16話 脊振の神と物部の鏡
──二龍、背を振るう。
脊振山には、そのような伝承がある。
那珂川の南、佐賀との境に、巨大な壁のように横たわる霊峰。
かつて『脊振』とは山系全体を指す言葉であり、この山頂は『上宮嶽』と呼ばれていた。
──そこには確かに、巨大な龍が、存在していたのだ。
麓の那珂川から、対向車とのすれ違いも困難な急カーブを幾つも越えて、二時間半。
ようやく駐車場に辿り着く。フェンスの向こう側では、国防の要所であるレーダー基地が異彩を放っている。
山頂へと続く石段を一段ずつ踏み締め、最後の一歩を上り詰めると、一気に視界が開けた。
眼下には幾重にも重なる那珂川の山並み、北西には、青く霞む博多湾までが一望できる。
下界のうだるような暑さが嘘のように、鋭く冷たい風が吹き抜けた。
そこに鎮座する脊振神社の上宮は、石造りの重厚な佇まいで、どんな強風にも揺るがぬ意志を湛えている。
「鏡はこの場所を示していた……」
弥沙が呟くと、ハルは風に目を細めながら、遥か眼下に広がる那珂川を見下ろす。
「見て、弥沙。あの岩戸の門を抜けて、僕たちはようやくここまで来たんだね」
「……そう。あの場所は、かつての『岩戸郷』。肥前筑前街道の、前線基地だった場所よ」
弥沙は、東を向いて視線を送り、遠く霞む山並みをなぞるように手をかざした。
「街道は、那珂川から坂本峠を越えて、佐賀へ抜けていたそうよ。
旅人たちは、麓の岩戸で旅支度を固めて、決死の覚悟でこの山道に挑んだの。
岩戸は言葉遊びじゃない、実生活に根ざした『生きた門』だったのね」
弥沙は、今も残されている街道の名残を思い浮かべる。山中のそれは、苔むした荒れた石畳となって存在していた。そのずっと前の時代から、名もなき無数の足跡が、この険しい山肌を硬く踏み固めてきたはずだ。
「生きた門、か。那珂川には、地形の岩戸、地名の岩戸、天岩戸の巨石、そして住吉神の岩戸河内と、四つの岩戸が重なってるんだね」
ハルの言葉に、弥沙は深く頷いた。
吹き抜ける風が、その四つの名を、山頂の清冽な空気の中へと溶かしていく。
それは単なる偶然の符合ではない。この土地が、千数百年の時を超えて守り続けてきた、巨大な『意志』の積層そのものだった。
「そう……」
弥沙は呟いたまま、リュックに手を伸ばした。取り出したのは、『儺の國の星』。
那珂川の古来の星名や古語を網羅した、真鍋大覚氏が遺した一冊。
著者は物部の末裔——。かつて太宰府で星見を司っていた一族の末の者だという。
「『儺の國の星』には、脊振山を挟んだ南北に物部の一族がいたと書いてたよ。この山を同じ一族が行き来してたんだろうね。那珂川には、本の作者と同じ姓の真鍋さんが異常に多い地区があるし……」
「那珂川は、物部の里だったんだ」
弥沙は静かに頷いた。その瞳は、眼前に広がる景色をただ見ているのではない。幾層にも積み重なった時間の断層を、一気に透かし見ているようだった。
彼女は、反対の佐賀側を見た。有明海が見える。その手前にあるのは広大な筑紫平野。
古の人は、生きる為にこの山を越えていた。
上宮の背後に鎮座するのは、青磁色の巨大な球体――通称メロンドーム。
夏の青い空に溶け込むような、けれどどこかこの世ならぬ異彩を放っていた。そこから漏れ出る『ゴオン……ゴオン……』という重低音が、山頂の静寂を奇妙に震わせている。
その音が、リュックの中の何かと共鳴している気がした。
弥沙は、その中からあの鏡を取り出す。
すでにその表面には、呼び応じるかのように無数の星々が煌めいていた。
先ほどとは、光の配置が変わっている。等間隔に並んだ三つの星と、その周囲を囲む四つの星。
「……オリオン座? ハル、見て……鏡が、オリオン座を映してる」
弥沙は鏡と『儺の國の星』を見比べた。そして眼下に広がる那珂川の景色へと視線を移す。
鏡が映す星。物部の末裔が遺した書。この土地に刻まれた記憶。
三つが、今、この場所で重なっている。
──物部という、巨大な一族の影の中で。
弥沙の脳裏に、一条の光が射し込んだ。今まで追い求めていたものの正体……。
「……鏡が、導こうとしていたのは『物部』なの?」
喉の奥が熱くなり、弥沙は確信を込めて言葉を継いだ。絡み合っていた謎の糸が、今、一本の太い『血の記憶』へと結ばれていく。
「物部はこの地に存在して、この地で星を読んでいたのよ」
遮るもののない山頂からは、下界のすべてを見渡せた。遥かな太古から現代まで、絶えることなく物部という名の意志が、この嶺を連綿と渡り続けてきたのだ。
「もしかすると、この鏡は、物部が天の巡りを模ったものなのでは……?」
ハルは鏡と弥沙を交互に見つめるだけで、何も言わない。
弥沙は鏡を握り直した。冷たい青銅の重みが、掌に確かに伝わってくる。
「……これは、物部の鏡だ」
弥沙が呟いた瞬間、山頂の空気を切り裂くように激しい突風が吹いた。
その風音が、不意に、いくつものさざめきへと変貌する。疎に散らばっていた大気の震えが、意思を持つ言葉へと収束していくのを、彼女は肌で感じていた。
『……時刻を測れ。影を測れ。天の巡りは、地の運命なり……』
「ハル! 今の声……!」
「ああ。僕にも聞こえる」
ハルは風に向かって姿勢を正した。白い毛並みが風になびき、日の光を浴びて、その輪郭が白く発光していく。
──まるで、神様みたい。
弥沙が息を呑んだその時、どこからともなく白い霧が湧き上がり、上宮の周りを一瞬にして包み込んだ。
外界のざわめきがふつりと途絶え、世界にただ二人、神の懐に閉じ込められたような静寂が訪れる。
──やがて。
白く濁った世界の底から、澱が沈むように一人の男の幻影が浮き上がった。纏う衣は、汚れなき白。
再び、風の声が響く。
『我らは星を見、王を導く。筑紫の太陽が、再び昇るその時まで……』
それは人の喉からではなく、木々を揺らし、山を震わせる『風』そのものが言葉を形作っているかのようだった。
弥沙はその幻影を射抜くように見つめる。瞬間、胸の奥でひどく懐かしい熱が跳ねた。
……えっ?
