第42話「彼女は、数字だけを見なかった」
第42話「彼女は、数字だけを見なかった」
銀座の朝は、東京のほかのビジネス街とは少し違ったリズムで動いている。
決して遅いわけではない。
むしろ、その逆だった。
歩道にはすでに多くの人が行き交い、建物の間にある細い道路では搬入車両が出入りし、店舗ではショーウィンドウの準備が始まっている。
一方で、上階のオフィスには、通りからは決して見えない活動が少しずつ満ちていく。
そんな建物の一つに、外から見ればそれほど目立たないオフィスがあった。
Mikage Art Advisory。
入口は簡素だった。
わざと豪華に見せるような看板もなければ、来客を感心させるために並べられた受賞歴もない。
待合室に会社の代表者の写真が飾られているわけでもなかった。
しかし、扉をくぐった瞬間、その空気は変わる。
壁沿いには、展覧会のカタログがぎっしりと並んだ本棚。
日本美術史に関する書籍の隣には、建築、保存修復、歴史的建造物、個人コレクションの管理に関する専門書が並んでいる。
その一角では、大型モニターに古い建物をさまざまな角度から撮影した写真が映し出されていた。
そのモニターの前で、一人の女性がタブレットを手に立っている。
彼女の名は――御影莉月。
彼女が見ているのは、価格ではなかった。
少なくとも、それを最初に確認しているわけではない。
「これが、黒瀬ホールディングスからの案件ですか?」
背後からスタッフの声がした。
「ええ」
「それで、この物件を購入したいと?」
「最初の依頼は、取得前の評価です」
莉月は写真を次へと切り替えた。
「書き方が違うわ」
スタッフが近づく。
「どう違うんですか?」
「本当に迷わず購入したいのなら、こういう部分まで私たちに調べさせる必要はないもの」
彼女の指が、一枚の写真の上で止まった。
そこには、何度か改修された形跡のある、広い部屋が映っている。
「ここを見て」
スタッフが画面を覗き込む。
「木のパネルですか?」
「パネルだけじゃないわ」
莉月は画像を拡大した。
「左側の接合部分を見て」
スタッフは目を細める。
「何か、塞がれているように見えますね」
「ええ」
「改修の跡でしょうか?」
「かもしれない」
「それなら、直せばいいのでは?」
莉月はタブレットを下ろした。
「直すことはできるわ」
そしてスタッフを見る。
「問題は、直せるかどうかじゃない」
「では?」
「何を直しているのか、ということよ」
スタッフは黙った。
莉月は再びモニターへ視線を戻す。
建物を単なる資産として見る人間にとって、古い壁は新しくするべき部分だ。
投資家にとって、空いた空間は収益を生み出す可能性になる。
不動産開発業者にとって、床面積は価値へと変換できる数字だ。
けれど、文化資産を扱う人間にとって、一つの部屋は必ずしも建物の面積だけを意味するものではない。
時には、その場所の歴史は、重要ではないと思われている部分にこそ隠れている。
「全体の面積は?」
「約二千平方メートルです」
「ギャラリースペースは?」
「記録上、残っているのは約四百平方メートルです」
「記録上?」
スタッフが別の資料を開く。
「使用状況がまだ完全には明確になっていない部屋がいくつかあります」
「契約は?」
「まだ調査中です」
「所有者は?」
「その構造も、まだ完全には整理できていません」
莉月は小さく息を吐いた。
「それなら、先方が送ってきた物件資料は綺麗すぎるわね」
スタッフが苦笑する。
「よくあることでは?」
「よくあることと、正しいことは別よ」
声を荒らげたわけではない。
だからこそ、その言葉は余計に強く聞こえた。
彼女は再び資料に目を通す。
土地価格。
建物価格。
収益予測。
改修費用。
賃貸の可能性。
すべての数字が整然と並んでいる。
財務面だけを見れば、そのプロジェクトは魅力的だった。
