21話 物部を背き……当山滅亡たり
落ち着いて話せる場所に移動しようと、奥宮から続く緩やかな坂を登りきり『月見山』へ。小高い丘の木の向こう、古びた東屋の影に、白く丸い塊がひとつあった。
「……あ、ウサギ」
弥沙が声を殺して立ち止まると、その長い耳がぴく、と動いた。雪のように白いウサギは、逃げる風でもなく、琥珀色の瞳でじっと弥沙を見つめている。
「ここは月見山だものね。月の使いがいてもおかしくないわ」
実際、この辺りの山にはたくさん生息している。
ウサギは一度だけ鼻をひくつかせると、人間のような明瞭な声で口を開いた。
『主様から、命が来た』
弥沙は息を呑んだ。隣にいたハルの尻尾が、緊張で膨らんでいるのがわかる。
『――これより先、知るは地獄、知らぬは罪。心して扉を叩け』
弥沙は呼吸を忘れて、その場に釘付けになった。白く小さな生き物から放たれた、あまりに重く鋭い宣告。しかし、その声は、銀の鈴を転がしたような、透き通るほどに可憐な響きだった。
その沈黙を破ったのは、低く不敵な笑い声。
「……はあ~ん。あいつだな」
クナドが、鼻を鳴らした。
「クナド……? 知り合いなの?」
「フン、知り合いなんて上等なもんじゃねェ。……だが、あの野郎がわざわざ使いを寄越したってことは、これは『神事』だ」
「神事?」
弥沙の問いに、クナドはニヤリと牙を見せた。
「ああ。俺たちが勝手に嗅ぎ回ってるんじゃねェ。向こう側が、封印の鍵を一つずつ、俺たちの手の中に放り込んできてやがるんだ」
すると、ウサギが弥沙を琥珀色の瞳で見つめる。
『――鏡は、真実を映すためだけにあるんじゃない。異なる物語を繋ぐための、通路なのよ。あ。うちはツキって呼んでね』
「……なるほど! 鏡を『受信アンテナ』にして、ボクの解析データを拡張しろってことだね? 弥沙、鏡を出して」
リュックから『物部の鏡』を取り出し、古びたテーブルの真ん中に置いた。
すると、ハルが誇らしげに喉を鳴らし、しなやかな動作で鏡のそばへ歩み寄る。
「ボクの瞳から直接投射するより、この鏡の『場』を借りたほうが、ずっと安定して高密度なデータを展開できるんだ。……いくよ」
ハルが、そっと右の前足を鏡の鈍く光る表面に置いた。
その瞬間、鏡の縁に刻まれた不思議な文様が、ハルの瑠璃色の瞳と同じ青い光を帯びて明滅し始める。鏡の面から、まるで朝霧のような光の粒子が静かに立ち上り、東屋の空間を支配した。
「わあ……。綺麗……」
弥沙が思わず声を漏らす。空中に固定されたのは、先ほどよりも遥かに鮮明で、奥行きのあるホログラム。
「これは、『神秘書』に記されている系図……」
誰もが知る『記紀神話』の系図が薄い青の光でベースに敷かれてあった。その上から『神秘書』に記された独特の血脈が、上書きされていく――いわば、歴史の設計図の『透視図』だった。
それは、深紅の糸となって複雑に絡み合う巨大な光の曼荼羅となっていく。
『――鏡は、真実を溜めておくための器でもあるの。猫さん、その調子で『主様』の秘密を解き明かして』
「ボクの負担も激減だよ! 鏡が演算をサポートしてくれてる……。さあ、ツキ。準備はいいかい?」
ハルが鏡に手を置いたまま誇らしげに言うと、ツキが琥珀色の瞳を細めて、ホログラムの一番上……すべての源流を前足で示した。
『――見て。始まりはここよ』
ツキの鈴のような声が響くと、一つの名が黄金色に輝いた。
『|彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊は住吉大明神なり』
「ウガヤフキアエズ……? 神武天皇のお父さんよね? その人が……住吉大明神だっていうの?」
弥沙の声が震える。
記紀神話では、イザナギの禊から生まれたとされる住吉三神。親神などいないはずの彼らに、『神秘書』は実の父親を与えていた。
「それだけじゃないよ、弥沙。この先に続く五人の子供たち……これが、筑紫の歴史を根底からひっくり返す暗号なんだ」
ハルが前足に力を込めると、黄金の名の先から光の筋が奔った。
五本の光が鏡から噴き出し、虚空に新たな『名』を刻んでいく。
『この御子に住吉の五神として、御子五人おわします。
――二人は女子、三人は男子にておわします……』
すると、鏡の面から溢れ出した光の粒子が渦を巻く。
系図の枝葉の上に、弥沙の掌に収まるほどの、精緻な木像のような、十センチほどの神々を形作っていく。
『女子の二神は、表津少童命と仲津少童命。海の神様……志賀の綿津見三神の内の二柱よ』
光り輝く衣を纏い、手には真珠のような宝玉を掲げた二柱の女神。その足元には、志賀の海を象徴するような波の紋様が静かに揺れている。
「わあ……。志賀海神社の神様たちが、女の子として描かれている……」
