15話 天岩戸──鏡の中の設計図
那珂川の「天岩戸」へ行け。
日吉神社で子猿にそう告げられ、その足で車を走らせていた。
「弥沙、天岩戸がある戸板地区の名前って、やっぱり伝承から来てるの?」
助手席のハルが、窓の外に流れる青葉を眺めながら聞いた。
「そうみたいだね。山神社にあるんだけど。旧村名は岩戸村だよ」
「じゃあ、岩戸村の由来も天岩戸?」
「それは違うみたい。昨日見た、地形を岩戸と呼んだのが由来みたいだね。……同じ名前なのに、全然違うものを指してるの」
「地名って、そういうものだよ」
ハルが静かに応じた。
「同じ音に、違う記憶が何重にも積み重なってる」
「それは言霊だね。例えば、ハルの音は季節の春でしょう。晴れの晴るに、穢れの反対の祓れの祓る」
車は共栄橋を越えた。那珂川の流れが日に反射して照らされる。
「同じ音でも色んな意味があるように、表すものも違っていいんだよ。でも……根っこは同じなのかな。ハルなら、明るい、清い、尊い……。自分が感じるものが、その人にとっての根っこだね」
「そうかあ。岩戸が意味する根っこは同じなのかも」
ハルの表情が、自分の名前を愛おしむようにふわりと和らぐ。それを見て、弥沙の胸の奥も温かくなった。
「那珂川にはね、他にも岩戸があるのよ」
弥沙は、流れる車窓の向こうに広がるのどかな原風景を追いながら、言葉を継いだ。
「昨日、現人神社に行ったでしょう。昔は、あの社を産土神とする十二の村を、岩戸河内と呼んでたんだって」
「岩戸河内? って祭神の住吉神が、岩戸の神ってこと?」
「さあ。それは分からないよ。岩戸の神って、岩に籠った天照でしょう?」
言葉にした瞬間、弥沙の胸の奥で何かが微かに揺れた。でも、それが何なのか、まだ掴めない。
「……そうだね」
ハルが静かに応じる。その声に、珍しく何かを飲み込んだような間があった。
「おい弥沙、少しは窓を開けろ。この鉄の箱は空気が薄くていけねぇ」
後部座席でふんぞり返っているのは、さっき強引に旅の仲間に加わったクナドだ。
助手席のハルは、そんなクナドをミラー越しに面白そうに眺めながら、瑠璃の瞳を輝かせている。
「ハル、楽しそう」
「楽しいよ! 弥沙とあちこち行って、謎を解いていくのが本当に楽しいんだ」
ハルの声音が、光を反射する川面のようにキラキラと弾む。
車はいっそう深くなった瑞々しい緑のトンネルを抜けていく。
「一の堰の鯰が言ってた、もっと『上流』に行けって、日吉神社よりも、もっと上だったのかな? 心当たりある?」
「う~ん。あることはあるけど、どうかな……」
弥沙は一つの可能性を思い浮かべていた。うんと上流と言えば、その先は山だ。
「それより、ハル。さっき、なんで本から文字が浮かんだのかな?」
ハンドルを握る弥沙の問いに、ハルは窓の外を見つめたまま、どこか遠い記憶を辿るような目で答える。
「それは、僕たちが土地の『導き』に従って正しいルートを辿っているからだよ、弥沙。本が『物語を語る資格がある』と認めた証拠だよ」
「なるほど、その道の先が高良山なのね」
弥沙は、助手席の下のリュックにに入った本の存在を、意識の端で強く感じていた。
道幅がひどく狭いため、弥沙は少し離れた場所に車を止め、そこからは歩くことにした。アスファルトが途切れ、湿った土と草の匂いが鼻を突く。
「弥沙、ここへ来たことがあるのかい?」
白猫は、彼女の目の前を優雅に歩きながら訪ねた。
「あるよ。巨大な岩があって、天岩戸の『片方』だと言われているんだけど……もう片方は、奈良の片戸神社に飛んでいったっていう伝承があるんだ。調べたけどその神社は分からなかったよ」
「奈良へ飛んだ、か」
ハルが小さく笑う。
「弥沙、それは典型的な『物語のすり替え』の痕跡だね。この地の神こそが『岩戸に隠れた天照』だと土地の記憶が証言している。
奈良に片方が飛んだという伝説は、大和側がこの地の神威を欲しがってコピーした、あるいは元来同一であったことを示唆しているんだよ」
「……ふん、相変わらず大和の奴らは、俺様たちの物語を盗むのが上手いぜ」
