17話 高良大社と、みさきカラス
「……へっ、相変わらず神気が濃すぎて、肌がヒリヒリしやがるぜ。……だが、この『重さ』は嫌いじゃねぇ」
クナドは眩しそうに目を細めて下界を見下ろす。乱暴に束ねられた髪の先が、山の風に遊ばれていた。
弥沙と白猫のハル、クナド神は、高良大社の本殿へと続く石段を登りきった、境内の入り口に立っている。
深い緑の影が幾重にも重なる奥に、その社は鎮座していた。耳納山系の西端、高良山の中腹。そこは下界の喧騒が嘘のように、凛とした静寂に包まれていた。
石段を上がりきったこの場所は、視界が鮮やかに開ける。
眼下には久留米の町が一望でき、真夏の強烈な陽光が市街地を白く焼きつけていた。その中を、筑後川がゆったりと、銀の鱗をくねらせる巨大な龍のごとく流れている。
「この地は、西を耳納の山並み、周囲を筑後川に囲まれた天然の要害なんだ。防衛にはこれ以上ない場所だよ」
ハルが隣で、誇らしげにしっぽを揺らす。
遥か正面には脊振山系が青く霞み、その向こう側に、自分たちの住む那珂川があるのだと思うと、遠い旅をしてきたような奇妙な高揚感がこみ上げてきた。
その圧倒的な景色を眺めながら、弥沙はふと、石段を上がる前の鳥居の下での会話を思い出す。
「僕は消える。ここでは人の目には見えない方がいい。社に飼い猫がうろうろしたらだめだろう」
唐突に告げたハルの輪郭が、陽炎に溶けるようにゆらりと揺れた。
「消える……?」
「見えなくなるだけだよ。君にはちゃんと見える」
そのまま透き通るように薄くなり、完全に景色と同化した。他者の目には、そこにはただ揺らめく熱気があるだけに映るだろう。
けれど、弥沙の瞳には、光の屈折のあわいに透き通るようなハルの姿が、たしかな質感を伴って映っている。
──彼は、石段を登りきった今も、弥沙のすぐ隣に揺らいでいた。
クナドもまた、黒いTシャツにトレードマークのウエアを腰に巻いた、現代的な少年の姿をしている。
「あの格好で歩きゃあ、下界の連中が放っておかねぇからな」
不機嫌そうに鼻を鳴らす彼は、どこからどう見ても人間の少年にしか見えない。
だが、本殿で参拝を終えた瞬間、弥沙は息を呑んだ。
隣に立つクナドが、見たこともないほど神妙な顔つきになり、深く、深く頭を下げたのだ。
普段の不遜さが嘘のような、絶対的な敬意。その横顔を見つめていると、弥沙の胸の奥に、言葉にならない静かなざわつきが広がっていく。
参拝を終えて境内を歩いていると、ハルが話しかけてきた。
「高良大社は、筑後国一之宮だ」
「筑紫の国魂と言われてるね。さっきの車道沿いの案内板にもあったよ」
「そう。神話の中でイザナギ神とイザナミ神が国産みをするだろう。そこに、白日別という神が出て来るんだ。筑紫嶋は身一つにして面四つ有り。筑紫国を白日別、と」
「筑紫の国魂、筑紫の国の魂の神ってことなんだから、高良神が白日別ってことになるんだよね?」
弥沙の問いに答えるように、境内の楠の葉がざわめき、濃い緑の香りが鼻腔をくすぐった。
「おそらく、……僕はそうみてるよ」
ハルが尻尾の先をぴくりと動かす。その視線の先には、千数百年の祈りを受け止めてきた古びた社殿が、午後の光を吸い込んで静かに佇んでいた。
宝物殿が開いているのが見えた。
小さな看板に「本日開館」と書かれている。
「入ろう」
「うん」とハルが応える。
「肩においでよ」
促すと、柔らかな重みがふわっと肩に乗った。普通の猫よりも、心持ちずっと軽い。
社務所で入館したいとの旨を伝えると、神職の方が開けてくださった。宝物殿の扉の向こうは、外の猛暑が嘘のようにひんやりとした空気が満ちている。
弥沙は奥の壁に掲げられた大きなタペストリーにくぎづけになった。そこには、荒れ狂う海を往く巨大な船が描かれている。
波を切り裂く船の舳先には、一人の男が立っていた。あの幻視で見た、住吉神と同じ立ち姿。
「この船におられるのが神功皇后。舳先におられるのは、ご祭神の安曇磯良神です」
その静かな声に、弥沙ははっとして、いつの間にか傍らに立っておられた神職を仰ぎ見た。
「神功皇后の船に現れたのは住吉神のはずですが……住吉神が磯良神なのですか?」
問いかけると、神職は瞬き一つせず、深く、静かな眼差しを弥沙に向けた。
「――そうです」
その一言が、冷たい風のように弥沙の胸を通り過ぎた。
外に出ると、境内から離れたご神木の影で、弥沙は立ち止まった。葉がさわさわと鳴り、木漏れ日が地面で踊っている。
