瑠璃色の瞳に広大な湖面を映す


「僕たちが今歩いているのは、未来の国道169号線――上三ツ道の原型だ。24号線が走る盆地の中央は、今は完全に水の下だよ」


 弥沙は、西側に広がる広大な『海智』の青き深淵を見下ろした。


 肺に流れ込む空気はどこまでも澄み渡り、自分が今、歴史という巨大な生き物の『内側』を歩いているのだという戦慄(せんりつ)が、弥沙の背を駆け抜けた。


 風が吹き抜けるたび、湖のさざなみが銀砂(ぎんしゃ)を撒いたように煌めく。

 その向こうに見える二上山の双耳峰(そうじほう)は、まるで巨大な鳥が翼を休めているかのよう。


 幼いころ、幾度となく見上げたあの懐かしい山々。

 けれど、現代の建物が一切消え去ったこの世界では、稜線の重なりが鮮明で、まるで巨大な屏風絵を広げたような奥行きを(たた)えている。


 弥沙もクナドも山歩きには慣れていたが、これほどの距離を、こんな年若き娘が一人で迎えに来るとは。弥沙が思わず尋ねると、彼女は誇らしげに目を細めた。


「夢で見たのです。貴方様方が現れるのを。……ですから、お迎えに上がりました」


「それで、驚きもせずに受け入れてくれたのね……」

 弥沙は感心すると同時に、彼女が差し出した『柔らかな布』に目を落とす。


 歩くたびに伝わる体温と適度な揺れが心地よいのか、二匹は健やかな寝息を立てて夢の中だ。

 さすがにこの距離を、小さな足で歩かせるのは忍びない。この『スリング』は、何よりの贈り物だった。


 弥沙は、周囲の山の形から現在の地図を推測した。


「三輪から天理……。ここまでざっと10キロ強かな? これ、神話には湖、出てこないよね?」


「そうだね。情景は君が夢で見たものが具現化しているんだろう」


 ハルが布の中から顔を出し、(さか)しげに同意する。


 海知の地から、現代でいう所の京終(きょうばて)まで。

 御炊屋姫は、眼下に広がる広大な湿原を避けるように、大きく迂回して標高を保った乾いた道筋を進んでいく。


 そこから西へと舵を切る。未来では薬師寺の甍が建ち並ぶはずの地も、今はただ葦の茂る広大な湿原だ。その縁を渡る風を受けながら、さらに数キロ。


 全行程約二十三キロ。

 現代の足なら一日がかりの強行軍だが、御炊屋姫の導く「神の道」は不思議と足取りが軽く、気がつけば陽は西の空を黄金色に染め始めていた。


 夕闇が迫る直前、ようやく一行の視界に、こんもりと繁った森と、そこを守護する彼らの拠点が浮かび上がった。


「……ここは矢田(やた)だね」


 矢田丘陵。かつて旅行で訪れた時は、穏やかな街並みを見下ろす高台だった。

 けれど、今、弥沙の眼下に広がっているのは、底の知れぬ紺碧の水を湛えた広大な湖だ。

 標高の低い盆地を飲み込むその水面から、この丘だけが聖域のように突き出している。


 懐かしくも今は見知らぬ、太古の風景。

 そこが、饒速日命の降臨を待つ――聖域の()(かご)だった。 


           *    

    

「兄上、天からのお客様ですよ!」


 里に着いたのは、陽が山端に沈みかけ、空が濃い紫に染まり始めた頃だった。

 奥から現れたのは、岩のようにがっしりとした体躯の男――。

 満面の笑みで迎え入れてくれた。事情は妹から聞いていたという。

 

──この人が、御炊屋姫の兄、長脛彦(ながすねひこ)


 後に大和の覇者として、神武軍を最後まで苦しめることになる『強者』の、これがまだ若き日の姿。

 奈良湖の北西の広範囲を治める、後に登美族と呼ばれる者たちだ。


 一行は、里を挙げた歓待を受けた。並べられたのは、滋味溢れる山の幸や川の幸。長脛彦は豪快に笑いながら、自慢の妹について語る。


「うちには姫がおりますゆえ、この辺りの者は誰も手出しをいたしませぬ。……里の者は『神の娘』と呼んで敬っておりますな。あ、こりゃあ、本物の神様方の前で失礼いたしました!」


 男は豪快に笑う。彼の話では、御炊屋姫は嵐を予言し、里の者の傷を癒やす力を持つという。弥沙たちは、湖のほとりでその力の一端を目の当たりにした。


 しかし、記紀ではそんな設定はなかったはず。 


 (かも)した酒を豪快に飲み、すっかり気分を良くしたクナドは「まだまだ飲めるぞ~」と言いながら寝てしまった。


 神話の世界を覗いたのは、これで二度目だった。一度目は現人神社の時。

 記紀の……本の中に入るのかとクナドやツキに聞けば、少し違うという。

 大勢が作り上げた想念の中に入るのだと。


 だから、景色は、この場にいる弥沙に影響されたのだろうと言った。

 「事柄は決まっていても、多くの者はこの状況を知らない」


 姫は、()の裾を高く端折り、里の少女たちと笑いさざめきながら川で洗濯をしたかと思えば、次の瞬間には、鹿のような身のこなしで野山を駆け巡っている。


 陽光を浴びて弾ける水しぶきや、草いきれの中で輝く彼女の瞳を見ていると、記紀に記された『悲劇の后』という冷たい文字は、どこか遠い国の出来事のように思えた。


 四日ほど滞在したある夜、ツキが凛とした声で告げた。

『時間を進めて、先に行きましょう。物語の歯車が、大きく動き出す(とき)へ』


 一行は、名残惜しそうにする兄妹に、再び会うことを約束をして別れを告げた。

 次に来る時は、あの男がこの地に降臨する時。



──|天照国照彦天火明櫛玉饒速日命《あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと》。


          *


 弥沙の目の前で、景色が、季節が、猛烈な速さで流れていく。


 山を彩っていた桜が散り、濃い緑の夏を経て、黄金色の秋が駆け抜けていく。やがて冬の枯れ野、そしてまた、月日は巡る。

 二度目の春が、大和の山々を淡い桜色に染め上げようとした、その時。


 突如として、空気が凍りついたように変わった。

 風が()ぎ、梢を揺らす音も消える。百鳥(ももとり)の声は吸い込まれるように止み、里の犬たちも尾を巻いて沈黙した。

 ただならぬ何かが近づいている。


 世界がその到来に、深く、重く、息を詰めている。


──ツキが耳をピンと立てて、誰もいない虚空を見据えたまま囁いた。


『……来ましたよ』






お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも、面白い、続きが気になる!と思っていただけたら、★★★★、お気軽にコメントもいただけると、執筆の大きな励みになります!



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