かなり魅力的と言っていい。
けれど莉月は、第一ページでは綺麗に見える案件が、最後のページを開いたあとも同じ姿をしているとは限らない世界に、あまりにも長く身を置いていた。
「この収益予測を作ったのは?」
「黒瀬ホールディングスの不動産チームです」
「社内?」
「一部はそうです」
「それと、西園寺側は?」
「西園寺インベストメントグループも戦略的な協力関係に入っています」
莉月の手が止まった。
「西園寺?」
「はい」
「つまり、この案件は黒瀬だけのものではないのね」
「そうです」
「なるほど」
スタッフが彼女を見る。
「ご存じなんですか?」
「個人的には知らないわ」
莉月はタブレットを机に置いた。
「西園寺の名前なら、十分知られているもの」
「それなら、彼らの影響力も考慮する必要がありますか?」
「物件評価で?」
「はい」
「いいえ」
あまりにも早い返答に、スタッフは少し驚いた。
莉月は続ける。
「私たちが評価するのは、建物、コレクション、使用権、それから開発の可能性よ。背後に誰の名前があるかじゃない」
「ですが、彼らの判断がプロジェクトに影響する可能性はあります」
「なら、プロジェクトの要素として記録すればいいわ」
莉月はペンを手に取る。
「評価を変える理由にはしない」
スタッフは頷いた。
「分かりました」
莉月は再び最初のページへ戻った。
書類の上部にある会社名が、はっきりと目に入る。
黒瀬ホールディングス。
その所有者が若いことも、資料には記載されていた。
けれど、物件についての意思決定に関係する問題がまだ見えていない段階で、所有者の年齢を気にする理由はない。
莉月は、仕事の結果を見る前に人間を判断することを好まなかった。
「この依頼を送ってきたのは?」
「高橋健司さんです」
「黒瀬蓮ではなく?」
「直接ではありません」
「それで、何を求めているの?」
「初期調査です」
莉月が顔を上げる。
「どんな調査?」
「この物件が、文化的価値と商業的価値を持つ資産として検討に値するかどうかです」
「ふうん」
彼女は再び椅子に腰を下ろした。
「かなり無難な書き方ね」
スタッフが小さく笑う。
「それはいいことでは?」
「むしろ無難すぎるわ」
「どういう意味ですか?」
「価格評価だけを求めているなら、仕事は簡単よ」
莉月は背もたれに身体を預ける。
「でも、彼らはその物件を『検討に値するか』まで評価してほしいと言っている」
「つまり?」
「つまり、最終的な形をまだ決めていないということ」
スタッフが資料を見る。
「どこの会社でも、そう言うのでは?」
「いいえ」
莉月は迷いなく答えた。
「質問する前から、答えを決めている会社もあるもの」
彼女はペンの先で机を軽く叩いた。
「自分たちが欲しい答えを『正しい』と言ってくれる人間を探しているだけ」
部屋が再び静かになる。
やがてスタッフが口を開いた。
「もし黒瀬ホールディングスが、そういうタイプだったら?」
莉月はスタッフを見る。
「次の資料を見れば分かるわ」
しばらくして、莉月はその物件を直接見ることにした。
写真だけで評価を出す理由はない。
二人は社用車で現地へ向かった。
銀座は到着したあとも、まだ多くの人で賑わっていた。
対象の建物は、中心エリアからそれほど離れていない一角にありながら、主要な通りの喧騒からは少し隠れるような位置にあった。
外観だけを見れば、大手投資家の注目を集めるような物件には見えない。
だからこそ、莉月は中へ入る前に少しだけ足を止めた。
「古い形をまだ残しているわね」
隣のスタッフが頷く。
「最後の改修は数年前です」
「設計者は?」
「まだ資料が見つかっていません」
「探して」
「分かりました」
莉月は扉へ近づいた。
けれど、すぐには取っ手へ手を伸ばさなかった。
彼女は枠の上部を見ていた。
わずかな色の変化がある。
大きなものではない。