眩しい光の中に、いつの間にか、雪のように白いハルの姿がくっきりと浮かび上がっている。
「姿を消すとちょっと疲れるんだよね」
ハルが首を傾げながら、ふうと息を吐いた。
その仕草が可愛くて、弥沙は笑う。
「ご祭神の高良神が住吉神で、安曇磯良神……」
呟いた弥沙に、クナドが自嘲気味な笑みを投げた。
「名前なんてのは、後から人間が貼り付けたラベルだ。大事なのは、その『中身』が誰かってことだろ?」
それは、猿田彦という別名を持つ彼自身の独白のようにも聞こえた。
その時、山の奥から吹き下ろしてきた風が、ひときわ大きく梢を揺らす。
『ハルじゃあないか』
頭上から響いた、地を這うような太い声。
振り返ると、社の屋根の最も高い場所――千木の上に、巨大なカラスが立っていた。
逆光に縁取られたその羽は、日の光を吸い込んで紺青色に妖しく輝いている。すべてを見透かすような鋭い瞳が、弥沙の魂を射抜くように見下ろしている。
名を呼ばれたハルはしばらく固まるが、やがて顔をほころばせた。
「みさきカラス?」
『そうじゃ』
カラスは大きくばさっと翼を広げると、するると小さくなって側まで飛んできた。見た目は普通のカラスと大きさが変わらない。
「弥沙、みさきカラス。ここの守護者だよ」
「はじめまして」
弥沙が挨拶をするとカラスは首を少し傾げ言った。
『かっかっかっ。わしはお前さんとは初めてじゃないがの』
カラスはハルを見た。
『筑紫の白癜や亀に会ってきたじゃろ』
「何で知ってるんだろ」と弥沙が呟くと、クナドが応える。
「神様ネットワークというものがあってだな、面白いことは日本中、筒抜けなんだ」
弥沙は思わず笑った。
『基本、神は退屈しておる。長生きじゃからな』
かっかっかと豪快に笑う。
『筑紫の神々が騒いでおったわ。岩戸を開ける者がおるとな。くれぐれもよろしゅう頼まれたわ』
そこではたと、弥沙は気づく。
「筑紫の神々? そういえば那珂川は、数年前まで筑紫郡だった。筑紫の日向、ね」
『そうじゃ。めでたく市になったらしいの。久しく行ってないが、随分変わったのであろうの。まあ、変わらないものもあろうて』
「みさきカラス、この社の由緒を見せてくれる?」とハルが言う。
『『高良玉垂宮神秘書』じゃな。隅から隅まで把握しておるわい』
「高良……?」
「『高良玉垂宮神秘書』平安時代作とされる書だよ。千年以上門外不出だったんだ。昭和の半ばに本になって一般公開されてる」
『そうじゃ。媒体はそれがよかろう。娘よ。その中のものを出してみなさい』
弥沙は、リュックの中から『二柱の天照』を取り出した。すでに熱を帯びている。その時、パラパラと中身を見たが、あの『高良山』という文字は無くなったいた。
ご神木の側にあるベンチに座る。かつて那珂川でそうしたように、弥沙は慣れた手つきで本を取り出した。
ハルが静かに立ち上がる。その書物に、弥沙が手を置き、ハルが前足を乗せた。
白猫の全身の白い毛が、波打つように逆立つ。
「あ、俺様も行く」
クナドが乱暴に割り込んできた瞬間、弥沙の手とハルの前足、そして少年の無骨な掌が一つに重なった。
「わっ――」
指先から心臓へ、熱い電流が駆け抜ける。
視界がぐにゃりと歪み、夏の陽光に白く焼けていた高良山の境内が、古い絵巻物が風に解けるように、端から砂となって剥がれ去っていった。
ご神木のざわめきは、いつの間にか、乾いた風の音へと変わっている。
その風の尾を引くように、ふもとの方から、かすかに、けれど確かな波の音が響いてきた。
肺に吸い込んだ空気には、真夏の湿気など微塵もない。喉を焼くほどに濃い潮の匂いに満ちた、千数百年前の冷涼な大気だ。
「……始まったね、弥沙」
足元から、透き通ったハルの声が響く。その声に応える間もなく、弥沙の意識はさらに高く、空へと吸い上げられた。
気がつけば、彼女たちは鳥の目線で下界を見下ろしていた。
眼下に広がるのは、今の久留米でも那珂川でもない。
四つの峰を連ねるゆるやかな山――四王寺山だ。
ここからは、まるで巨大な地図を広げたように、筑紫の原野と、遠く光る玄界灘が一望できた。
その嶺に、一筋の影が動く。
昨日見た――神功皇后。
そして、白雲が立ち込めてくる。圧倒的な神気を放つ男の姿があった。
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