18話 神功皇后の時、異類日本に渡る
『ここに皇代。十五代神功皇后の時、異類日本に渡る』
弥沙は、四王寺山を少し上空から眺めていた。
力強い大地を揺るがすような声が響く。
あの──高良大社の守護神、みさきカラスだ。
弥沙、白猫のハル、クナドは今、四王寺山をはるか上空から見下ろしていた。
眼下に広がるのは、四つの峰が連なる、筑紫の要害。のちに四天王が祀られ、防衛の要となる四王寺山の、これが原初の姿なのだろうか。
大宰府市、大野城市、宇美町……。現代では三つの境界線に分かたれたこの巨大な山塊が、千数百年前の光景では剥き出しの神気を放って横たわっている。
目の前に展開するのは、秘伝書『高良玉垂宮神秘書』が紡ぐ、高良大社の神の由緒。
『よいか、お三人。これはあくまでも『神秘書』に記された光景じゃ。事実とは異なる。しかし、そこに意味があることを肝に銘じよ』
みさきカラスの声が、時空の濁流を導いていく。
『その時、筑前国四皇寺の峯に登り、虚空を祈り給う』
嶺にいた女が、一心に祈りを捧げている。前にあるのは、勾玉や紙垂で飾られた一本の榊。彼女の頭上からは、目も眩むような光の柱が天まで届いていた。
──あれが、神功皇后。
「ああして、神を招いているんだね」
ハルの声が響く。姿は見えないが、共にこの光景を魂に刻んでいるのが分かった。
『彼女は、七日七晩、天に祈った……』
みさきカラスの低く太い声が、時空の静寂を震わせる。
『東の空に白雲現れ来たる。白雲たちまちに四方に開き、光を放ちたまえば、月神現れた給うなり』
その言葉が響き渡ると同時に、東にそびえる霊峰・宝満山の方向から、巨大な白雲が湧き上がった。
宝満の嶺を背負うように現れたその雲、四王寺山の頂へと、一直線に駆け抜けてくる。
それは生き物のように四方に裂け、その裂け目から、この世のものとは思えない神々しい光が溢れ出した。
白雲が四方に開いた跡には、影が揺らいだ。その中心で四つの桙が激しく打ち振られるのが見える。
『この白雲に乗り給い、化して若冠(わかもの)と現れ、四皇寺に下り給う。これによって、その所を四皇寺の峯とは申すなり』
神を乗せた白雲が移動する。
その瞬間、弥沙の脳裏に、強烈な光の残像が弾けた。
──あまのとりふね──?
かつて夢の中で、生駒の稜線を越えてきたあの巨大な『光の塊』。空を削るように進んでいた、真っ白な帆船の輝き。
彼女の残像には、一瞬だけ、あの『あまのとりふね』の白い船体と重なって見えた気がした。
……同じ、だ。あの時と同じ、内臓を掴まれるような重低音が響いている……
圧倒的な神気を纏い、光の中から一人の若者が舞い降りる。
その瞬間、四王寺山の嶺が、神話の色に染め上げられていった。
四王寺山に広がる色とりどりの紅葉。
ふっ、と極彩色の神話が掻き消えた。
視界を埋め尽くしていた光の残像が、ゆっくりと高良大社の静かな境内へと収束していく。頬を撫でる風が、千数百年前の突風から、現代の夏の空気に変わっていた。
「ハル」
「うん」
「高良神が、白い雲に乗っていたよ」
──まさか。あの『あまのとりふね』が、姿を変えていたというの?