弥沙が指先を近づけると、小さな女神のホログラムは、まるで生きているかのようにふわりと光の衣を揺らした。
「驚くのはまだ早いよ、弥沙。本命は、こっちの三柱だ」
ハルが前足で鏡を叩くと、残りの三本の光が爆ぜるように膨らんだ。
燃え盛る日輪を背負い、重厚な鎧を纏った男神。日と月の狭間に立ち、威厳ある弓を携えた男神……。そして、ひときわ静かで深い光を放つ、満月を背負った男神のシルエットが立ち上がる。
『そして、男子の三神。長男は日神……表筒男。次男は中筒男……何と、神武天皇。そして三男は底筒男……月神・高良大菩薩』
「……っ!!」
弥沙は、自分の鼓動が耳元で激しく鳴るのを感じた。
神話では初代天皇として大和を目指した神武天皇。
そして、筑紫に座す謎多き高良神。
その二人が、同じ『住吉』の血を引き、並んで立っている。
さらに、先ほどの二柱の女子は、志賀海神社の神。
──これら五柱が、兄弟。
「――あり得ない。神話上では、絶対にあり得ない系譜……。だけど、これが意味するものがあるはずなんだね」
弥沙の呟きが、静まり返った東屋に溶けていく。
記紀神話という巨大な壁に、今、鋭い亀裂が入った。
ハルが鏡に置いた前足に、さらなる光が宿る。
曼荼羅の底から、血のように赤い、禍々しくも神聖な一文が浮上した。
<< 物部を背き、三所大菩薩の御神秘を他姓得知ることあらば、当山滅亡たり >>
「当山……滅亡……」
呪詛にも似たその一文が、鏡の面でどす黒く、冷たく明滅する。
「高良神の真実を、他姓……関係者以外に話してはダメだという。強い戒めの言葉だね」
ハルはホログラムを見ながら、呟く。
弥沙は、背骨を氷の指でなぞられたような戦慄を覚えた。
「……物部を背き?……高良神は、物部の神?」
彼女の唇から、無意識にその言葉がこぼれ落ちた。自分の声ではないような、遠い響き。けれど、パズルの最後のピースが嵌まったような、確かな震えを伴っていた。彼女は呟く。
「鏡は、物部の鏡だったよ……これは……」
茫然と立ち尽くす彼女の傍らで、ハルの声が、かつてないほど低く響く。
「物部の祖神といえば、饒速日命。神話では、神武天皇と対峙している……。
これは、高良神の神話での『立ち位置』を示しているんじゃないかな」
ホログラムを解析するその瑠璃色の瞳は、冷徹なまでの光を湛えていた。
「……饒速日命が、高良神?」
鏡に映る十センチの神武と高良を見つめた。
彼らは敵同士としてではなく、同じ『住吉』という光の源流から分かれた枝として、そこに立っていた。
「どういうこと……?」
鏡の面に視線を吸い込まれたまま、弥沙は呟いた。
その瞳は、もはや目の前のホログラムではなく、もっと遠い、歴史の裂け目を見つめている。
「……饒速日命と神武天皇の、神話を見ることはできる?」
ハルの瑠璃色の瞳が、静かに光る。
「できるよ。でも——」
一呼吸、置いた。その沈黙が、東屋の空気を重く塗り替える。
「覚悟して。ボクが今から見せるのは、記紀という物語が千数百年かけて塗りつぶしてきた、最も残酷な場面だよ」
ハルが鏡に置いた前足に、かつてないほど強烈な青い光が収束する。
曼荼羅のホログラムがキュルキュルと音を立てて縮み、鏡の表面が、まるで底なしの沼のように深く、ゆっくりと揺れ始めた。
「待て、弥沙」
クナドが、弥沙の袖をつかんだ。
「……見て、どうする」
「え……」
「知ったら、後戻りできねェぞ」
弥沙は一瞬、息を止めた。クナドの目が、いつになく真剣だった。
「……それでも、見る」
クナドは一拍置いて、手を離した。それから小さく舌打ちして、鏡の前に腰を下ろす。
「……しょうがねェな。俺も見てやる」
東屋の入り口で、ツキが振り返った。琥珀色の瞳が、静かに光る。
『――知るは地獄、と言ったけど。一人で地獄に行く必要はないわ』
ぴょん、と小さな体が卓の上に飛び乗った。
二人と二匹が、鏡を囲む。
ハルが前足に込めた青い光が、ゆっくりと、深く、鏡の底へと沈んでいった。
「いくよ……接続……!」
波打つ鏡の面から、冷たい風が吹き出した。東屋の湿った空気ではない、乾いた、それでいてどこか懐かしい、太古の大和の風。
弥沙の視界が、ぐにゃりと歪む。
卓を囲んでいたはずのクナドの体温も、ハルの瑠璃色の光も、すべてが遠い彼方へ押し流されていく。
――気がつけば、彼女は立っていた。
満々と水をたたえる、巨大な湖のほとりに。
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*参考・引用文献
・荒木尚ほか編『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社,1972,
※本書における引用の現代語訳および内容解釈は、筆者が原典に鑑み、独自に行ったものである。