普通の人間なら気づかないかもしれない。
しかし彼女は、改修によって年齢を隠そうとする物を見慣れていた。
「ここには、以前看板があった」
スタッフが上を見る。
「どこにですか?」
「中央部分」
「記録にはありません」
「今の記録には、ね」
莉月は中へ入った。
建物のメインスペースは、外から想像するよりもはるかに広かった。
いくつかの場所はすでに空になっている。
天井には現代的な照明が吊られているが、一部の木造構造はそのまま残されていた。
右側には、かつて展示に使われていたと思われる部屋がある。
壁は白い。
床も綺麗に整えられている。
それでも、一般的な商業ギャラリーとは違う空気があった。
莉月はゆっくりと歩く。
「ここで展示会が開かれていた?」
「古い資料によれば、そうです」
「どのくらい?」
「まだ分かっていません」
「古いカタログを探して」
「何年のものを?」
「全部」
スタッフが少し困ったような顔をする。
「全部ですか?」
「一年だけ探したら、その間に起きた変化を見落とすかもしれないでしょう」
莉月は歩みを進めた。
部屋の奥に、小さな扉がある。
彼女はそれを開いた。
その奥には、保管室があった。
残されている物は多くない。
空になった棚。
古い机が一つ。
そして、いくつかの在庫管理用の印が付けられた箱。
莉月はその一つに近づく。
「開けて」
スタッフは手袋を装着してから箱を開けた。
中には、古いカタログがいくつか入っていた。
莉月はその一冊を手に取る。
表紙には薄く埃が積もっていた。
彼女はゆっくりと息を吹きかける。
そこには、かつて存在していた古いギャラリーの名前が残っていた。
「これは会社の在庫資料じゃないわ」
スタッフがラベルを確認する。
「そうですね」
「じゃあ、どうしてここに保管されているの?」
「まだ分かりません」
「つまり、まだ分かっていないことがもっとあるということね」
莉月はカタログを閉じた。
「記録を取るまで、ほかの物には触らないで」
「分かりました」
彼女は保管室を出た。
廊下で、スタッフが口を開く。
「これだけ不明な部分があるなら、黒瀬ホールディングスは、それでも購入すると思いますか?」
莉月はすぐには答えなかった。
窓の近くで足を止める。
そこからは、銀座の通りがよく見えた。
「数字だけを見るなら、そうかもしれない」
「全部を見るなら?」
「分からないわ」
スタッフが彼女を見る。
「つまり、まだ分からない?」
「ええ」
莉月は薄く笑った。
「だから、まだ調査しているのよ」
銀座に夕方の気配が近づく頃、莉月はオフィスへ戻った。
初期報告の作成が始まる。
しかし今回は、すぐに数字を評価表へ入力するようスタッフへ指示しなかった。
その代わり、二つの欄を追加する。
財務的価値。
文化的価値。
そして三つ目の欄。
変更による影響。
向かいに座っていたスタッフが画面を見る。
「どうして三つ目が必要なんですか?」
「文化的価値は、価格だけの話ではないからよ」
「例えば?」
「ある部屋が歴史的価値によって高い価値を持っていたとして、その部屋を商業面積を増やすために壊したとする」
莉月は続ける。
「その失われるものを、単純な改修費用として数字に入れることはできないでしょう」
「でも、財務的には利益が増える可能性があります」
「その通り」
「なら、二つの可能性を提示する必要がありますね」
「二つ以上よ」
莉月は入力を続ける。
「利益だけを計算すれば、一つの答えが出る」
「文化的価値を計算すれば?」
「違う答えになる」
「どちらが正しいんですか?」
莉月の指が止まった。
「それは私の質問じゃないわ」
スタッフは黙って待つ。
「私たちが考えるべきなのは――」
莉月は続けた。
「両方を知った上で、所有者がどんな判断をしたいのか、ということよ」
彼女はノートパソコンを閉じた。