霧の向こう、凛として立つ男の背。
知らないはずの装束なのに、その翻る袖の動き、圧倒的な存在感に、記憶の底に眠る『かつて自分を導いてくれた誰か』の面影が、一瞬だけ鮮やかに重なった。
「……あ……」
弥沙が思わず一歩踏み出し、その背中に手を伸ばしかけた、その時だ。
ゴオン……と、現代の鉄の唸りが現実を引き戻すように鳴り響いた。
男の姿は、なぞることさえ叶わぬ速さで風に解け、ただの白い霧へと還っていった。
弥沙は、空を切った指先を名残惜しそうに握りしめた。
胸の鼓動は、まだ『白い影』が残した余韻で、騒がしいほどに鳴り止まない。
*
少し離れた崖っぷちに、クナドが立っていた。
いつもなら不遜に笑うはずの彼が、今はただ、弥沙が幻影を追っていた空を、ひどく冷めた目で見つめている。
……ったく。あんな影法師に、そんな顔を見せんじゃねぇよ。
クナドは胸の奥がチリリと疼くのを感じ、誰にも悟られぬよう、乱暴に鼻を鳴らした。
それは、神として祀られ、本当の姿を失った『自分自身』への、行き場のない苛立ちだったのかもしれない。
弥沙が振り返る直前、クナドはいつもの『俺様』の仮面を被り直し、ニヤリと不敵に笑ってみせた。
*
「……へっ、ようやく辿り着いたか」
「弥沙、その鏡はな、『星見の鏡』……物部の宝の一つだ。あいつらはここで天の意思を測り、神を呼ぶタイミングを計ってたのさ」
「クナド……知ってたの?」
「当たり前だろ」
クナドは不敵に笑うと、霧の晴れた空を仰いだ。
「いいか、次は高良山だ。あそこには、星すらも隠しちまった『最大の嘘』が眠ってる。……覚悟しな」
弥沙は、もう一度だけ上宮を振り返った。そこに鎮まるのは、神功皇后が祀ったと伝わる弁財天。
白鯰が言った『神功皇后を語る者がいる』という言葉の意味が、今はまだ霧に包まれて判然としない。
けれど、今この山頂で出逢った光景のすべて――星の輝きも、風の声も、掌に残る鏡の熱も。そして何より、あの霧の向こうに消えた『白い影』の気配。
そのすべてが、自分に何かを語りかけ、託してくれたような気がした。
まだ見ぬ『答え』の萌芽は、確かにこの胸の中に、静かに熱を帯びて眠り始めている。
石段を下りる途中、ハルがフェンスの向こうに視線を止めた。
「弥沙、あれは?」
雨風を避けるような囲いの中に、一つの石像が立っている。
「役行者の像だよ。この山々は古来から修行者たちの聖地でね……『脊振千坊』と言われるほど、数多の宿坊が立ち並んでいたんだって」
空を測る物部。山に籠もる修行者。そして、今も『空』を監視し続けるレーダー基地。
古来から、この山がどれほど多くの人にとって『かけがえのない聖域』であったか、その重みが肌に伝わってくる。
「形は変わっても、誰かが誰かを守ろうとする意志は、この場所から一度も消えたことがないんだね。……この国の力強さって、こういう、目に見えない積み重ねのことだったんだ」
弥沙の言葉に、ハルは誇らしげに目を細めた。
「さあ、行こう。高良山へ」
霧の向こうに消えた、あの凛とした後ろ姿が、まだ弥沙の瞳の奥に焼き付いていた。
一章、終わりです。次は、新たな展開の二章が始まります。
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※本作は、Amazonにて出版中の拙著の考察本『二柱天照──『高良玉垂宮神秘書』から紡がれる神功皇后と卑弥呼』をベースにした歴史ミステリー小説です。
邪馬台国や日本神話に隠された秘密を、物語を通してより深く詳しく解き明かしています。
一千八百年の謎を巡る旅に、最後までお付き合いいただければ幸いです。
*参考資料*
・真鍋大覚『儺の國の星』那珂川町,1982, (後に那珂川市)
・真鍋大覚『儺の國の星 拾遺』那珂川市,2023,




