19話 月神と毘沙門天
──神功皇后の伝説。その陰に潜む、『異類』という名の影。
弥沙は、夢で見た異形の影を思い出し、自分の腕を抱くように身震いした。
「弥沙、大丈夫か?」
クナドが鋭い視線を投げ、隣へ駆け寄ってくる。
「大丈夫。……ただ、夢で見たあの光景と、さっきの『異類』って言葉が重なってしまって」
「その夢の正体を確かめるためにも、彼らを知る必要があるんだろう」
そう言って、ハルがしなやかな動作ですっくと立ち上がった。その瑠璃色の瞳が高良山の奥を見据える。
「本は『高良山』を示していたよ。まだ何かあるのかもしれない」
そこで、弥沙が気づく。
「そうだ。四王寺山。……四天王が祀られてたよ。さっきのカラスが言った『四柱』と関係があるのかも」
「……見てみよう」
ハルは神妙な顔つきをして、弥沙の膝の上にある本に、そっと柔らかな前足を置く。
白猫が触れた瞬間、『二柱の天照』の表紙から、極小の金色の回路のような光がパッと広がった。
「分かる?」
「ダウンロードされてる感じ。ふふ。ちょっとくすぐったい」
瑠璃色の瞳に、淡い金の幾何学模様が浮かび、静かに回転を始めた。弥沙の耳元で、紙の束が高速でめくられるような、微かな『フツツツ……』という電子音が響く。
「……神話の系譜と随分違うな。ややこしくなるから、これは後にしよう。さっきの降臨の件が、違う箇所にある」
「違う箇所? 同じことが?」
「そう。『神秘書』って時系列じゃないんだ。様々な箇所に……暗号のように散りばめられているよ。これを解くのは相当、大変だね」
ハルは、本に手を置いたまま、光を見つめた。
「見つけたよ、弥沙。──四方に開けし白雲は四天王なり。
さっき大社の境内で出迎えてくれた『みさきカラス』も言ってた一節だね」
ハルの声が、少しだけ解析モードの静かなトーンに変わる。
「四王寺山に降りたのは、月神である高良神。そして、住吉三神の父である住吉大明神を含めた、全部で四柱。──それが、この書が語る『四天王』の正体だ」
「住吉神が四柱? 何か理由がありそうだね。
月神が高良神……。やっぱり、そうなんだ。観月祭の時に、月神様とされてたよ。
高良神は毘沙門天──四天王の一柱とも結びつけられているね。奥宮も山も、毘沙門天だし」
ハルの瑠璃色の瞳が、嬉しそうに細められた。
「それだ! 全部が『四天王』と『月』というキーワードで繋がったね。奥宮に行ってみよう」
本殿の喧騒を背に、弥沙たちはさらに山深くへと足を踏み入れた。
奥宮へと続く道は、山肌に沿って緩やかに、どこまでも平坦に伸びている。頭上を覆うのは、幾重にも重なり合った若葉の天蓋だ。
その隙間からこぼれ落ちる陽光が、足元の土に目も眩むような黄金の文様を刻み、風が吹くたびにそれは生きた獣のように激しく乱舞した。
緑のトンネルの中を、光の粒子に貫かれながら歩く。
弥沙はこの道を辿るたびに、胸の奥が熱くなるのを感じる。かつてこの山の中に、神にまみえるためだけにこれほど清らかな道を通した人々がいた。
その一歩一歩に込められたのは、恐れでも義務でもない、ただひたむきな、神への愛だったに違いない。
やがて、木立の合間に古びた鳥居が見えてくると、大気の肌触りが劇的に変化した。
微かな電気が走るような、あるいは産毛が逆立つような、張り詰めた静謐。
俗世の汚れを峻別するその「神気」に、弥沙は思わず足を止めた。
周囲からは、絶え間なく鳥たちの囀が降り注いでいる。そこは峻烈な聖域でありながら、同時に、命あるものすべてを慈しむ楽園でもあった。
『ひさしゅうのお』
柔らかな声がかかる。一羽の大きなカラスが、奥の石造りの鳥居の上に音もなく舞い降りていた。
その羽毛は、深い森の影を映しながらも、日光を浴びて不思議な紺青の光を放っている。何より、その瞳はカラス本来の黒ではなく、沈みゆく夕陽のような、鋭い琥珀色に輝いていた。
「……みさきカラスの、お仲間?」