「一番大きな数字だけが欲しいのなら、普通の報告書を送ればいい」
「そうでなかったら?」
「その場合は、意思決定をする人と話す必要がある」
スタッフが黙り込む。
「つまり、黒瀬蓮さんと会いたいんですか?」
莉月は、まだ画面に表示されている会社名を見る。
まだ、個人的に会う理由はない。
けれど、今は仕事上の理由がある。
本当にその人が、自分が何を買おうとしているのか理解しているのかを知る必要がある。
「まだよ」
その答えに、スタッフは少し戸惑った。
「まだ?」
「まずは追加資料を依頼する」
「返答が来たら?」
「内容を読む」
「もし内容が合わなかったら?」
「そこで終わり」
「合っていたら?」
莉月は再びタブレットを手に取った。
「その時に、面談を申し込む」
スタッフは頷いた。
「分かりました」
しかし、振り返ろうとしたところで、莉月が付け加える。
「私がもう興味を持っているとは伝えないで」
「どうしてですか?」
「まだ興味を持っていないから」
彼女は物件の写真を見つめる。
「ただ、知りたいだけよ」
「それも同じでは?」
「違うわ」
その笑みは、とても薄かった。
「興味を持つということは、すでに期待を持っているということだから」
彼女は再び資料を開く。
「私はまだ、何も期待していない」
数時間後、正式なメールが黒瀬ホールディングスへ送られた。
依頼文は長くなかった。
しかし、その内容は十分に細かいものだった。
Mikage Art Advisoryから求められたのは、物件の歴史、文化スペースの使用権、所蔵美術品のインベントリ、過去の契約書、建物構造の変更履歴、そして取得後の開発方針に関する資料だった。
高橋はそれを自分のオフィスで受け取った。
最後まで読む。
そして、もう一度読み返した。
別の報告書を確認していた蓮が顔を上げる。
「どうした?」
「ミカゲからの返答です」
「早いな」
「承諾ではありません」
蓮の指がタブレットの上で止まった。
「断り?」
「それでもありません」
「じゃあ?」
「追加資料の要求です」
蓮が手を伸ばす。
「見せて」
高橋はタブレットを渡した。
蓮は要求事項を読む。
読み進めるほど、一つのことがはっきりしてきた。
莉月は、物件の売却価値だけに興味を持っているわけではない。
建物の奥に何があるのかを知ろうとしている。
蓮はタブレットを返した。
「全部出して」
高橋が彼を見る。
「全部ですか?」
「自分たちが何を買うのか知りたいなら、評価に必要なデータを隠すな」
「分かりました」
「それと、報告書を綺麗に見せようとするな」
「承知しました」
高橋が笑う。
「どうやら、彼女たちの仕事の進め方はお気に召したようですね」
蓮は首を横に振った。
「まだだ」
「まだ?」
「見たのは質問事項だけだ」
「ですが――」
蓮は再び画面を見る。
「質問は筋が通っている」
高橋が小さく笑った。
「黒瀬様にしてみれば、それだけでもかなり高い評価ですね」
「大げさだ」
「はい」
高橋はタブレットを受け取った。
「それでは、すべての資料を送ります」
蓮は目の前の書類へ戻った。
しかし、高橋が部屋を出たあと、一つだけ考えたことがあった。
莉月はまだ、蓮と会っていない。
話したことすらない。
それでも、彼女が資料を要求する方法から、蓮には一つの特徴がはっきりと見えていた。
彼女は、最初に渡された数字をそのまま受け入れない。
その数字の奥に何があるのかを探している。
蓮は再び物件資料へ目を落とす。
「面白いな」
それは、彼女自身に興味を持ったという意味ではない。
まだ、そこまでではない。
面白いのは、これまで蓮のビジネスの世界に入ってきた多くのコンサルタントとは異なる、その仕事の進め方だった。
普通なら、こう尋ねる。
いくらの価値があるのか?
しかし、御影莉月という女性が尋ねたのは――
そもそも、何を評価しているのか?