いや、そんなはずはない。けれど、あの重低音の震えは……。
「弥沙、ここでは、論理的にいこう」
弥沙は動悸が抑え切れなかったが、ハルの冷静な声にはっとした。
「分かった」
弥沙はハルの瑠璃色の瞳を見つめて小さく頷き、みさきカラスへと向き直る。
「……高良神は住吉神だとさっき、伺ったのですが……」
『左様。神秘書にもそうある』
カラスが、一歩、石畳を刻むように歩み寄った。彼は首を傾げると、賢者のように腹の底に響く重厚な声で、古の記憶を紐解き始める。
『住吉大明神は明神天子の垂迹、大祝先祖
表筒男尊は日神の垂迹、高良大菩薩
底筒男尊は月神の垂迹なり。
この三神は、天神にてまします間、兜率天に住まう、三光と現れ、国土を照らし給うなり』
さわさわと、ご神木の葉擦れの音がする。
『住吉大明神と、住吉三神。その末っ子が、高良大菩薩、高良神とされとる。かの神が、月神じゃな』
「神話では、住吉神って、神功皇后と船の上で出会ってました。あ……宝物殿のタペストリーもそうでした」
『あれを見なすったか。その上に、四王寺山の件も描かれていたじゃろう』
弥沙は記憶を呼び戻す。──そうだ。船の上には、山があって、そこにも神功皇后がいた。そこには光る雲があった。
「……どっちが本当でしょう? 船の上で出会ったのか、四王寺山の嶺で出会ったのか……」
頭上の梢から、セミの声が降り注ぐ。
「ハッ! じれってぇなあ! どっちが本当かなんて、器の小せぇことで悩んでんじゃねぇよ。……どっちも『本当』じゃねぇことだって、いくらでもあるんだぜ」
クナドが、奥の石段にどっかと腰を下ろし、肘を膝について退屈そうに鼻で笑った。
「いいか、弥沙。人間が書き残した『文字』なんてのは、真実の影をなぞってるだけに過ぎねぇ。
海の上だろうが山の頂だろうが、あの女とあの男が『交わった』……その一点さえ揺らがなきゃ、場所なんてのは後からいくらでも書き換えられるもんなんだよ」
「……そうか。二人がどこかで出会ったことそのものを、何としても残すため。
……もしかすると、そのずっと前から、二人は出会っていた?」
弥沙がふと顔を上げると、参道を参拝客たちが静かに通り過ぎていく。誰もが信じて疑わない『神話』という名のヴェールの向こう側を、今、自分たちだけが覗こうとしている。その事実に、背筋が冷たくなるのを感じた。
「その可能性は大いにあるね。場所という外枠よりも、『出会った』という事実そのものが持つエネルギーを保存したかったのかもしれない」
ハルが尻尾の先を小さく揺らして、弥沙の言葉を補完した。
そこで、弥沙はまた、冷やりとした感覚になる。
「神話は、作られた……?」
自分で、そう言って、はたと気づく。
「 そうだ。高良神は筑紫の国魂、『白日別』、神話の原初の神。それなのに、住吉神であって……」
顔を上げると、そこに大社があった。参拝の者が次々と社に入っていく。
「高良大社の神って、高良神、八幡神、住吉神よね。だけど、高良神は何なのかは、分かっていないのよ」
息を呑む。
「──彼らは何に祈っているの?」
問いかけは、熱を帯びた風にかき消された。
弥沙は現人神社での幻視を思い出す。
「そもそも、思ったんだ。現人神社で。住吉神は男神一柱から現われてる。真実の訳がないって。住吉神って何? 有名だからって、信頼に値する神かどうかは分からない。……そもそも、神は概念に過ぎない?」
『娘よ。神とは何かを、言葉で説明することは難しい。……じゃが、見せることならできる。そなた、さっきの本もそうじゃが、……鏡を受け取ったじゃろう?』
「はい。物部の鏡だと……」
『本と鏡。どちらも物部の宝じゃな。ならば、できる。鏡の上に本を置いてみなさい』
弥沙は、ベンチに腰を下ろすと、二つの物を取り出した。
自らの膝の上に物部の鏡を水平に置く。冷ややかな鏡面が空を映し出したその上に、重なり合うように一冊の本──『二柱の天照』を静かに載せた。
みさきカラスが鋭く鳴くと、膝の上で、鏡と本が生き物のような熱を帯び始める。
『『神秘書』の中身、その一冊へ写してしんぜよう。ハルという依代がおれば、いつでも紐解けるようになるはずじゃ。この書は……』
カラスの瞳から溢れた金色の光が、本を透過し、膝の上の鏡で激しく跳ね返る。
下から突き上げるような黄金の光が、本のページをパラパラと激しくめくり、余白の奥底へと、目には見えぬ『記憶』を刻み込んでいった。
紙の束が弥沙の指先を弾くように波打ち、古いインクの匂いに混ざって、微かに潮の香りが立ち昇った。
みさきカラスは、石段に座るクナドを静かに見つめ、最後の一句を紡ぐ。
『……そなた達を、真の岩戸に導くじゃろう』
激しく明滅していた本の光が、吸い込まれるように収束していく。
『必要な時に、必要な箇所を。しっかりとな』
それだけ言い残すと、みさきカラスは元の大きな姿へ。社の屋根へと羽ばたく紺青の翼を、ハルはじっと見上げた。
「ありがとう、みさきカラス」
その声は、熱を帯びた夏の風に溶け、ひと筋の軌跡を残して消える。
社の静寂が戻り、しばらくは誰も口を開かない。
「積み重ねていくしかないね」
沈黙を破ったのは、ハルの静かな、けれど芯の通った声。
「神話という巨大な迷宮を解くには」
その声を聴きながら、弥沙はある一つの言葉を反芻していた。
──異類。
その脅威が迫る筑紫の地で、二人の神はなぜ『海の上』ではなく、あの『山の嶺』で出会わなければならなかったのか。
膝の上の本が、まだ微かに熱を持って、鼓動を続けていた。
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*参考・引用文献
・荒木尚ほか編『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社,1972,
※本書における引用の現代語訳および内容解釈は、筆者が原典に鑑み、独自に行ったものである。