「……ボクの解析データには、該当する記録がない。……いや、違う。この個体に照準を合わせようとすると、ボクの思考回路に強烈なノイズが走るんだ……」
ハルの声が、微かに震える。
「まるで、見ることさえ許されていないみたいだ。……筑紫のどの神とも波長が合わない。もっと遠い、空の彼方から降りてきたような――」
隣で、クナドが「チッ」と露骨に舌打ちをした。
「へっ、どいつもこいつも、弥沙を見て『久しぶり』だぁ? 癪に障るぜ。おい、焼き鳥にされたくなかったら、さっさとその思わせぶりな嘴を開きやがれ」
クナドが挑発するようにカラスを見上げる。
鳥居の上のカラスが、琥珀色の瞳をクナドへと向けた。
『クナドよ、相変わらず血の気が多いの。筑紫の神々は息災かの』
「……あァ? 相変わらず食えねェ面してやがんな、お前。筑紫が恋しいなら、とっとと降りてくりゃあいいだろうが」
クナドは鼻を鳴らし、不敵な笑みをカラスに向けた。神々のネットワークに、この琥珀の瞳の主を知らぬ者はいない。
「だいたい、お前ら『使い』の連中は、いつも肝心なことは言わねェで余計な煽りばかり入れやがって。その琥珀色の眼ぁ、つつき回されたいか」
クナドの言葉を鼻で笑うように、カラスは一際大きく紺青の羽を広げた。その瞬間、鳥居の影に落ちたカラスの足のシルエットが、一瞬だけ不自然に歪んで見えたことに、弥沙はまだ気づかない。
『クク……。相変わらず、主の側を離れぬ忠犬ぶりよな。だが、その牙を向ける相手を間違えるでないぞ。我らは同じ主を待つ身よ』
二人の間に、旧知の仲特有の、険悪ながらもどこか通じ合った火花が散る。だが、その激しいやり取りさえ、今の弥沙の意識には遠いノイズのようにしか響かなかった。
「『久しぶり』って……私に向けて?」
思わず弥沙が自分を指差すと、鳥居の上のカラスは、慈しむような琥珀色の瞳でじっと見つめ返し、一度だけ深く、肯定するように首を垂れた。
「……そんな。どういうこと……?」
しかし、それには答えずに、告げた。
『娘よ、そなたが追う『月神』の正体、その一端がこの奥宮に眠っておる』
「高良神って、毘沙門天なのですか?」
弥沙が問う。
カラスは器用に首を傾げると、その嘴をカタカタと鳴らし、まるで古文書を読み上げるような厳かな響きで言葉を紡いだ。
『北を護るは多聞天……すなわち毘沙門天なり。高良の神がその姿を借りてこの地に鎮座した理由とはな、……いや、高良神が毘沙門天とされたのじゃ』
カラスは一度言葉を切り、深い木立の隙間にのぞく蒼穹をしばし見つめた。その琥珀色の瞳には、幾千年の時の流れが映っているかのようだ。
『大社から少し下った所に、史跡があるじゃろう。高良神自身が『毘沙門天として祀れ』と告げたとあるわい。この奥宮も高良山も、その名に結びつけられておる。……じゃがな』
鋭い双眸で三人を見据えると、音もなく紺青の翼を大きく広げた。
『それは後の世の『神仏習合』。何もかも人の都合じゃ。真の主は仏の衣に隠され、名を変えられ……それでもなお、この山から夜を、筑紫を照らし続けておる。そなたらが追う……『月神』としてな』
言い終えると同時に、琥珀の瞳がふっと細められた。
一陣の風が木々を揺らし、弥沙が思わず目を細めた刹那──。
鳥居の上には、もう何もいなかった。
羽ばたきの音さえ残さず、ただそこには冷ややかな空気だけが漂っている。
カラスの声が風に溶け、再び奥宮に重々しいほどの静寂が戻った。
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*参考・引用文献
・荒木尚ほか編『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社,1972,
※本書における引用の現代語訳および内容解釈は、筆者が原典に鑑み、独自に行ったものである。