だった。
一方、Mikage Art Advisoryでは、黒瀬ホールディングスが追加資料を送ってきたという通知を莉月が受け取っていた。
彼女は一つずつ開いていく。
重要な部分が意図的に空欄にされていることはない。
古い資料も提供されている。
過去の使用履歴も添付されている。
いくつかの法的な記録については、まだ追加確認が必要ではあるものの、それらも資料として添えられていた。
莉月は最後のページまで目を通した。
そして、手を止める。
「全部、出してきたわね」
隣のスタッフが頷いた。
「そのようです」
「都合のいい部分だけを選ぼうとはしていない?」
「していません」
「急いでくれとも言っていない?」
「はい」
莉月は椅子の背もたれに身体を預ける。
「面白い」
スタッフが笑う。
「さっきも言っていましたよ」
「だって、本当に面白いもの」
「では、黒瀬ホールディングスは違うということですか?」
莉月はゆっくりと首を横に振った。
「まだ、そう結論は出せない」
「では、何が分かったんです?」
莉月は資料の一つを開いた。
「所有者は、調査結果によってその物件が購入に値しないと判断されることを恐れていないようね」
「どうしてですか?」
「本当に購入したいだけなら、調査を無視することだってできるもの」
スタッフは黙った。
莉月は続ける。
「それなのに、私たちが求めた資料をそのまま出してきた」
「私たちを信頼している?」
「それも、まだ分からない」
「では?」
「ただ真実を知りたいだけなのかもしれない」
その言葉を口にしたところで、莉月は一瞬止まった。
自分の望む答えを求める人間と、情報を求める人間との間には、大きな違いがある。
前者は、結果が期待と違えば怒る。
後者は、情報によって判断そのものを変える。
黒瀬蓮がどちらなのか、莉月にはまだ分からない。
しかし今は、その答えを知りたいと思うようになっていた。
彼女は黒瀬ホールディングスの企業プロフィールを開いた。
最初のページに、所有者の名前が表示される。
黒瀬蓮。
若い。
会社は急速に成長している。
資産は増えている。
ビジネスネットワークも広がっている。
それだけの情報があれば、他人ならいくらでも結論を作るだろう。
しかし莉月は、誰かに会う前から結論を作ることを好まなかった。
彼女はプロフィールを閉じる。
そして再び物件資料を開いた。
「黒瀬ホールディングスへ連絡して」
スタッフが振り向く。
「追加資料の依頼ですか?」
「違う」
「では?」
莉月は顔を上げる。
「会社のオーナーと会いたいと伝えて」
スタッフが少し驚いた。
「いきなりですか?」
「ええ」
「何か特別な理由は必要でしょうか?」
莉月は少しだけ黙った。
そして、落ち着いた声で答える。
「本当の理由を伝えて」
「それは?」
「彼がこの物件をどう見ているのか知りたい」
「投資価値ではなく?」
「違う」
「コレクションでも?」
「それも違う」
スタッフは次の言葉を待った。
莉月は、画面に表示された名前を再び見つめる。
「その二つなら、資料から確認できるもの」
彼女はゆっくりとノートパソコンを閉じた。
「まだ確認できないのは、意思決定をする人そのものよ」
部屋が静まり返る。
莉月は立ち上がった。
黒瀬ホールディングスという名前が自分の机に届いてから初めて、彼女はそのプロジェクトを単なる一つの資料として見なくなっていた。
すべての数字の裏には、一人の人間がいる。
建物を単なる金を生む資産にするのか、それとも簡単には数値化できない価値を残すのか。
その判断を下す人間がいる。
莉月には、まだ答えが分からない。
だから、推測するつもりもない。
直接、尋ねる。
「それなら」
そう言いながら、莉月はコートを手に取った。
「黒瀬蓮さんに会いたい」
その面会は、まだ実現していない。
まだ第一印象もない。
まだ個人的な会話もない。
そして、互いを仕事上の相手以上に見る理由もない。
けれど、二つの世界の間に、細い一本の線が引かれた。
投資の世界。
そして、芸術の世界。
一方には、判断を下す前に一つの資産の本当の価値を知ろうとする会社経営者がいる。
もう一方には、その資産の運命を決める人間を理解するまでは評価を下したくないコンサルタントがいる。
二人はまだ知らない。
この銀座のプロジェクトが、単なる一つの取引を越えて、自分たちをさらに近づけることになるとは。
今の莉月にある目的は、一つだけだった。
資料の最初のページに記された名前の人物に会うこと。
黒瀬蓮。
そして、その後で――
自分自身で判断する。
数字ではない。
評判でもない。
その人の答えによって。
---
【次43話――「この絵に、いくら払う?」】
蓮と莉月の初対面が、銀座にあるコレクションスペースの一室でついに実現する。
莉月は、いきなり物件価格やビジネス上の協力について話すことはしない。
代わりに、一つの美術作品を蓮の前へ持ってきて、単純だが意図的な質問を投げかける。
それは、企業経営者である蓮が、数字だけでは説明できない物の価値をどのように見ているのかを確かめるためだった。
蓮の答えによって、莉月はその男が美術の世界をコレクターのように理解しているわけではないことに気づく。
しかし、だからこそ――
彼は、自分が理解していないものを理解しているふりをしない。
【次43話へ続く……】