背後からクナドが苦々しく吐き捨てた。その瞳は、何か遠い過去の『掠奪」を見つめているようだった。
「でも、天岩戸って全国にたくさんあるよね。岩戸に見えたなら、全部そう名付けてるのかも?」
「ここは、どう思う?」
「私は、本物だと感じる。色んな意味で」
狭くて急な石段を用心深く上っていく。社の裏手に回った瞬間、圧倒的な存在感を放つ巨石が視界を塞ぐ。
岩肌には摩崖仏が刻まれていた。単純な線で迷いなく彫られたそれは、朝の光を受けて不思議と光を放っているように見える。
「この岩、不思議なんだよ。本当に薄い壁なの。岩がこんな風になるのかなって思ったよ」
いつかの誰かが掘った摩崖仏。こんな線でしかないのに、神はちゃんとそこに宿ってる。
ひんやりとした岩の冷たさが、肌を通じて全身に伝わる。
その瞬間、周囲の鳥のさえずりや風の音が、ふっと遠のいた。
静寂。まるで、世界から切り離されたような、奇妙な圧迫感――。
「……っ!? 重い……ハル、本が……! 急に、すごく重くなって……!」
弥沙はザックを下ろし、熱を帯びた本を両腕でしっかりと抱きかかえた。
「呼応しているね。正しい扉に辿り着いたから、眠っていた知識が確かな実体として重みを増したんだよ」
ハルの言葉に、彼女は息を呑んだ。
「見て、ハル! 摩崖仏の足元から……」
鏡のように平らな岩が波打った。固形物の常識を捨てて、水面のように揺れる。
そこから......現れた。
──銅鏡。
古ぼけていながらも、一点の曇りもない鏡面だった。青銅の肌は、数千年経ているとは思えないほど滑らかで、掌に乗せれば、その小ささに似合わぬ確かな冷たさと質量が弥沙に伝わってくる。
弥沙が息を呑む。ハルが驚きに目を細める。
クナドは、その鏡を食い入るように見つめ、喉の奥で何かを呟いた。
「……物部、か? いや、まだこんな場所に……」
「物部?」
問いかける弥沙に気付かず、クナドは険しい顔で鏡を凝視している。弥沙はその顔を見て、答えられないやつかなと一人納得する。
「弥沙、その鏡を覗き込んでごらん」
ハルの声に促され、鏡を顔に近づけた。映し出されたのは、弥沙の顔ではなかった。背後に広がる那珂川の山々が映り込み、その山頂を繋ぐように、眩い光の線が走る。
「……ハル! 鏡の中に、ラインが見える。図形だわ」
「図形?」
ハルが驚いたように鏡を覗き込む。
「……これは、この地の拠点を結ぶ『設計図』じゃないかな?どこか分かる?」
弥沙は、鏡に映る那珂川の俯瞰を見つめた。それは、幾つかの拠点を示していた。金色に散らばるそれは、星のようだと感じる。
「これがこの天の岩戸で、安徳台……」
その中でもひときわ輝く点。
「これは、脊振山ね。そういえば、さっき、『もっと上の那珂川の上流』って言葉に、脊振山だと思ってたよ。脊振山系のことかもね。福岡と佐賀の境にある山々をそういうの」
「何か、思い当たる?」とハル。
「脊振には、神功皇后が祀ったという脊振神社の上宮があるよ」
「鯰が言ってた……『神功皇后の話を知る者』の場所か」
「脊振山に行こう」と弥沙が声をかけた。
「ふふふ。どうやら、物語の主導権は完全に君に移ったみたいだね」
ハルの声に押されるように、車に乗り込んだ弥沙はアクセルを踏み込んだ。
背後で、クナドが低く、誰に聞かせるともなく吐き捨てる。
「……『星見の鏡』。あいつらが命懸けで守り抜いた、物部の宝じゃねぇか。まだ残ってたのかよ……」
その呟きは、重いエンジン音とタイヤが砂利を噛む音にかき消され、弥沙たちには届かない。
クナドはただ、険しい眼差しで、重なり合う雲の向こう――神の嶺が隠れる脊振の深山を睨み据えていた。
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※本作は、Amazonにて出版中の拙著の考察本『二柱天照──『高良玉垂宮神秘書』から紡がれる神功皇后と卑弥呼』をベースにした歴史ミステリー小説です。
邪馬台国や日本神話に隠された秘密を、物語を通してより深く詳しく解き明かしています。
一千八百年の謎を巡る旅に、最後までお付き合いいただければ幸いです




